2007.3.27  靖国の心 日本の心 (1)

靖国神社公式ホームページによれば その創立の趣旨は下記のようである

靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、
戊辰戦争(徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃(たお)れた人達を
祀るために創建された。
初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。
後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、
国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、
外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。

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出典 wikipedia

以下各戦乱戦争における合祀者の数
(年代と戦争説明は筆者注釈 事変とは宣戦布告なしの小競り合いから続く戦闘を表す)

1868 明治維新 7.751  
1877 西南戦争 6.971  
1894 日清戦争 13.619  
1874 台湾征討 1.130  西郷従道を台湾蛮地事務都督に任命、台湾遠征軍の派遣を実施
1900 北清事変 1.256  義和団事件を発端とした清国と欧米列強の戦争 日本も参戦干渉
1904 日露戦争 88.429  
1914 第一次大戦 4.850  日英同盟により英国政府から要請されて連合国側として参戦
1928 済南事変 185  日本人居留民の保護にあった軍と蒋介石の北伐軍との戦闘
1931 満州事変 17.176  満州における大日本帝国陸軍の軍事行動に端を発する国家間紛争
1937 支那事変 191.250  盧溝橋事件に端を発する対中国戦争
1941 大東亜戦争 2.133.915  真珠湾攻撃に始まる対米英戦争
  合計 2.466.532  

合祀された英霊は 日本国軍人(一部軍属)である

明治維新における死者数は 官軍幕軍とも不明 明治維新前の勤王・左幕両派の犠牲者も数は不明である
しかし西南の役による死者数は 史料によれば官軍死者数6.403名 薩軍死者数は6.765名とされ
合わせて13.168名となるが 西南戦争の合祀者は6.971人となっており
上記の官軍死者数と568人の差があるとはいえ 薩軍の兵士は反逆者として靖国の御霊とは
なってはいないのは確かである 西郷隆盛が合祀されているかどうかは不明だが
西郷隆盛以下薩軍が倒幕維新に果たした 明確な行動が一切評価されていないことになる
又 対中戦争から第二次世界大戦における帝国陸海軍兵士以外の 補給船団の船員や
空襲で命を落とした非戦闘員である民は戦没者としては 決して靖国の御霊となることもなく今に至る


靖国の心とは何か それは明治維新の 精神的かつ哲学的な背景となった水戸学といえよう

水戸学は 儒教の新しい学問体系の宋学(日本では朱子学)をもととしている

7世紀初期から10世紀初頭の唐代に完成した中華思想に拠れば 東アジアの中心は中国であり
周辺諸国はそこに服従すべきであるとされてきた
しかし 12世紀初期に満洲に発祥したツングース系民族である女真族支配の金により
領土を失い南京に逃れた宋は 南京と家臣団に対する支配の正当性を主張するための拠り所として
家臣は 主に絶対的に服従すべきであるという忠君思想の『大義名分論』や
非中国人は中国人より劣る存在であるとする排他的思想の『華夷の別』などを確立する必要に迫られ
南宋王朝による「我らこそが覇者である」という思想を展開するに至った
日本では鎌倉時代後期には 学僧等の基礎教養として広まり 南北朝時代の後醍醐天皇や楠木正成は
朱子学の熱心な学徒とされ 南朝の後醍醐天皇がこの思想をもとに行動することで国内の分裂が生じた
南北朝以後は 長く顧みられることも無く過ぎたが 江戸時代に入り林羅山によってその名分論が
徳川家に対する忠君の基礎理念として再興された 朱子学の元となった儒教には
元々農本主義的な発想があり 江戸期における幕府の農本主義のもととなって
商工業者の身分を低くおさえたのも この儒教的思想によるものであった この思想体系は
信長〜秀吉の時代とは異なったもので 江戸幕府の正学とされ御三家のうち水戸家が研究に当たった

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これは 家康の朝廷に対する力学的バランスを取った手法とも言われるが 定かではない
ただ 徳川家安泰が第一であった家康が 『大義名分論』の忠君思想に動かされたとも思われる

水戸学は 朱子学を中心に 国学・史学・神道を結合させたもので 全国の藩校でも水戸学が学ばれた
だが 幕末期の外交に置いて 天皇と朝廷の階位である征夷大将軍の地位が改めて問われることとなり
諸外国が天皇と将軍どちらが日本国の王であるかという戸惑いが そのまま国内の体制に反映された

