2019.06.19 福岡県北九州市八幡東区 官営八幡製鐵所(日本製鐵 八幡製鐵所)

日本近代製鉄の発祥地 釜石

攘夷論が席捲する幕末 海防の強化を図る佐賀鍋島藩や鹿児島島津藩では 鋳鋼による大砲の開発に乗り出したが
外国人技師を雇うわけにもいかず オランダの著書などを参考に反射炉の建設に試行錯誤を繰り返していた
反射炉で精錬する材料として使用したのが従来の「たたら銑鉄」であったが 発砲によって砲身に亀裂が入る問題に悩まされていた
攘夷派の急先鋒であった水戸藩では 盛岡藩の大島高任らを招聘し 安政3年(1856)に那珂湊に反射炉を建設完工した
大島高任は 西洋式高炉(燃料は木炭)の必要性を説き盛岡藩の在々御給人である貫洞瀬左衛門に出資を請い
釜石の大橋に高炉を設置し 安政4年(1858)12月1日に日本初の鉄鉱石と燃料として木炭を使用した高炉で連続出銑に成功した
しかし 安政の大獄によって水戸斉昭が蟄居となり 那珂湊の反射炉も閉鎖されたため
この成功は他藩には伝播せず 国内で共有されることもなかった 江戸幕府による開国後 兵器は輸入となりそのまま明治を迎えた

このことから 後に釜石は近代製鉄発祥の地とされ 大島高任は その功績を称えられ「近代製鉄の父」と仰がれるようになった
昭和23年(1948)に設立された一般社団法人 日本鉄鋼連盟では この12月1日を「鉄の記念日」として定めている

明治維新前後から 欧米先進国との産業格差に驚愕していた攘夷派の新政府は 富国強兵・殖産興業を大目標とした上で
過激な攘夷思想を隠匿し外国人を雇用する方策で産業の近代化を進めようとしたが 日本人による過去の成功例には無頓着であった

明治7年(1874)工部省鉱山寮釜石支部を設置 ドイツ人技師ルイス・ビアンヒーと大島高任を招致した
L・ビアンヒーは一気に銑鉄から鋼鉄まで一貫する製鉄所を主張 大島高任はまずは高炉建設と銑鉄生産を優先することを主張した
意見が対立する中で 工部省はビアンヒーの案を採用し大島高任は秋田の小坂鉱山へ転勤した 明治13年(1880) 釜石に英国製で
大型の25トン高炉が建設され官営製鉄所が開業した 最終的には17名の外国人技術者を高給で雇用し 巨額の設備投資をしたが
大型高炉に対する木炭の供給不足が主な原因となって失敗が続き 明治15年(1882)12月に釜石製鐵所廃止を決定した

製鉄所の施設や残材は 東京の鉄材輸入卸商の鉄屋・田中長兵衛に払い下げられ 当初は鉄鉱石や木炭及びスクラップなどを
東京で売り捌く予定で横須賀支店長の横山久太郎に一任したが 物価の下落や運賃高騰などが重なり計画が頓挫した
田中長兵衛は釜石での製鉄復活に賭けることにし 新たに2基の小型高炉を建設 引き続き横山を総責任者とした 横山は
官営時代の日本人技術者を再雇用し 数えて49回目の火入れとなる明治19年(1886)10月16日に連続出銑にようやく成功した
この成功は 幕末に大島高任が目指した日本人技術者による製法の確率という 大きな転換点をもたらしたと評価される
翌年の明治20年7月には 釜石鉱山田中製鉄所が民間企業として設立され 本格的に鉄鋼生産の国産化が始まった
10月16日は 後に釜石製鐵所の創業記念日となっている
明治27年(1894)に冶金学者の野呂景義を顧問に弟子の香村小録を主任技師に迎え 野呂が提唱するコークス利用の製銑法に挑戦
官営時代の英国製高炉を改修して30トン級に大型化した上で コークスによる銑鉄の製造に成功 高炉設置から13年目であった


官営八幡製鐵所

官営八幡製鐵所は 釜石製鉄所に次ぐ国内2番目の高炉を持つ近代製鉄所として 明治34年(1901)に操業を開始した
製鉄所の立地となった八幡村は 洞海湾に面する入江の奥にあり 当時の軍備では防衛上有利であること 筑豊炭田に近いこと
また製鉄に必要な石灰石が豊富な地域であることなどが選定条件となった 建設費は 日清戦争で得た賠償金で賄われた
建設時に初代技監として大島高任の長男道太郎が就任 釜石鉱山田中製鉄所の熟練工8名が派遣されたが
釜石での成功があるにも関わらず 当初から巨大な産業構築を目論む政府は
独国のグーテホフヌンクスヒュッテ社に設計を依頼 東田第一高炉が完成し 高給雇用のドイツ人技師を多数雇用し操業を開始した
しかし 当初はコークス炉もなく木炭を使用 また鉄鉱石の性質も独国と異なることから失敗続きとなり膨大な赤字経営となって
翌年の明治35年(1902)7月に早くも操業を停止した 政府は調査委員会を設置しコークス炉を建設・鉄鉱石の精選方針を立てた
日露戦争が勃発した明治37年(1904)の4月6日 製鉄所の操業を再開したが僅か17日後に再度操業停止となった

