2018.10.02 長崎県長崎市 オランダ坂と東山手洋館群

安政5年(1858)の5カ国修好通商条約により 箱館・新潟・横浜・神戸とともに 長崎も新たに自由貿易港として開港した
条約では開港地に外国人居留地の設置が定められ 同年から大浦川右岸の入江埋立工事が始まり 東山手と南山手の宅地造成がそれに続いた
翌年には 大浦川左岸の入江埋立工事が行われ 元治元年(1864)には大浦海岸の埋立工事が始まった
大浦一帯の造成後に出島や新地などの唐人街も居留地とされ 大浦・下り松・東山手・南山手・梅香崎・出島・新地・広馬場にわたり
約36万平方mの広大な土地が居留地に提供された 港に面した海岸通りには商社や銀行・領事館・ホテルなどが建ち並び 裏通りには製茶
製パン・理容院・洋装店などの洋風の店が軒を連ねる異国情緒豊かな町並みが出現した 下り松(松が枝)の海岸には造船所や 船員が集まる
パブやバーなどがあった 梅香崎には税関・郵便局・電信局などの官公庁があった 港を見下ろす東山手には領事館や教会が多く並んでいたが
後に学校や住宅などが建てられ「学びの丘」となった 大浦川を挟み向かい合う南山手には元治元年(1864)に竣工した大浦天主堂が建設され
眺望のよい場所には グラバー邸をはじめ大きな洋館建築の住宅が建ち並んでいた 明治32年(1899)の条約改正で居留地制度は撤廃され
外国人は居留地の枠を越えて自由に生活できるようになったが 眺望の良い旧居留地内に多くの外国人が留まり引き続き暮らした

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オランダ坂の東山手から南山手を望む 右の煉瓦塀は活水女子大学・東山手キャンパス
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居留地境界石
「煉瓦塀」と「石畳のオランダ坂」 そして金髪の欧米人
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東山手 オランダ坂通り

東山手洋風住宅群
明治20年代後半に建築されたこれらの木造洋館群は 狭小な宅地に密集した形で7棟の建物が建ち 内外とも意匠・仕上げが質素で
構造的に各棟がほぼ同一なことから 社宅または賃貸住宅として 計画的に建設されたのではないかと推定されている建物群である

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入母屋 和瓦葺きに暖炉のチムニー 瓦葺き白壁塀 和洋折衷の洋館
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東山手十二番館
東山手の12番地は、安政6年(1859)に造成された旧外国人居留地の一画で、幕末から明治初期にかけてはアメリカ人のウォルシュ氏が
借地していた。 この地に立つ東山手十二番館は、明治元年(1868)の建設と推定される初期洋風建築の代表例で、
東山手地区では現存最古の遺構である。直前まではプロシア領事館であったが、新築後はロシア領事館となっていたことが判明している。
その後、アメリカ領事館、宣教師の住宅などとして使用され、昭和16年(1941)に学校法人活水学院に譲渡され、
昭和51年(1976)に建物が長崎市に寄贈された。 正面側の3面に及ぶ幅広のベランダをもつ主屋と、背後の附属屋および別棟からなる
堂々たる構えで、中廊下型の平面構成も当時の領事館建築の特徴をよく示す。 外壁の下見板張りは国内で最古の事例でもある。
全面吹放ちとした床下の造りやベランダ列柱の上部に付く円弧形の装飾をもつ板状の持送りは珍しい。

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旧宣教師館 奥はラッセル館
旧職員住宅

オランダ坂
長崎では幕末の開国以降も西洋人を「おらんださん」と呼び 山手の旧居留地にある全ての坂を一般的にオランダ坂と呼んでいた
現在では 誠孝院前から活水学院下のオランダ坂通り及び活水坂を指す
特に活水東山手キャンパス裏門(東門)から 東山手甲十三番館前を通る道にオランダ坂の碑がある

