文政2年(1819)に干拓された 四百町新地に築造された樋門が大鞘樋門と呼ばれ 築造された水門は五か所で 北から穀樋五枚戸 二番樋三枚戸 江中樋四枚戸(現三枚戸) 新穀樋七枚戸(昭和42年架替え) 三番樋三枚戸(埋没)である 穀樋は備前流と呼ばれている築造技法であるが 二番樋・江中樋は合法と呼ばれる構築法になっている 引き続き文政4年(1821)に七百町新地が干拓されたが この後の樋門はすべて備前流・合法により築造されている