2011.6.5  酒を考える No.2 米酒の歴史 古代〜江戸時代

参考 Wikipedia:日本酒の歴史

古代−奈良時代

米酒の出現は 稲作伝来後であることに疑問の余地はない 米作が安定し余剰米が出来ることが前提である
縄文期遺跡に醸造跡が存在し 魏志倭人伝・日本書紀に酒の記述があるが 米醸造酒であるとの見解はない

8世紀の同時期 大隅国風土記に口嚼ノ酒(クチカミノサケ)と 播磨国風土記にカビの酒の記述がある
口嚼ノ酒とは 古代麹カビ菌が使われる以前 唾液の酵素を利用した醸造法である
カビの酒とは麹醸造を指し 古くは日本書紀・応神天皇19年(288)に記述があって
3世紀には 既に麹が普及していたことを窺わせる

古代の麹菌は 稲麹であるとの研究もあり日本独自の物で 日本酒として成立していたと思われる
飛鳥時代 持統天皇3年(689)宮内省の造酒司に酒部が設けられている
現在と同じような米麹で醸造され 醗酵期間は10日程度でアルコール濃度の低い酒であった

約3世紀下って「延喜式」(967)によれば
後世の段仕込みの原型ともなる 米と米麹を数回に仕込む方法が採られ 味の濃い酒が造られていた
滴搾りや上澄みを採るといったこともされていたと考えられている

平安時代

寺院で醸造される「僧坊酒」が現れる
奈良で作られた「南都諸白」(ナントモロハク)は 麹と掛け米に精白米を使う透明度の高い酒であった
諸白とは 当時の主流であった濁り酒に対する言葉で 江戸期まで使われた

鎌倉時代〜室町時代

鎌倉時代には商業活動が盛んとなり 酒は米と同様の経済価値を持つ商品として流通していた
京の伏見に蔵元が集中し始め 室町時代の応永32年(1425)には 洛中洛外の酒屋342軒となった
後年・京都以外の地に酒屋が出来始め 朝廷・酒部の縁者が 摂津池田郷で酒造りを始めた
西宮「旨酒」・堺「堺酒」・加賀「宮越酒」・伊豆「江川酒」・河内「平野酒」等が見られる
天文3年(1534)には 泡盛「清烈而芳」が市場参入している

戦国時代〜安土桃山時代

天正10年(1582)頃 奈良で杉材使用の10石入の仕込み桶が完成 酒の大量生産が可能となった
戦国時代の群雄割拠は 結果として地方文化を育て地酒を育み 多様化が進んだ時代でもある
古酒(甕に封印した長期貯蔵酒)を好んでいた風習も 樽の開発で古酒の流通が少なくなると
新酒が多く流通して好まれる様になった

16世紀半ばには 九州に琉球諸島から蒸留技術が伝来し焼酎が作られるようになった
気温が高い九州南部地区は 長い間品質の良い醸造酒が出来なかったのである
芋焼酎は 芋酒として京都の酒市場に入ってきた

信長による天下統一により寺院は権力を失い「僧坊酒」は壊滅した
これによって醸造技術は拡散し酒屋や杜氏が継承していった 中世のこの時代には
清酒への移行が終わったと思われるが 精米技術の未熟さからまだ現在のような清酒ではなく
糠臭さの残る酒であった 一方濁り酒も自家製どぶろくを含め安価な酒として残っていった

江戸時代

江戸初期 伊丹・池田・鴻池・小浜・大鹿などの 摂泉十二郷が上方酒造地として発展した
関ケ原の戦いの慶長5年(1600)伊丹・鴻池善右衛門 奈良流諸白を改良・清酒を大量生産可能とし
清酒の大衆化をもたらした その上四季醸造法が確立して 年に5回酒造された
清酒が東南アジア または当地を経由して遠くヨーロッパまで輸出された
ワインに比べ日本酒は度数が高かったらしい

ワインの度数は15度前後である 比べ「どぶろく」のアルコール濃度は20度前後と思われる
先日購入した純米生搾酒は19度であった 江戸時代 清酒のアルコール濃度は20度前後であったと思われ
現在の14度〜15度という濃度は ワインを基準として調整されたものであろうと考えられる
ならば確実に薄めていることになる

明暦3年(1657)幕府・酒株制度を発布 酒醸造業を免許制にする
寛文7年(1667)伊丹で寒造り技術が確立 延宝元年(1673)幕府が寒造り以外の酒造を禁止した
これにより酒造が冬場の仕事となり 出稼ぎ農民による地域色を持った杜氏集団が形成された

寛政11年(1799)発刊 山海名産図会 巻之壱
摂州伊丹酒造(せ志ういたミさけつくり)