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東山手甲十三番館とオランダ坂
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オランダ坂の石碑と東山手甲十三番館入り口
オランダ坂通り かなりの急坂である
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明治初頭 貿易商のニールズ・ルンドバーグが 岩山を火薬による発破で開削した道で
高度成長期に拡張され オランダ坂通りとなった

2018.10.02 長崎県長崎市南山手 夜のグラバー園

グラバー園は 安政6年(1859)の長崎開港後に来日したイギリス人商人グラバー・リンガー・オルトの各旧邸があった敷地に
長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築し 昭和49年(1974)9月4日に開園した
旧グラバー邸は 昭和33年(1958)から一般公開され 続くリンガー邸は昭和41年(1966)から公開
オルト邸は 昭和46年(1971)に長崎市が購入して グラバー邸地区観光整備第1期工事を完了した
昭和49年(1974)に 旧スチイル記念学校・旧ウォーカー邸・旧自由亭・旧三菱第2ドックハウスの4棟を
「長崎明治村」構想の南山手敷地内に移築復元し グラバー邸地区観光整備第2期工事が完了した
同時に現在ある「動く歩道」が完成 「仮称・長崎明治村」の正式名称を公募し「グラバー園」が選定された
旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅の他 移築された建造物は 旧三菱第二ドッグハウス
旧長崎高等商学校表門衛所・旧長崎地方裁判所長官舎・旧ウォーカー住宅・旧スチイル記念学校・旧自由亭である

旧三菱第二ドッグハウス
明治29年(1896)の三菱造船所第二船渠建造に伴い 船渠の傍らに建築された明治初期の典型的な洋風建築
昭和47年(1972)に三菱造船より長崎市に寄贈を受けて現在地に移築復元された
ドックハウスとは 船が修理などのためにドックに停泊している間 乗組員たちが滞在するための施設である
構造形式:木造2階建 寄棟造 各階正面にベランダ 同形の部屋4室 中廊下式

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国の重要文化財 旧リンガー住宅
明治元年~明治2年(1868~1869)建築 構造形式:木骨石造・平屋建ベランダ付・寄棟造桟瓦葺
グラバー商会に勤め 後にホーム・リンガー商会を設立したイギリス人のフレデリック・リンガーの旧邸で
リンガー家が明治から昭和にかけて住んでいた住宅である わが国では例の少ない石造りの洋風住宅で
重厚な中にも優美さが漂っており 明治初期の代表的な居留地建築の姿が見られる

中国茶の熟練検査官だったリンガーは 慶応元年(1865)頃に長崎入りし 明治元年(1868)11月にグラバー商会を退職して
イギリス人のE・Z・ホームと共同で「ホーム・リンガー商会」を設立した その後は製茶業を手始めに
製粉・石油備蓄・発電などの事業に幅広い活動を始め 貿易事業や捕鯨業及びわが国初のトロール漁業・各国商社代理業務など
幅広い事業にたずさわる傍ら 居留地の英字新聞を刊行したり 長崎市の上水道敷設などにも大いに尽力するなど
長崎の殖産興業に力を注いだ その他 ベルギー・スウェーデン・ノルウェー・デンマークなどの名誉領事にも就任し
長崎の国際交流に貢献した 治40年(1907)イングランドのノーリッジへ一時帰郷中に死去
住宅は明治42年(1909)に長崎に帰ってきた二男のシドニーに受け継がれ
昭和40年(1965)に長崎市に売却し英国で余生を送った

