周回遅れの産業革命が生んだ 日本の近代土木建築産業遺産

産業革命とは イギリスにおいて1760年代に始まり1830年代まで約70年間の長期間 技術革新を伴う工業化が進み
資本主義の台頭による封建的権威主義の衰退や 資本家・労働者階級の成立・女性の社会参画などによって 民主主義の萌芽という
政治的思想的背景をも包括した大きな社会変化の流れを指す
やがて19世紀半ば イギリスでの産業革命が一段落すると欧米各国に伝播し 英国の成熟した技術の投入によって急速に工業化が進んだ
19世紀後半には 北欧諸国やイタリア・ロシアにも伝播し アジアでは唯一日本が産業革命を達成したとされる
ただし日本を含むこれら後発国では 英国のように大部分が利益と投資の循環による民間資本によって成された緩慢的なものではなく
政府の大規模投資による性急なものであり それは単なる工業化であって 産業革命という大きな社会変化をもたらすものではなかった

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大航海時代

イギリスがヨーロッパ各国に先駆け産業革命(工業化)を達成したその背景には 15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた大航海時代にある
大航海時代以前のアジアとの交易は 地中海と陸路海路のシルクロードが主要なルートであった しかし15世紀にモンゴル帝国が衰退すると
オスマン帝国が15世紀半ばにビザンティン帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし 東西流通に高い通行関税をかけ 従来の経済秩序を破壊した

東方交易では陸海路ともにオスマン帝国を通過する必要があり また東地中海にあるベネチアが オスマン朝を通じた
イスラム諸国との貿易をほぼ独占しており ヨーロッパ各国は新ルートの開拓を迫られるようになった

地中海西部のイベリア半島にあるスペインやポルトガルは 元来地中海貿易による恩恵が少なかったため
自ずと大西洋に進出し西アフリカを交易先としていた 王国である両国は 民族主義が台頭し中央集権制度がいち早く確立され国権が強化された
イスラムを通じて羅針盤が伝わり 船舶が大型堅固となって外洋航海が可能となった15世紀末には
ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが 4ヶ月でアフリカ大陸南端の希望峰へ到達し アフリカ東部の沿岸を廻ってインドに達した
16世紀初めには インドとの直接貿易を獲得し セイロン・マレー半島を侵略 16世紀半ばにはマカオに要塞を築いて
極東の拠点とした この海外進出は イベリア半島の小国であったポルトガルの快挙であった

ポルトガルに遅れをとるスペインは 15世紀末 コロンブスの探検隊が西を目指しバハマ諸島に到着した コロンブスがこれをインドとして
国王に報告したことから 西インド諸島という名前になった ポルトガルも1500年にブラジルに達し南北アメリカの探検及び侵略が始まった
スペインのアメリゴ・ヴェスプッチは 1501年から翌年にかけた航海で大陸東岸に沿って南下 希望峰の南緯34度を超える南緯50度まで到達し
この大陸が新大陸であることを発見した これは論文として発表され 1513年には 同国のバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが
パナマ地峡を横断しヨーロッパ人として初めて西回りでの太平洋に遭遇 南北アメリカ大陸が地続きであることを発見した
スペインやポルトガルは 交易ではなく大陸深部まで侵略し金銀細工を始めとする富を略奪し 原住民による文化文明国家を破壊した

1519年8月 スペインの命を受け西回り航路の開拓に出たマゼランは 5隻・265名の船団でセビリヤを出港した
翌1520年10月に南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して途中グアム島に寄港して太平洋を横断 1521年にフィリピン諸島に到着した
マゼランは マクタン島で住民の争いに巻き込まれ殺害された 部下のエルカーノがビクトリア号で航海を続け
1522年にセビリヤに帰港し世界一周航海を果たし 地球が球体であることを実証した 帰ってきたのは僅か一隻と18名であった

ポルトガルとスペインは 新航路開拓と海外領土獲得の既得権益の独占を図るため ローマ教皇を仲介にして
1494年にトルデシリャス条約 1529年にサラゴサ条約を締結した
しかしポルトガルやスペインは 広大な領土を獲得したにもかかわらず収奪と浪費を繰り返し 資本の蓄積や国内産業の育成などの
方策も取られず 植民地経営に失敗し急速に没落していった その後は イギリス・フランス・オランダなどの後発海洋国が盛んに
海外進出するようになったが 没落したポルトガルやスペインの経験から学び 慎重な植民地経営を行い資本の蓄積を図った

イギリスは 1601年に東インド会社を設立 1606年北米東部海岸にヴァージニア会社を設立した
またオランダも 1602年に東インド会社を設立 マドラス・ボンベイ・カルカッタを拠点にしてインド経営に乗り出した
1614年北米東部海岸にニューネーデルラントを建設 1626年には 後にニューヨークとなるニューアムステルダムを建設した
フランスの海外進出が本格的に始まったのは 1605年北米大陸のアカディア植民地(カナダ・ノバスコシア州)に
ポート・ロワイヤルが創設されてからである 1608年にはケベックを創設し北米の北部(現在のカナダ)を中心に進出したが
イギリスの北米植民地に比べ人口や経済発展ではるかに遅れていた 1664年にはフランス東インド会社が創立されている
このように 17世紀の中頃には 豊潤とされる地域全てにヨーロッパ人が到達し大航海時代は終わった

イギリスの植民地支配と産業革命

その後 イギリスとフランス・オランダの間で植民地戦争が勃発し 17世紀後半の英蘭戦争にイギリスは勝利しオランダは北米の拠点を失った
18世紀半ばには フランスとの北米植民地戦争が始まり フランスはイギリスに敗北し植民地と海上の覇権を奪われた
このフランスとの植民地戦争でイギリスが勝利したことで イギリスの産業革命が始まったとされている

イギリスが広大な国外市場を手に入れたことで 工業製品の大量生産が求められ またインド産キャラコにより綿織物の需要が生み出された
元々毛織物の生産が盛んであったことから 余剰労働力が常に存在していた農村部に資本が投入された なおも資本は毛織物によって蓄積され
工場制手工業が発展していたことで 容易に綿織物の国内生産に着手することができた
その後 綿織物工業において 大量生産の可能性を求める様々な技術革新が産業革命の原動力となった
紡績機や織機の発達は動力の発達を促し 時計製造によって培われた技術により様々な工作機械が発達し 蒸気機関などの実現に至った
1765年にワットが革命的な蒸気機関を開発し 1781年にはピストン運動を回転運動へ転換させる装置を発明 一気に動力機の主役となった
18世紀半ばにはコークス製鉄法が普及し 鋼鉄の大量生産も可能となった 19世紀初頭には蒸気船や蒸気機関車が登場し実用化された

イギリス製工業機械を海外輸出することは1774年に禁じられたが 1825年には海外輸出が解禁され 以降産業革命は一気に国外へ伝播した
1830年に独立したベルギーで産業革命が始まり フランス・アメリカと続いた これら産業革命後進国とイギリスの相違点は
1825年に完成した蒸気機関車を始めとする鉄道システムである イギリスが産業革命の最晩年に鉄道網を完成したが 産業革命移入の後進国は
初期の段階で鉄道を敷設していることから 産業革命や工業化においては 鉄道の敷設は必須および前提条件となっていった
ドイツは1840年代から 19世紀後半には イタリア・ロシア・そしてスウェーデンなどの北欧諸国
アジアでは 経済大国だった中国とインドが内戦や世情不安を抱えたまま工業化に失敗 唯一日本が政府主導によって工業化を成し得た

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