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米洗い
内井戸に溜まっている根水を全て汲み 空にして 新しくが涌き上がった水で洗米作業に取り掛かる
半切桶ひとつに3人がかりで踏み洗いをし 普通水は40回 寒酒の場合は50回取り替える

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其二 麹醸(こうじつくり)
夜半に「釜屋」と言われる職人が竈に火を入れる 釜の湯が沸勝する頃に他の職人が起き出す
前日洗った米を甑(こしき)に入れ蒸し上げる 甑は薩摩杉の正目で作ったものが用いられた
蒸米の初作業を「甑初め」といった
蒸米は莚に広げられ冷まされた後 室に運ばれ半日程置かれ今度は「穫麹(もやし)」を混ぜ込む
麹蓋に分け室のなかで積重ねて麹を醸す 翌日 均等に発生させるため数時間おきに撹拌作業が行われる
室に入れて3日目の朝に漸く麹ができ上がる 麹室は小さな部屋で壁や天井に籾殻などを詰め
室内は炭火で暖めて「高温多湿」を保っていた そのため雑菌が繁殖しやすいことと暑さもあって
麹つくりの作業は裸で行なわれた

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其三 酛(もと)おろし
「酛づくり」は 純粋な酵母菌を発生させるための作業で 出来上がったものを「生酛(きもと)」という

蒸米を莚に広げ冷めると半切桶に分け入れ 麹と水を加え半日程して水が全部吸収されてから
手でかき混ぜる 夜にはいって櫂で攪拌する作業を「山卸(やまおろし)」といい大変な作業であった
以降は昼夜一時(二時間)毎に撹拌し 3日目に半切桶から酛卸桶に移し時々櫂でかき混ぜると
3日程で発酵し泡が盛り上がってくる ここでまた半切桶に分けた後 およそ半日で自然に温くくなる
寒造りの場合は 湯の入いった暖気(だき)樽を半切桶の中へ入れ温める 温気が生じたころを見計らい
櫂を入れてかき混ぜながら冷ますと2・3日で酛が出来る この作業は雑菌の少ない二階で行なわれ
酛が出来ると荷担い桶で一階に下ろされ3尺桶に集められる

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其四 酘中大頒(そえなかおおわけ)
酘(そえ)とは蒸米に麹を加えた物を指す また再び醸すという意味もある

3尺桶に集められた生酛の上に さらに蒸米と麹と水を3回に分けて加える これを掛仕込みという
初めて加える酘を「初酘(はつぞえ)」という 初酘後 昼夜二時(4時間)毎にかき混ぜ
2日目は 撹拌を止め発酵させる 3日目にこれを3尺桶ふたつに分け それぞれにまた酘と水を加える
これを「中酘(なかぞえ)」という 翌日さらにこれを桶ふたつに分け 二時(4時間)毎にかき混ぜ
翌日に3回目の酘が加えられる これを「留酘(とめぞえ)」という
この後は 発酵の状態に応じて櫂を入れ 醪(もろみ)の熟成をはかる

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其五 もろみを拌袋にいれて醡(ふね)に積(つむ) 酒を搾る作業
醪が熟成してから8・9日おいて 渋袋へ醪を入れ酒醡(さかふね)の中に積み重ねて搾る
酒醡の内部は竹の簀を立てかけ 底にはゲス板を敷いて酒が垂口(たれくち)へ流れやすくしてある
 図には ある程度まで搾っておくための「揚げ酒醡」と 最後まで搾り切る「攻め酒醡」が描かれ
どちらにも1日ずつかけて搾られる 搾られた酒は「澄まし桶」に入れられ
4・5日かけて滓(おり)を沈殿させ上澄みを清酒とする これで仕込作業が完了するが
この時を「総仕舞(そうじまい)」という 酒は貯蔵のため一定温度で加熱する「火入れ」が行なわれた
火入れが完了した清酒は 無節の杉柾板を使用した囲桶に入れて目張りをし 蓋をして莚で囲い貯蔵した

摂泉十二郷の樽酒が下り酒として江戸に運ばれ 享保15年(1730)以降・専用樽廻船が就役した

江戸中期には 兵庫西宮灘目三郷が新興醸造地として開拓された
江戸後期 天保8年(1837)西宮・灘の宮水発見 摂泉十二郷の中心は 伊丹から灘五郷へと移った

幕藩体制崩壊 近代化の波
慶応3年(1867)大政奉還により江戸幕府解体 同年(1868)新政府樹立
日本酒受難の時代が到来する 灘五郷も純粋な日本酒を100年間しか作ることが出来なかった

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