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国の重要文化財 旧オルト住宅
慶応元年(1865)大浦天主堂や旧グラバー住宅を手がけた小山秀之進によって建てられた
構造形式:木骨石造・平屋建・寄棟造桟瓦葺・正面車寄せ有り・噴水一基
オルト商会を設立し 製茶業を営んでいたイギリス人のウィリアム・ジョン・オルトの旧邸であるが
居住は僅か慶応元年~明治元年(1865~1868)の3年間である
その後この邸宅は 活水女学校の仮校舎や米国領事館として使われ 明治26年(1903)からはリンガー家の所有となった
リンガーの長男フレデリック一家が住んでいたので リンガー(兄)邸ともいわれていた
昭和15年(1940)にフレデリックが死去したが 夫人のアルシディは太平洋戦争勃発の日まで動こうとせず
旧居留地の最後の外国人住民となった 彼女は拘留され 翌年 横浜から出航する交換船で本国に送還された

邸宅は戦時没収され 昭和18年(1943)に川南工業に売却されて従業員住宅として利用された
敗戦後の昭和20年(1945)9月に占領軍に宿舎として接収され 占領軍撤収後 再び土地と建物は川南工業に返還されたが
昭和25年(1950)に会社が破産した 住宅は その後20年の間アパートとして使用され 昭和45年(1970)に長崎市が買収し
2年後には国の重要文化財に指定された 和52年(1977)から2年間に及ぶ修理を経て グラバー園で一般に公開された

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噴水は創建時のもの
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旧スチイル記念学校<Steele Memorial Academy>の校舎
明治20年(1887)9月 初代校長のアルバート・オルトマンス牧師の指導によって 東山手9番地の旧英国領事館跡に建てられた
構造形式:木造2階建 寄棟造 玄関正面上は3階建 中廊下式
アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスチイル博士が 18歳で亡くなった息子のウィリアム・ヘンリーを
記念するために寄贈した資金により開設された 以来 私立東山学院から私立中学東山学院 明治学院第二中学部東山学院と
名称を変えつつ 昭和7年(1932)まで45年間 英語教育と特色ある学風を貫いた
その後 長崎公教神学校 東陵中学校 海星学園校舎と変遷して
昭和47年(1972)に海星学園より保存のため長崎市が寄贈を受け 翌年現在地に移築し復元したものである
グラバー園への移築前は海星学園の寄宿舎として使用されていた

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旧長崎地方裁判所長官舎
明治16年(1883)3月に 長崎控訴裁判所の官舎として八百屋町1番地(上町4番21)に建てられた 長崎控訴裁判所は
明治19年に長崎控訴院に改称 昭和20年(1945)控訴院は福岡に移転し 控訴院官舎から長崎地方裁判所長の官舎となった
原爆で数多くの建物が失われたにもかかわらず 居留地外の市街地に建てられた官庁の洋風建築として唯一残る建物で
明治の西欧化を反映する貴重な官庁建築の一つとして 昭和54年(1979)に現在地に移築復元した
現在はレトロ写真館として利用されている

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国の重要文化財 旧グラバー住宅
グラバー商会を設立した貿易商人の トーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた住宅である
現存する日本最古の木造洋風建築で 数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つ
文久3年(1863)大浦天主堂や旧オルト住宅を手がけた小山秀之進によって建てられた
構造形式:木造平屋建 ペンキ塗 寄棟造桟瓦葺 ベランダ付
安政6年(1859)江戸幕府は 長崎・横浜・函館の3港を万国に向け開港した 同時に諸外国の商人たちは 大浦居留地の周辺に
住居を構え貿易商を営み始めた 英国スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーも 安政6年(1859)に
弱冠21歳で上海を経由して来日し 茶やその他の産物・武器・船舶などを取り扱う貿易商人として仲間入りをした
幕末には勝海舟や坂本龍馬などと交流し 人材の育成にも力を注いだ
明治維新後は 産業立国へ舵を切った新政府に対し 造船・炭鉱・水産・鉄鋼・造幣・ビール産業等の事業で協力をした
新橋・横浜間開通の7年も前の慶応元年(1865)に大浦海岸で蒸気機関車を試走させた
明治元年(1868)に小菅に近代式修舟場を設け 明治2年(1869)には 高島炭坑を開設するなど日本の近代化に大きく貢献した
家庭内においては日本人妻のツルと温かな家族をつくり 仲むつまじく日本で終生を過ごした
明治44年(1911)にトーマス・グラバーは73年の生涯を閉じた その後も 息子である倉場富三郎とその妻ワカは
昭和14年(1939)に 菱重工業(株)長崎造船所に売却するまで この家を自宅として利用していた
昭和32年(1957)三菱造船(株)から 長崎市に寄贈され 翌年から一般公開された