その結果 皮肉なことに 水戸家によって守護され 全国で学ばれた水戸学によって
天皇を中心とした国づくりをするべきという尊皇論 および排他的国粋的な攘夷論が起こり
地方の外様藩から巻き起こった後の倒幕運動と 続く明治維新への精神的哲学的背景となって
江戸幕府を滅亡へと導びいてしまった その後も 水戸学の思想は近代日本にも強い影響を与えた

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皇居前広場の楠木正成像 <出典>東京都千代田区

幕末から前大戦まで 楠木正成が水戸学により英雄とされ続け また 主に陸軍士官学校において
幼年期から 忠君愛国攘夷思想を徹底的にたたき込まれたことにより
軍部の一部では特に心酔して 二・二六事件や満州事変にも多少なりとも影響を与えたといわれている

儒教(儒学)の教えは第一に孝である 例えば会社で大切な会議があっても
親が病気ともなれば 帰って看病しなければならないのが儒教であり 数式で言えば「孝>忠」となる
その逆が水戸学(朱子学)であり「忠>孝」となり 親の看病より会社を優先させる結果となる

なお水戸学(朱子学)では 絶対的な「忠心」を求め 儒教ほど考え方が緩くはない

明治維新の攘夷論は 官軍以外は全て「夷敵」であり 「夷」は人にも劣るとされ
一般人による幕軍兵士の弔いや埋葬をきつく禁止し野ざらしにした

その後 明治新政府は富国強兵のため欧米の先進的文化を取り入れるべく
極端な攘夷論者を政府から排除するため 古代律令制以後その存在すらなかった神祇官を復活させた
明治2年 太政官から独立させた神祇官を置き 行政機関の筆頭に据えたが 祭祀・祝部・神戸の管理や
陵墓を管轄管理する諸陵と宣教などを執行させ 行政から切り離して攘夷論者を押し込めた

新たな神祇官制度のもと 廃仏毀釈を行い キリスト教も禁止するという
行き過ぎた国粋的政策を押しすすめ その延長線に靖国神社の設立があった


小泉前総理の靖国参拝問題から その行為を「日本の心」として
いかなる外国からも干渉されるべきでは無いと 文化人から俳優やタレントにいたるまで大合唱である

では 日本の心とはいかなるものか 前段で論じた事をふまえて
幕末から維新に至る一般庶民で著名な実在人物に登場していただき考えて見る

山本長五郎 人呼んで「清水の次郎長」である 母方の叔父で米穀商・甲田屋次郎八の養子となった為
周囲が 長五郎を次郎八の家の長五郎 次郎長と呼称するようになった人物である

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慶応4年(1868)8月 旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率い 品川沖から脱走した艦隊のうち
暴風雨によって房州沖で破損し 修理のため清水湊に停泊していた咸臨丸が 新政府海軍に発見され
全船員が交戦により全滅死亡した 幕軍の遺骸は官軍の命令により 駿河湾内の海上に放置された
しかし どちらかといえば官軍側についていた長五郎は
小舟を出して幕軍の遺骸を収容し向島の砂浜に手厚く埋葬した

いくら敵兵とはいえ 同じ日本人を駿河湾に放置した官軍と
遺体を収容し砂浜に埋葬した侠客次郎長と どちらが日本の心を代表するか明らかではないだろうか

西南の役で もっとも激しい戦闘のあった肥後熊本の田原坂に 慰霊の碑が建つ

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官軍の兵士に続き 薩軍兵士の名前も一命づつ刻まれる
官軍であろうが薩軍であろうが 明治という時代にあり 共に今日の礎となった人たちを
敵味方無くその霊を慰めるのが「日本の心」ではないだろうか

攘夷という狭義により 同胞である日本人を 夷敵者として差別し 慰霊を怠ることはあってはならない

また今日的視野でいえば 世界大戦における犠牲者とは 一国の国民のみを指すばかりではなく
敵国の兵士や国民をも含めた また悲しくも戦場となってしまった地域住民をも指すのではないか

その人々全てを 我々は戦争当事国として慰霊しなければならない責任がある
今日 天皇が靖国でなく千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝することは この心を具現化する行為である

私達は 一日も早く
この日本の心を表す「全ての戦没者」を慰霊する 心の拠り所を作らなくてはならない

縄文弥生の昔から綿々と受け継がれてきた「日本の心」とは
死者をわけ隔てなく敬い 粗末にすることを恐れ 亡骸を手厚く葬り祀る
これが 世界に通じる「日本の心」ではないかと 私は思う

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