堀川用水と菱野の三連水車
筑紫平野の東部に位置する筑後川の左岸地域は 巨瀬川と耳納連山から流れ出す谷川によって潤い 山麓から筑後川に至る広い範囲が
古代より果樹園芸林地や農耕地として利用されてきた 一方の筑後川右岸地域は水利が悪く 江戸時代の初期まで小川や溜池を用水とする
小さな田が散在する程度で松原や荒地が多く目立っていた 寛文2年(1662)の夏には 草まで枯れ果てる大旱魃に見舞われ 福岡藩は
この最大規模の窮状を克服すべく 筑後川に石堰を築き 樋を掛け水路を開削し 150町歩の田を整備する計画を立て 翌年春に完工した
その後 享保7年(1722)に 石堰を上流に移し岩盤をくり抜いて取水口を設け 新たな山田取水堰と切貫水門が誕生した
しかし 後に新田の増加で堀川の水量が不足し下流の田には水が行き渡らなくなった また井路が通らない長渕・余名持・中の各村は
毎年旱魃に見舞われ疲弊した 宝暦9年(1759)に下大庭村の庄屋・古賀義重が 深刻な水不足の問題を解決すべく 新堀川の開削を図り
自費で測量を始め藩に上申書を提出した 同年12月に福岡藩の許可を得た上で民間普請として着工した
工事は 取水口の切貫水門の内径を2倍に切広げる拡幅から始められ 既存堀川の拡幅・堀川に分岐を設けて新堀川の開削へと続き
明和元年(1764)に完工した この工事によって堀川井路の受益面積は370町歩まで広がった
寛政元年(1789)に菱野に揚水三連水車が完成し 一部地盤の高い地域の灌漑に成功 後に二連水車2基が追加された
3基の自動回転水車による揚水灌漑面積は35町歩の広さに及び 日本最古の実稼働水車として貴重なものである
毎年 麦の収穫が終わる6月17日に 山田堰の水神社で行われる神事と山田堰通水式によって稼働を開始し
朝倉の「夏の風物詩」として9月下旬ごろまで昼夜稼働し田を潤す また 水車は5年ごとに作り替えられ その技術を継承している
寛政2年(1790)には かねてより山田取水堰の拡張と全面改修の必要性を感じ 現・山田堰の絵図面を作成し上申していた
古賀義重に対し 福岡藩は山田堰大改修の命令を下した 義重は73歳の高齢となり 数々の普請事から名を「百工」としていた
百工は井堰を川幅まで広げ水量の確保を図ったが難工事の連続であった 漸く完成した三代目の山田井堰は 取水量を増やすと共に
激流と水圧に耐え得るための匠の技が随所に施され 今に通用する画期的な堰となっている
また中舟通しや南舟通しがあり かつて水運利用の多かった筑後川を往来する帆掛け舟や丸太筏が 舟通しを下った情景を今に伝える
菱野の三連水車
自動回転三連水車の揚水施設 寛政1年(1789)完成 水車はその都度作り替えられ現在に至る
上車・直径:4.76m 中車・直径:4.30m 下車・直径:3.98m
柄杓数:合計132個 毎分汲水量:6.1トン 当初は二連水車で建造された後 三連水車に改造された
三島二連水車
久重(ひさじげ)二連水車