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国宝 大浦天主堂
元治2年(1865)日仏修好通商条約に基づき フランス人の礼拝堂として建立 現存するキリスト教建築物としては国内最古である
正式名は「日本二十六聖殉教者天守堂」その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で 殉教地である長崎市西坂に向けて
建てられている 建立当寺は「フランス寺」と呼ばれ 美しさと物珍しさから付近の住民たちが多数見物に訪れたと伝わる
建築施工は 旧オルト住宅やグラバー住宅を手がけた 天草御領島出身の小山秀之進が大工棟梁として施工し
3本の塔を持つゴシック風建築であったが 正面中央の壁面はバロック風 また 外壁は「なまこ壁」という特殊な意匠であったが
明治8年(1875)から明治12年まで 大規模な増改築が行われた
外壁を煉瓦造に改め 完全にゴシック風建築になるなど 創建当時の外観から大きくその姿を変えた

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肥前 長崎 港町

「九州」は明治以降に確定された呼び名で 古くは筑紫島(つくしのしま)といわれた
日本最古の歴史書 である『古事記(712年)』によれば 日本は伊邪那岐・伊邪那美の「国生み神話」で生まれ 八つの島から成る
「大八島国」(おおやしまのくに)とされ 淡道之穂之狭別島(淡路島)・伊予之二名島(四国)・隠伎之三子島(隠岐島)
筑紫島(九州)・伊伎島(壱岐)・津島(対馬島)・佐度島(佐渡島)・大倭豊秋津島(本州)の順で出現した
筑紫島には 白日別(筑紫)・豊日別(豊)・建日向日豊久士比泥別(肥)・建日別(熊曽)の4つの顔があると記されている
7世紀末頃には 筑紫・肥・豊の国が分割され 筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後の北部六国と南部の日向国が制定された
その後 文武天皇の大宝元年(701)に制定された大宝律令によって 筑紫島と壱岐国・対馬国は 五畿七道のうち西海道とされた
大宝2年(702)に日向国から薩摩国が分立し 和銅6年(713)には日向国から大隅国が分立し九国となり江戸時代まで続いた

肥前

肥前の国衙(国府)は 佐賀郡久池井村に置かれたが その経済圏は東西の地域に大きく別れ 現在の長崎県と佐賀県に相当し
西部の中心は郡衙のあった彼杵郡の大村であった 奈良時代の彼杵郡は 現在の佐世保市一帯から南部大村湾の周辺地域を経て
長崎半島に至る広い範囲とされ 郡内に彼杵郷・大村郷そして浮穴郷・周賀郷の4郷があった 佐世保から彼杵に至る地域を彼杵郷とし
  大村市一帯を大村郷とした 浮穴と周賀郷は不明であるが 周賀郷を野母崎付近とする説が有力視されている
東松浦半島西部から北松浦半島の北西部を経て西彼杵半島・長崎半島に至る外海は リアス式海岸が形成され有数の景勝地が続く
対馬・壱岐・五島を含む長崎県の海岸線の延べ距離数は約4196kmもあり全国の12%に及び 広大な北海道に続く二番めの長さである
しかし面積は僅か1%で全国での順位は37位だが 外周100m以上の離島は 全国の14.2%・971島を数え一番の多島県でもある
古代より海上交通が発達し 平安時代から戦国時代にかけて水軍の松浦四十八党が活躍した地でもあった その勢力図は
上松浦郡(凡そ東松浦郡)を本拠とする上松浦党と 下松浦郡(凡そ西松浦郡)を本拠とする下松浦党とに大きく分けられていたが
上松浦党の最大勢力であった波多氏が戦国時代に滅亡し上松浦党は壊滅 下松浦党に属す平戸松浦氏は戦国大名として頭角を表し
「関ヶ原の戦い」以降も旧領が安堵され 平戸藩6万3千石の外様大名として存続した

