佐賀市大和町の嘉瀬川と多布施川の分流点にある「石井樋」は 治水の神様といわれた成富兵庫茂安によって
約400年前の元和年間(1615〜1623)につくられた水路である 佐賀の城下町や農地を拓くために必要な飲料水や潅漑用水を
供給するとともに 流域の水害を防ぐ働きも持っていた 昭和35年(1960)上流に川上頭首工という取水施設がつくられるまで
約350年もの間 水不足や水害から佐賀平野を守り続けてきた日本でも最も古い利水施設のひとつであり 歴史的・文化的な
価値の高い土木遺産である 廃棄され土砂に埋没していましたが 平成17年に石井樋地区歴史的水辺整備事業により復元された
独自の取水システムで 流れを弱めて土砂を沈下させ綺麗な水を石井樋へ導く施設である 嘉瀬川の水を大井手堰でせき止め
「天狗の鼻」と「象の鼻」の間の水路に導きます この水は後に続く石井樋を通って佐賀城下へと流れていく
前方の右手奥には 洪水時に内土居の野越を越えた「溢れ水」を一時的にためる遊水地及び本土居(嘉瀬川の本堤防)や
内土居にあたる水の勢いを弱める竹林などがある 「石井樋」は古く肥前国の農業水利を記した「疏導要書」にも記述されている
佐賀城下は 頻繁に断水と干魃を繰り返すなど水不足が深刻であったため 成富兵庫茂安は嘉瀬川から水を引くことを考えたが
嘉瀬川は天井川で城下へ水を導くには便利な川であるが ひとたび洪水になると堤防が決壊する恐れのある危険な川でもあった
また 流れには砂を多く含むことから 綺麗な水を引き込む工夫も必要であった そのため城下を洪水から守り 尚且つ
綺麗な水を取水する治水と利水両面の機能を備えた 茂安独特の優れた取水システム「石井樋」を考案し完成させた
嘉瀬川の水をせき止め多布施川に導く施設 左手前の地面に見える石積みは 江戸時代初期に造られた大井手堰の一部である
奥に見える大井手堰は昔の堰を参考に石やコンクリートで再現したものである
出鼻は水流を対岸に交わし井樋への水流を弱める働きをする この井樋は佐賀城下に必要な量の水を多布施川に取りこむため
一定量の水を安定して取水出来るよう3本の井樋で構成され 洪水の時など大量の水が多布施川に流れこまない構造になっている
井樋とは 川と川の接点に設けられた水の出入口のことである
成富兵庫茂安が行った治水・利水事業は 現在でも恵みを与えており今も人々の尊敬を集めている
佐賀藩は35万7千石とされていたが 洪水を緩和し水をひくことにより 後には2倍ほどの収益を得るようになった
また 石井樋から導いた多布施川の水路は 城下5千戸の生活用水をも供給し 昭和35年まで利用されていた
穴太積み(あのうづみ)
滋賀県の大津市坂本近くにある穴太の石工集団が積んだ石垣のことで 織田信長の安土城築城で全国に広まった
穴太積みとは 自然石を積み上げた野面積みのことで 1600年代に作られた唐津市の名護屋城も穴太衆の技術が使われている
はしご胴木(どうぎ)
湿地など地盤の弱いところに石積みを行うと石の重みで部分的に沈下が起きる この沈下を抑えるために設置する
はしご状の土台のことである 佐賀城築城でも使われ 水の中でも腐りにくい松の木が多く使用されていまる
朶沈床(そだちんしょう)
底砂の吸出による石積み等の崩壊を防ぐため 明治初期にオランダから伝わった伝統的な河川技術で 大井手堰石積(護床工)の
安定のために 現代技術の吸出防止材と併用し最下流部に設置した
疏導要書は、佐賀藩の南部長恒により 天保5年(1834)に書かれたもので 佐賀藩内河川ごとの治水や利水についての
状況と成富兵庫茂安の事跡を細かく記してある また 成富兵庫茂安に影響を与えた加藤清正の肥後熊本の河川の様子や
当時の測量器具とその使用法にまでふれている