2011.6.5  酒を考える No.3 米酒の歴史 明治~昭和・戦前

参考 wikipedia:日本酒の歴史

明治時代

明治8年 (1875)酒株と規制を撤廃し 酒類税則を酒造と営業(販売)の2種類の税に統合した
この規制緩和により約3万ヶ所を越える酒蔵が誕生した 自家製造酒は年1石までとなった

酒が税の重要財源とされ 不当な重税が課せられる

江戸幕府が締結した通商不平等条約により 関税自主権を持てなかった新政府は
輸出入の無い 国内生産・国内消費の日本酒から徴収される酒税に注目し歳入の増収を図った
その結果 酒蔵に重税を押しつけ 歳入の30%前後を賄うまでに酒税は膨れあがった
明治15年(1882)自家製造酒は免許監札が必要となり 鑑札料として80銭を納入する義務が課せられ
重税に押しつぶされる酒蔵が増え 明治15年(1882)には 1万6千ヶ所まで激減してしまった

しかし政府は 欧米化を急ぐあまり ビールやワインには税を軽くしたことが
なおさら重税にあえぐ業者側の反発を招き 自由民権運動と連携を強めた激しい抵抗に合い
その後30年に及ぶ 政府と酒蔵の攻防が続くこととなった

政府主導の強引な近代化による伝統技術の喪失

明治27年(1894)から始まった日清戦争に勝利した政府は 獲得した賠償金で西洋微生物学を導入し
酒造の近代化促進を図った その背景には 歳入を酒税に頼る当時の国家財政体質が潜在していた
明治30年(1897)には 酒税の歳入に占める割合は33%にまで増えていた

明治政府が旗を振り押し進める醸造の近代化とは 「酒造を工業化・数値化する」ことであって
杜氏を初めとする蔵人達の 経験と勘による小規模家内工業的な伝統的個性的要素とは隔たりがあった

政府は 尚も歳入増加を目論み 明治32年(1899)自家製酒税法を廃止 自家製酒の製造を禁止とした
しかしこれ以降は他の歳入が増加し 酒税が歳入に占める割合は 相対的に頭打ちとなり下落していく

流通革命と一極集中 地酒の危機

明治34年(1901)白鶴酒造が1升ビンでの清酒販売を開始すると 酒造大手はビン詰めにシフトしていく
ビン詰めは 個人販売を推し進め 晩酌による家庭内消費を促し 現在へと繋がる飲酒形態を作り出した

地産地消であった流通形態も大きく変化し 灘・伏見の有名銘柄が全国へと広がり 地酒の危機を迎えた

醸造工程の必要がない工業製品として新式焼酎の発売

明治44年(1911)宇和島の日本酒精が 自社生産したアルコールに加水した「新式焼酎」を発売した

これは砲弾の火薬用に製造されたアルコールが 日露戦争の終結と台湾から輸入される低価格品によって
過剰となったものを酒にして販売した物であった
同時に社名も「日本酒類醸造」と改名し 酒造業として再生を図った


大正時代

大正時代に特筆すべきことは 合成清酒の発売が始まったことである 大正7年(1918)夏の
米価急騰による米騒動をうけて 「食料に回すべき米で酒造することは贅沢」という考えが広まった
また 日本酒精に端を発し 飲用に転化されたアルコールの蒸留技術が進化していたことが背景にある

大正11年(1922)国立理化学研究所の鈴木梅太郎らによって 合成清酒の製法特許が申請され承認された
この合成酒は「理研酒」と呼ばれ 特許が公開されて 合成清酒の製法として半ば標準的なものとなった
大正12年(1923)神奈川県藤沢市の大和醸造から 理研式新清酒として「新進」「如楓」が発売された
このことが 後に大きく影響し 清酒のアルコール添加への道筋をつける結果となってしまったといわれる

合成清酒には 理研式・電化式・高橋式があったが 理研の鈴木梅太郎が発明した方法が普及していった
製法は アミノ酸を含有するタンパク質分解液に 砂糖または米麹その他の糖含物質を添加し
清酒酵母を加えて発酵させ これに有機酸・グリセリン・糊精その他の調味物質を補添したものである
製品としては 理化学興業の「利久」大和醸造の「新進」が代表的な銘柄であった