長崎

長崎の地名由来には諸説あり 中でも地形に由来する説として 諏訪神社の麓から出島に面する江戸町辺りまで 長く伸びる「みさき」に
源平・鎌倉時代に かつて桓武平家九州千葉氏本家が館を構え「長き御崎」から長崎氏と名乗ったことに由来する説がある
氏名による説では この御崎に北条内管領家の鎌倉長崎氏から枝分かれした九州長崎氏が館を構えたことに由来するという説もある

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国土地理院地図 最新標高図
1.出島町6丁目 2.館内町(旧唐人町) 3.長崎新地町中華街 4.梅園身代天満宮 5.江戸町(西御役所・長崎県庁跡地)
6.長崎歴史文化博物館(長崎奉行所跡) 7.鎮西大社 諏訪神社 8.松森天満宮 9.東明山 興福寺
A.南山手 グラバー園 B.東山手 洋館群とオランダ坂
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江戸町-新大工町(国道54号線・シーボルト通り)標高断面図
1.出島 2.江戸町 3.諏訪神社前 4.西山川 5.新大工町
標高図で見る通り諏訪神社から出島手前まで伸びる台地(岬)が 長崎発祥の地で また地名の由来ともなった

ポルトガル船の来航

大航海時代の15世紀末に ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸の南端・喜望峰を周りインドへの航路を切り拓き
16世紀前半には インド洋に面する港町を攻撃して植民地とし貿易拠点を建設した 後にインド洋を横断しアジアへ到達したが
明国との貿易交渉に失敗し 倭寇と呼ばれた明人の船に同乗して密貿易を行った 天文12年(1543)倭寇・王直の船が種子島に漂着し
日本との貿易を始める機会を得た 火縄鉄砲の伝来はこの時であった
明国とは異なり 平戸の松浦氏・薩摩の島津氏・豊後の大内氏など九州諸侯は 王直やポルトガル商人を歓迎し貿易を受け入れた
南蛮貿易の港は 肥前国の平戸島や豊後国の府内から始まり 薩摩国の坊津も新たに加わった
日本の銀産出量は 16世紀前半に灰吹法精錬技術が伝来し大幅に増えていた 当時の世界的通貨は産出量の少ない金ではなく銀であった
明国では税制によって銀が多く求められたが 海禁政策によって日本との貿易は禁じられ「倭銀」と呼ばれる銀を入手出来なかった
ポルトガル商人は 南蛮貿易によって日本の銀を手に入れ この倭銀によって明国の生糸を買い付ける代行貿易で利を得た

