2006.6.25  チョンマゲ

山口県萩市近郊を走っていて見つけた チョンマゲビールの看板
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萩と言えば 吉田松陰の松下村塾に代表される明治維新胎動の地である
ちょんまげを否定した改革の地に チョンマゲビールなる地ビールとは
これまた如何に?
丁髷(ちょんまげ)という呼名は明治以降で 正式には「髷」といい 髪を束ね折り曲げた部分を指す
髷は男女ともに共通する日本髪で 歴史を遡れば古墳時代に達する髪型である
古代では髪を短くすることが困難であったため ある程度の長さまで伸ばさざるを得なかった
古墳時代の髪型は「角髪(みずら)」と呼ばれ 「上げ角髪」と「下げ角髪」に分類される
毛髪を中央で二分割して 耳の横でまとめて括り 垂らすか上げる 長い場合は輪を作り
先端を垂らせば「下げ角髪」で 「上げ角髪」は 埴輪に見られる8の字型に作り耳元でまとめるのが
主流であったが 飛鳥時代に入ると 聖徳太子像などにも見られる輪が一つの形が主流となった
「下げ角髪」は 女子の「お下げ髪」として現在にも伝わっている 古代では この角髪は
世界的に共通する髪型であったが その後西洋と東洋では 冠の違いによりそれぞれ形態が変化した
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橿原考古学研究所付属博物館 藤ノ木古墳出土の装身具復元モデルの上げ角髪
髷の始まりは 中国から導入された冠位制からとされ 古くは聖徳太子時代の603年に
冠位十二階と呼ばれる制度が出来 冠と呼ぶより頭巾(ときん)と呼ばれる布製の袋状の物を被った
しかし この頭巾を被るため 成人は「角髪(みずら)」をやめ その髪型は子供たちのものとなった
天武11年(683)新たに唐の冠位制を取り入れ 漆紗冠(しつしゃかん)と圭冠(はじばこうぶり)が
制定され 冠下髻(かんむりしたのもとどり)と言われる髷を結ったのが 髷の始まりとされる
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   聖徳太子が被る「頭巾」
源頼朝像の漆紗冠
平安時代中期以降の漆紗冠
頭巾から漆紗冠へと変化はしたが 形式は柔らかい袋状の冠のまま奈良朝を経て平安中期まで続いた
その後 巾子(こじ)と額・磯・海などが一体化され漆でしっかりと固めた冠になった
髻(もとどり)を 巾子(こじ)に収め「簪(かんざし)」を横から貫き通して冠を頭に固定した
現在では 冠下髻(髷)を結うことはなく「上緒」という組紐を顎下で結び固定するが
本来の上緒は初期に額と巾子が別々であった頃に この二つを固定するためのものであった
また烏帽子の場合もこの冠下髻という髷を結った 江戸時代に広く普及した男髷の月代(さかやき)は
戦闘時に兜を被る際 頭の蒸れを抑えるためと頭に血が上るのを防ぐためといわれているが確証はない
平時は月代をせず総髪にするか または側頭部および後頭部の髪をまとめて髷を結ったとされ
「冠下髻」に似た「茶筅髷」が流行した
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左は 宣教師によって死後描かれたとされる織田信長の肖像画である
月代はあるが 頭頂部の髪が伸びているのがわかる
天下布武を果たした信長は別格として
戦国時代の武将達は 戦闘の休むまもなく髪を伸ばすことはなかった
そのため 江戸時代まで武家の身だしなみとして月代は続けられたが
庶民がこれに習うことは無く 髪を後ろで束ねる程度の髷であった
徳川三代将軍家光が「月代を剃らずして市中に出ること許さず」の
御法度を出したと伝わり 以降 武家の総髪は許されなかった
後には江戸庶民の間でも月代が当たり前の風俗となり 元服のときには
前髪を剃り落とし 月代にすることで大人の仲間入りとなった
太平の元禄時代ともなると 髷を折り返して頭頂部に載せる 銀杏髷や本多髷が「粋」とされ流行した
現在の大相撲力士の大銀杏も同じである 丁髷(ちょんまげ)とは短い髷のことで 年老いた武士の
それでも威厳を保とうとし結った髷が毛髪が少なく「ゝ」(ちょん)に似ることから「ゝ髷」となり
後に「丁」の字が当てられた 「ゝ」は昔からある踊り字で 歌舞伎の幕間に鳴らされる拍子木の
「ちょん」や 短い・足りないの意味から侮蔑語として未熟・知恵足らずを表した他
短い時間を「ちょんの間」や「ちょこん」を「ちょん」となどと言った
故に 簡単カメラを表す「バカチョン」の「チョン」は「ゝ」のことである
明治4年(1871)8月9日に散髪脱刀勝手令(断髪令)が太政官布告され
一挙に洋風の髪形が流行し「散切り頭を叩いて見れば 文明開化の音がする」とまで言われ
世界的にも奇妙な月代と髷姿は徐々に淘汰され 庶民の間で「ゝ髷」と侮蔑される程少数となった
それにしても 看板を目にした後 私の頭の中に「間寛平さん」の声で
怪しげな吉本的ギャグ・フレーズの「買ってチョンマゲ」「飲んでチョンマゲ」と
我が家に帰り着いてもしばらく鳴り響いていたのには 閉口した
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