後世に残しておきたい 九州の農業に関する風俗・土木・建築遺産
「九州」は 明治以降に確定された呼び名で 古くは筑紫島(つくしのしま)といわれた
日本最古の歴史書である『古事記(712年)』によれば 日本はイザナギ・イザナミの国生み神話で 淡道之穂之狭別島(淡路)
伊予之二名島(四国)・隠伎之三子島(隠岐)・筑紫島(九州)・伊伎島(壱岐)・津島(対馬)・佐度島(佐渡)・大倭豊秋津島(本州)
の順で出現し生まれた八つの島から成る「大八島国」とされた また「つくし」とは 地のつきはてるところを意味するともいわれる
筑紫島には 白日別(筑紫)・豊日別(豊)・建日向日豊久士比泥別(火)・建日別(襲)の4つの顔(国)があると記されている
古代 国が生まれる以前の九州北部沿岸と朝鮮半島南の沿岸部は ひとつの文化圏となっていたとする説があり 古来より九州北部は
大陸文化の玄関口であった 福岡市の旧石器時代から弥生時代まで続く板付遺跡には 佐賀県唐津市の菜畑遺跡と共に最古の水稲耕作跡があり
稲作伝来の地でもある また 1世紀の『後漢書』記載される「光武賜以印綬」通りの金印が江戸時代の福岡市の志賀島から発見されている
その後 7世紀末からの律令制によって 筑紫が筑前・筑後 火が肥前・肥後 豊が豊前・豊後にそれぞれ分割され 南部に日向が制定された
文武天皇の大宝元年(701)に制定された大宝律令によって筑紫島と壱岐国と対馬国は 五畿七道のうち西海道とされた
大宝2年(702)には 日向国から薩摩国が分立し 和銅6年(713)には 日向国から大隅国が分立し 筑紫島は九国となり江戸時代まで続いた