長崎港

永禄4年(1561)平戸で起きたポルトガル商人と日本人商人による暴動(宮ノ前事件)によって ポルトガル商人が島から追放された
永禄5年(1562)内海部の大村氏当主の大村純忠は 南蛮貿易に触手を伸ばしており この事件を機会に佐世保湾の横瀬浦を開港し
ポルトガル船を誘致した 純忠は自ら洗礼を受け日本初のキリシタン大名となった しかし先代の大村純前が
有馬氏の圧迫を受けて有馬晴純の次男・純忠を養嗣子に迎え 実子の貴明を他家に養子として出したことで恨みをかい
永禄6年(1563年)大村家の嗣子の座を奪われた後藤貴明らによって夜襲を受け 横瀬浦は焼き払われてしまった
永禄8年(1565)大村純忠の要請によって 隈氏が支配する福田浦(長崎市小浦町・大浜町)を横瀬浦に代えて開港した
元亀元年(1570)純忠はポルトガル船に提供するため長崎を開港した 当時は寒村にすぎなかった長崎が 以降は良港として発展した
ポルトガル船は 長崎港に集中来航するようになった しかし佐賀の龍造寺隆信が天正元年(1573)に西肥前を
天正3年には東肥前を平定し 天正8年(1580)には大村純忠が降伏し龍造寺氏の配下となったが 同年 純忠は長崎のみならず
茂木の地をイエズス会に教会領として寄進した 天正15年(1587)に純忠は死去し 嫡男の大村喜前が後を継いだ
戦国時代末期の九州は 豊後の大友氏・肥前の龍造寺氏・薩摩の島津氏による抗争に明け暮れ不安定な状況が続いていた
世界的にはカトリックのポルトガルやスペインの国力が急激に衰退し 代わってプロテスタントのオランダやイギリスが台頭していた

戦国時代の終焉

日向の伊東氏・肥後の相良氏・阿蘇氏・肥前の有馬氏を配下に治めた島津氏は 天正12年(1584)に龍造寺氏を破り
大友氏支配の筑後も収め 北部九州を支配する豊後大友氏と対峙し圧迫を加えた 大友宗麟は関白となった秀吉に助力を求め
秀吉は朝廷権威をもって 天正13年(1585)10月に島津氏と大友氏に対し停戦命令を下した しかし翌天正14年の1月 島津義久は
秀吉への年賀の礼に及ばず そのうえ「成り上がり者」呼ばわりし関白として礼遇しない旨を表明した
3月に秀吉が島津氏に対し占領地の過半を大友氏に返還する和平案を提示したが これを拒否し大友氏に対する戦闘を再開
6月には筑前への侵攻を開始した 事ここに及び 秀吉は朝廷への逆徒として島津征伐を西日本の大名諸侯に命じ出兵の檄を飛ばした
当初は破竹の勢いであった島津軍も 高橋紹運親子が守る筑前岩屋城・宝満山城の攻略に苦戦し
高橋紹運の次男・立花宗茂の立花山城に進軍したのは8月中旬となった 島津軍は 8月16日に出陣した討伐軍の毛利先遣隊の
九州上陸の報を承け 8月24日には 立花山城攻略を断念し筑前進撃本隊の撤退を開始した
翌日には 立花宗茂によって高鳥居城を奪取され 8月末までには 毛利先遣隊と合流した宗茂により岩屋城・宝満山城が奪還された
討伐軍は 9月から10月にかけ豊前の各城を攻略し帰服させた 一方の島津勢は 10月22日に戦況の好転を図るべく
阿蘇越えで豊後を攻めたが 年末には膠着状態となって戦場で越年することとなった
天正15年(1587)元旦 秀吉は年賀祝儀の席において九州侵攻の策を諸大名に伝え出陣の命を下した
3月1日には自らも出陣し秀吉自身は肥後方面を 弟の秀長には日向方面を指揮させた 総勢20万人と30万人分の兵粮米
馬2万匹分の飼料を1年分調達する圧倒的な人員物量で九州へ進軍した 秀吉の九州入りを察知した島津氏は 薩摩・大隅・日向の守りに
戦術を転換せざるを得ず 北部九州の支配地を放棄したため 秀吉は島津に属していた城の多くを容易く陥落または寝返りさせ
4月下旬には薩摩入を果たした 4月21日ついに島津家当主の義久は降伏し秀長に和睦を申し入れ 剃髪し名を龍伯と改め出家した上で
天正15年5月8日 泰平寺本陣に滞留していた秀吉のもとを訪れ降伏した 対し秀吉は出家した義久の覚悟を見て赦免の措置をとった
永く続いた戦国の世も漸く終焉を迎え 6月7日筥崎八幡宮において秀吉による九州国分令が発せられた

