白川北岸平地北半の過去最大約700町歩(695ha)の水田を潤していた 用水路の堰です
天正16年(1588)夏 肥後北半を拝領した加藤清正が その入国にあたり 此処よリ北 高台の上にあたる二重峠で
案内役の西暁坊と白川流域を眺めた時に 「あの草野に水を白川より分流し大津方面まで水を注ぐには 右の瀬田から上流の
瀬田山麓に・・・取水口を作リて掘リなせば 水かかりべく思はれ候」との提案を受けて構想した用水路の取水口です
多忙な藩主清正の後を継いだ子忠広が元和4年(1618)から工を起こし 白川が蛇行し始めるここ瀬田山鍋倉の瀬に
清正秘伝の「銚子口」の石堰を設け 瀬田・大林と導きましたが 導水の不手際や加藤家改易などあり
寛永9年(1632)に中断しました 同年肥後藩に入国した細川忠利が 寛永13年(1636)に工事を再開
大津から菊陽への難工事を経て 次の細川光尚の代に坪井川まで完工したと伝えられています(大津史)
菊陽原水以西は「堀川」と呼ぱれたこの水路は 全域に亘り幾筋もの井樋で南側に分流して稲作の他各種の産業を興しました
また史料によれば 川舟で米を運ぶ水路として利用されたとも書かれています 江戸中後期からは度々の洪水に見舞われ
特に寛政8年辰の年(1796)文政11年子の年(1828)の2度の洪水に この取水口を始めとする各施設が壊され
文政のとき この川下300mのところに閘門が設けられました さらに安政期(1855頃)に大津手永総庄屋山隈権兵衛が
上井手の改修に着主 まず @ 現閘門を現位置に設置 A 瀬田上の原に山水の逃がし口 B 瀬田内山の調節口
C 森〜引水の水路を湾曲させた柳塘 D 引水の吐丹防川の水門などと 瀬田から大津まで井出の改良に務め
水流を安定させました 現在では 鉄とコンクリートの堰にその役目を譲リましたが 石堰を過ぎる流れは
今も滔々と下って約24km 大津・菊陽・合志の大地460haを潤し
地域の産業・文化を繁栄させる大きな原動力となっております 古の恩を今に蒙る史跡です
平成20年12月20日 大津町教育委員会