2020.05.10 くいだおれ

「京の着倒れ 浪速の食い倒れ」とは 歩けないほど沢山の着物を重ね着して倒れるとか
食いすぎて苦しくなって倒れると言うことではなく 「贅を尽くす」対象が衣食の違いはあっても
ともに身代をつぶすほど道楽が過ぎるという意味である 身代を潰すというのは破産することで
大店(おおだな)や富商のことを指している よって「くいだおれ」の対象となるのは
「たこ焼き・お好み焼き」などの「粉もん」や「串カツ」「うどん」などの
B級グルメの類(たぐい)ではないことはあきらかなのだが 今では多くの人達が誤解をしている

その一因として考えられるのは 「くいだおれ」という名の食堂が開店したことにある
「くいだおれ」は 戦後の昭和24年(1949)山田六郎が 戦禍で焼け野原となった大阪の道頓堀に
創業開店した大衆食堂で 屋号は京の着倒れ・江戸の飲み倒れとあわせ 浪速の食い倒れと
いわれたことから名付けられた 10年後の昭和34年(1959)には8階建てのビルを建設して
1階を総合食堂 2階に居酒屋 3階は日本料理 4〜8階がお座敷割烹とした

電気人形の「くいだおれ太郎」は創業翌年に置かれ 次第に大阪名物として認知されるようになり
全国的に「大阪のくいだおれ」として名を馳せた

平成20年(2008)年7月8日 建物の老朽化や時代的な経営環境の変化などを理由に閉店された

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提供:Photock.jp くいだおれ太郎

そもそも 食い道楽によって商いが立ち行かなくなるという話は 近代になってからはあまり無く
多くは江戸時代の話である 江戸時代の浪速は 全国から産米が集められ 堂島に米相場が立ち
各藩の米蔵が堂島周辺から北に建てられた 土佐堀から南には 鴻池や淀屋などの豪商が居を構え
本町あたりまでは商人の町として繁栄した さらにその南側は 一般に「みなみ」と呼ばれ
「死ぬまで侍を見たことがない」と言われるほど 住民の多くが町人で歓楽街も多かった

北の蔵屋敷を除く町中は 全て天領とされ治安もよく町人文化が大いに栄えた 道頓堀には
一年を通じて芝居小屋が立ち 芝居茶屋と呼ばれる芝居席と食事を扱う店が多く立ち並んでいた
幕の内弁当とは 芝居の幕間に食べる弁当のことで 茶屋からわざわざ芝居の枡席に届けられた
このように 商人町民も他所に比べれば裕福な方で 食に関してもそれなりの贅沢さはあったと
思われるが 身代を潰すほどの酒食は 庶民に関しては縁遠いものであった

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提供:フリー素材.com 道頓堀

豪商や大店が破産する程の「食道楽」とは如何なるものかといえば まず主人専用の料理人を雇い
例えば 新鮮な明石の鯛を食べたいと思えば 船頭数人と舟を明石に向かわせ
早朝に水揚げされた鯛を 生簀に泳がせながら大坂まで運ぶということをやってのけたわけである

それ相応の利潤が お店(たな)に入っていた時は 只の道楽に過ぎなかったものが
米の凶作などに起因する不況などに遭遇すると 瞬く間に身代が傾き
食い道楽過ぎて「くいだおれ」と揶揄された 結果として奉公先を失った料理人が巷に溢れ
料理店を開業した これが町人に支持され 幕末から明治にかけて
大坂独自の「割烹料理の店」として繁盛し 店も大きくなって使用人が増えた

料理をする厨房を板場といい そこに立つ料理人を板前といった その頂点にはフランス料理の
オーナーシェフ相応の権威を持つ「板長」がおり 雇われの板長は花板とも呼ばれた 板場には
最下位の追い回しから 洗い方・八寸場・蒸場・揚場・向板・焼方・椀方・煮方・二番までの
階位があった 多くの板前が修行途中で脱落しては それなりの店を構えたことから裾野が広がり
現在の「大阪の食い倒れ」が形成された 明治以降は 専用の料理人を雇うほどの豪商はなく
腕の良い板前のパトロンとなることが一種のステイタスとなり 腕利きの料理人が大阪に集まった
このような話は 2001年に放送されたNHKの朝ドラ「ほんまもん」にも投影されている

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提供:Photock.jp 新世界

大阪の「たこ焼き」は 大阪西成・会津屋の初代・遠藤留吉が「明石焼き」にヒントを得て
昭和10年(1935)に創業したもので 当初は醤油味で何もかけずに食べていたが
戦後にとんかつソースが開発されると ソースと青のりをふりかけて食べる方法が定着していった

「お好み焼き」は 明治に東京の「もんじゃ焼き」の粉を増やした「どんどん焼き」が
関西ではソース味が手軽に楽しめる「一銭洋食」という名で広まったのが元とされ 大正時代には
「お好み焼き」の名が 図らずも東京で出現している 大阪で「お好み焼き」が広がるのは
昭和16年頃であったとされており 最古の店は 昭和13年頃に開店した「以登屋」とされる

串カツは 元々東京の串揚げが発祥とされ 昭和4年(1929)新世界に開店した「だるま」が
串に刺した一口サイズの肉を揚げたのが始まりとされ その後 海鮮類や野菜など様々なものに
ネタを広げつつ大阪中に広がった 新世界は 遊郭街の飛田や日雇労働者の多いあいりん地区が
隣接することなどから マイナー感がつきまとう地区とされてきたが 平成8年(1996)に
NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の舞台となり 一躍 全国的に有名となった
それにつれ 「新世界の串カツ」が 一挙に全国で認知されるようになり いまでは串カツ屋が
ひしめき合う 大阪屈指のグルメタウンとなった

一方 割烹の小料理屋は 明治の終わり頃から大阪独自のカウンター割烹となって
大正から昭和の初め頃には大阪で大流行し 法善寺横丁などに集中した後全国に波及した

割烹懐石などを供する高級日本料理店も 北の梅田・中の船場・ミナミなどに多く存在しているが
大阪で「くいだおれする」などと表現するガイドブックなどには 掲載されることは少なく
主体は「粉もん」「串カツ」などのB級グルメが多数を占めている


「京の着倒れ」「浪速の食い倒れ」のほか「江戸の履き倒れ」ということわざも存在する
武家の多い江戸では 度々 奢侈禁制の触れが出され 目につきにくい足元の履物に
贅を尽くすことが洒落者とされた この履き倒れは 名古屋や神戸にもあてはめられている
履き倒れのほかには「普請だおれ」があり 堺や奈良で言われることが多い
また奈良では 別に「寝だおれ」ともいわれることがある 近年 特に京都や大阪と比べられ
観光地としては 極端に閉店時間が早いとか 夜に集客する場所がないとか批判されるたびに
「寝だおれ」と揶揄されるが この意味合いの間違いも歴史家・郷土史家から指摘されている

江戸時代の奈良でも 今と同じように鹿が神聖化され 自分の敷地内や自宅前の道路で死んだ鹿を
勝手に処理することは許されていなかった 鹿の死骸処理は興福寺に依頼する必要があり
その処理費用は 死骸のあった家の負担とされたため 敷地内や自宅前で死んだ鹿を発見すると
まだ起床せず扉を閉ざした他家の前に 死骸をそっと移動させた
それが順繰りされ 一番最後に起きた家が 興福寺に鹿の死骸処理を依頼するはめになり
その費用を負担させられたことから「奈良の寝だおれ」といわれるようになったと伝わっている

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