九州平定後の肥前国

龍造寺氏・大村氏・松浦氏には現所領が 宗氏には対馬国領が引き続き安堵された さらに秀吉は北部九州に大規模な蔵入地を設定した
これは九州を「唐攻め」兵站基地とする意図がこめられていたとされる 廃墟と化した博多の町割りを定め復興に着手して蔵入地とした
また大村純忠のイエズス会への寄進によって実質的にポルトガル領地となっていた長崎港を視察 当地を直轄領とし
バテレン追放令を出しキリスト教禁制を命じた 秀吉のこの策は長崎を蔵入地とし貿易による富の収奪という一面があった
そのためキリスト教徒を迫害するでもなく またポルトガルとの貿易を禁ずるほどのものでもなかった
秀吉はポルトガルとの貿易のため時折宣教師を支援し その後も長崎ではイエズス会が布教を継続し 江戸時代初頭まで信者は増加した
後に将軍となった徳川家康も  長崎を蔵入地(天領)として継承している

江戸時代の貿易と長崎

慶長元年(1596)秀吉は再び禁教令を出し 京都のフランシスコ会の教徒(日本二十六聖人)を捕らえ長崎で処刑した
しかし なおも信徒に対する強制改宗などの政策は取られず 京都のフランシスコ会以外に弾圧は加えられなかった
建前上キリスト教は禁止だが 秀吉のお膝元で行われる布教が目に余るとの処置であったと思われる
イエズス会は畿内に於ける活動を自粛していたが フランシスコ会の修道士はそれを無視していた為である

大航海時代のポルトガルとスペインは 新航路開拓と海外領土獲得の既得権益の独占を図るため
ローマ教皇を仲介にして 1494年にトルデシリャス条約 1529年にサラゴサ条約を締結した
この条約でカトリックの宣教と教徒獲得が義務化されていたことが遠因であった

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が 慶長8年(1603)に朝廷より征夷大将軍に任じられ江戸幕府が開かれた
幕府は当初 キリスト教に対してはこれまでの施策を踏襲し海外貿易も積極的に行われた
家康はスペインとの貿易にも積極的で 秀吉から弾圧を受けたフランシスコ会も
慶長8年に代表のルイス・ソテロが徳川家康や秀忠と面会し 和議を結び東北地方への布教を行った
幕府は朱印状を発行して海外貿易船の管理を行い 朱印状は日本を拠点とすれば国籍に関係なく発行された
マカオを拠点とする商人の朱印状にはイエズス会が協力していた また家康は京都の商人田中勝介をメキシコに派遣したり
京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させ貿易を奨励した 慶長10年(1605)将軍は秀忠となり家康は隠居して大御所となる
慶長14年(1609)平戸にオランダ商館が新たに開設された

幕府がキリスト教に対し態度を硬化させたのは 慶長14年(1609)肥前日野江藩主・有馬晴信の朱印船が
マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号とトラブルになり乗組員60名が殺されてしまった事件が発端となった
晴信は報復として長崎奉行長谷川藤広の黙認のうえ長崎に入港していたデウス号を撃沈させた
この一連の出来事により長崎奉行長谷川藤広の誣告及び本多正純の重臣岡本大八と有馬晴信との贈収賄事件なども絡み
江戸幕府草創期の大疑獄事件となり ポルトガル船の来航が2年間停止した 岡本大八と有馬晴信はキリシタンであった
大八は朱印状偽造の重罪により 切腹ではなく駿府市街を引き回しのうえ安倍河原で火刑に処せられた
晴信には切腹が命じられたが キリシタンであることから自害を拒み自ら家臣に斬首させた 一方の藤広には咎めは一切なかった
大八を処刑した慶長17年(1612)の同日 幕府直轄地でのキリスト教に対する禁教令を発布 キリシタン大名や武家に棄教を迫り
改易など厳しい処分を下した 慶長18年幕府は禁教令を全国に拡大し さらに「伴天連追放之文」を発布した
長崎と京都にあった教会は破壊され 修道士や主だったキリスト教徒や高山右近が国外追放された