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左:合成酒を前にする鈴木梅太郎/右:鈴木梅太郎(「利久」の酒だるの前で)
理化学研究所公式サイトから

大和醸造は 関東大震災によって甚大な被害を受けたが復活した 戦後は三楽酒造に吸収され
「新進」の製造も打ち切りとなった 現在はキリン子会社のメルシャンの工場となりワイン製造を行う
理化学興業は 昭和13年(1938)合成酒部門を理研酒工業として分離設立
昭和25年(1950)利久醗酵工業に改称 昭和30年(1955)協和発酵に合併したが 酒類部門を分離して
平成14年(2002)アサヒビールとの合弁会社・アサヒ協和酒類製造を設立した
「利久」は今でも アサヒビールのブランドで販売されている

電化式は 数種のアミノ酸を約30%くらいのエチルアルコール液に溶解し 電気分解して
アルデヒド・高級アルコール・エステルを得る この変化は酵母の働きと同等である
これに有機酸その他の調味料を補足し製造された
寿屋「千代田」・菊美屋「新興国」・宮城島酒造場「日本平」・興北酒造「興北」などがある

高橋式は 清酒中に有る同様の各種成分を希薄エチルアルコールに溶解し 熟酵母を加え香味の調熟を図る

大正15年(1926)酒税の歳入に占める割合は24.4%まで下落するが まだ歳入の首位を維持していた


昭和時代・戦前

清酒業界は戦禍により 回復不可能と思われるほどの致命的ダメージを受け受難の時代を迎えた

昭和12年(1937)日中戦争勃発 日本酒が戦地に徴用され 内地では日本酒の品不足を招いた

昭和14年(1939)には米穀搗精等制限令(白米禁止令)が発令され 戦時下の食料を確保するため
米の備蓄に舵が切られ 市中に出回る流通米が半減し「節米運動」が叫ばれた
これにより 日本酒原材料の米が不足し 酒造米200万石が削減された

昭和15年(1940)酒類販売価格の公定価格制を導入したことで 正規の小売店では樽に水増しをして
金魚でも泳げるという「金魚酒」と揶揄される薄い酒まで出回る反面
品質の良い酒は 闇市場・闇値で取引されるようになった このためアルコール濃度の規格が制定され
「特級」「上級」「中級」「並」の4段階が決められた

一方満州国では 既製の日本酒が凍結し また飲料水の硬度が非常に高く酒造が困難であったことから
大量のアルコールを添加し 味覚調整のため糖類等を添加する方法が研究されていた
その手法は 白米10石の醪(もろみ)に 濾過精製した高純度の純粋アルコールを30度まで希釈し
3~5石添加するもので 昭和14年(1939)には奉天の嘉納酒造が第一次増産酒の開発に成功していた
昭和16年(1941)満州地域の酒蔵で第一次増産酒の実用化が始まった 同年12月太平洋戦争勃発

戦線拡大が続く昭和17年(1942)には 食糧管理法が制定され酒造米も配給制となった
米不足の中 内地においても増産酒の研究が進められ 清酒の料を3倍にするまで
アルコール添加をする手法が編み出された 第二次増産酒の誕生である
昭和18年(1943)ついに第二次増産酒を追随し合法化する形で 酒税法及びアルコール専売法を改正し
関係法の整備を行った 同年 酒類も不足し配給制となった
昭和19年(1944)全ての酒蔵が第二次増産酒に切替えたが
日本酒の純粋性と品質低下を危惧する意見もあって 第二次増産酒は清酒三級とするよう通達を出した
しかし大方の予想どおり 大半の流通酒がアルコール添加の3倍酒である三級酒となってしまった

添加する醸造アルコールは 主に芋から精製されたが やがて芋も不足すると 小学生を動員し
野山で拾うドングリを原料とした さらにはガソリンを原料とする無水アルコールも転用されたが
国民に禁酒令を出すには至らなかった

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