慶長18年(1613)平戸にイギリス商館開設 元和2年(1616)明国・朝鮮を除く外国船の入港を長崎・平戸に限定
元和2年(1616)4月17日 徳川家康死没 元和4年(1618)イギリスやオランダからの輸入鉛の購入は幕府のみとされた
元和5年(1619)京都のキリシタン52名処刑から始まり 元和8年に長崎55名 元和9年に江戸55名
寛永元年(1624)東北108名 平戸38名の公開処刑など 元和-寛永年間のキリシタン弾圧があった
幕府による鎖国化が進み 元和9年(1623)イギリスは貿易不振により平戸の商館を閉鎖撤退した
元和9年(1623)将軍は家光となり 秀忠は大御所として政権の掌握を続け 将軍と大御所による二元政治となった
寛永元年(1624)スペイン船の来航を禁止 同国との国交を断絶
寛永8年(1631)渡航する朱印船に朱印状以外に老中の奉書を必要とした
寛永9年(1632)1月24日 大御所の徳川秀忠死没
寛永10年(1633)奉書船以外の渡航禁止 また5年以上海外居留する日本人の帰国を禁止 寛永11年長崎出島の造成を開始
寛永12年中国を含む外国船の入港を長崎に限定 南蛮(東南アジア)への日本人の渡航及び帰国を禁止
寛永13年(1636)出島竣工 貿易に関与しないポルトガル人と妻子287名をマカオへ追放しポルトガル人を出島に移した

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国立国会図書館 寛政8年(1796)『長崎図』
1.出島町阿蘭陀人屋舗 2.唐人屋舗 3.新地 唐人荷物蔵 4.梅園天神 5.西御役所 6.立山御役所(長崎奉行所本庁)
7.正一位諏訪社 御朱印地 8.松森天神社 9.興福寺
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19世紀銅板エッチング画 長崎湾の出島の景色

寛永14年-寛永15年(1638)島原の乱勃発 以降キリシタン弾圧一層強まる
寛永16年(1639)ポルトガル船の入港を禁止 ポルトガル人を追放
寛永18年(1641)オランダ商館及びオランダ人を平戸から出島に移す
寛永20年(1643)オランダ船の全国入港勝手とする家康の朱印状を破棄 オランダ船も長崎一港のみとする
延宝元年(1673)イギリス船リターン号長崎に来航 幕府は上陸を拒否 以降オランダ以外の欧米船の来航が100年ほど途絶えた

開国

嘉永6年(1853)ペリーが率いるアメリカ海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が三浦半島の浦賀沖に来航
幕府はペリーの上陸を認める 同年9月に大型船建造の禁止策を緩和 10月には海外渡航が解禁された
嘉永7年(1854)3月 日米和親条約締結により鎖国は解かれ開国 下田と箱館を開港
8月にはイギリスと日英和親条約 12月にはロシア帝国と日露和親条約がそれぞれ矢継ぎ早に締結された
安政2年(1856)12月 オランダとも改めて日蘭和親条約を締結 翌安政3年に出島開放オランダ人の長崎市街への出入りを許可
安政5年(1858)大老・井伊直弼により日米修好通商条約を締結 イギリス・フランス・オランダ・ロシアと同様の条約を締結
安政6年に下田を閉鎖 箱館・横浜・長崎・新潟・神戸を開港した 出島のオランダ商館も閉鎖され幕府の鎖国政策は終焉を迎えた
安政の5カ国条約により外国人居留地が定められ居留地の十里四方への外出は自由とされた
しかし 日本人商人との貿易は居留地内に限定された
  安政7年(1860)オランダ商館に発注した蒸気船の咸臨丸が 勝海舟らを乗せて横浜を出航 太平洋を渡り渡米した

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