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政府は 民間の釜石鉱山田中製鉄所の顧問である野呂景義に原因の調査を請い 「炉内をより高温にするため高炉の形状を改める
操業方法も改善する」という提案を受け高炉の改造が成され 7月23日に第3次火入れが行われ製銑に成功し操業が順調となった
翌年には 東田第二高炉に火入れが行われ銑鉄の生産量がほぼ2倍になった その後は順次拡張工事を行い 昭和2年(1927)には
年間銑鉄生産量100万トン計画が立案され 海に築く製鉄所の先駆けとなった洞岡高炉群の建設を決定した
昭和13年には東田6基・洞岡4基の体制となり 国内需要の大半を賄うようになった

昭和9年(1934)1月 国策によって官営製鐵所・九州製鋼・輪西製鐵・釜石鉱山・富士製鋼・三菱製鐵・東洋製鐵の官民業合併で
日本製鐵株式会社が設立されると同時に八幡製鐵所へと改称された 第2次世界大戦後の昭和25年(1950)GHQの最高司令官
D・マッカーサーによる財閥解体策によって分社化され富士製鉄株式会社と八幡製鉄株式会社が発足
昭和45年(1970)に再び富士製鉄と合併して新日本製鐵株式会社となり 同社の八幡製鐵所となった
1970年代の通貨の変動相場制移行やオイルショックそれに連動して迎えた高度成長の終焉に「鉄冷え」という鉄鋼不況が押し寄せ
製鉄業界の合理化リストラが順次進められた 戸畑地区への鉄源集約を図り 昭和47年(1972)東田高炉群廃止
昭和53年(1978)洞岡高炉群を廃止 主力生産拠点の君津移管や戸畑地区への集約により生まれた東田の遊休地には
スペースワールドが開園しホテルや市立いのちのたび博物館・イオンモールなどが建ち 東田第一高炉は保存 周辺は公園化された

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八幡製鐵所 昭和22年(1947)米軍による空撮  A:東田高炉群 B:洞岡高炉群 C:官営八幡製鐵所旧本事務所

東田第一高炉史跡広場

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高炉と高炉の排気熱を利用して空気を温める熱風炉
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高炉に熱風を送り込む環状管 釜石の初期時代は木製の箱型フイゴを水車で動かしていた
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転炉
LD転炉の試験炉

鉄の性質は含有する炭素の量によって大きく変化する 鉄鉱石を還元溶融したものを銑鉄(鋳鉄)といい 炭素を4%~5%含有し
その性質は叩いたり曲げたりすると割れてしまう脆いものである しかし融点が低いため型に流し込む鋳造には重宝する
炭素含有量が2.1%以下の鉄を鋼(はがね)と呼び 曲げに強い強靭な性質に変化する 人類史上この性質を得る方法として古代より
鍛造(鍛冶)が永く用いられ 武器や農具・刃物に使われた 1760年頃から始まったイギリスの産業革命によって
鉄の需要が大幅に増加し工業化が進むに連れて鋼鉄の需要も増加した 初期の鋼製造は非鉄金属の精錬にも使用された反射炉である
1784年に反射炉を使ったパドル法が発明され錬鉄による圧延が可能になった しかし大量生産には不向きで
1855年にはヘンリー・ベッセマーが転炉を発明 1856年にはシーメンス兄弟によって反射炉の一種である平炉が発明された
日本で相次いで反射炉が建設された幕末において 産業先進国である欧米では反射炉の時代がすでに終わろうとしていたのである
転炉・平炉ともに20世紀まで使用されたが 1951年オーストリアでLD転炉法が学会で発表され 八幡では昭和28年(1953)に
5トン試験炉を設置して実験を重ねた 試験出鋼は1万トンにも及び 昭和32年(1957)日本初のLD転炉が八幡製鐵所で稼働した
LD転炉法とは 従来転炉には空気を吹き込んでいたが空気中の窒素により不純物が生じるため 純粋酸素を吹き込む方法である

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トーピードカーとE601電気機関車
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昭和4年3月芝浦製作所製
車体は汽車製造製
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北九州都市高速5号線と国道3号線黒崎バイパス 背景は廃墟の社宅群と皿倉山
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高炉スラグ(鉱滓)
移設 冷水越八丁越追分石 元位置・嘉穂上才田

官営八幡製鐵所 旧本事務所 見学者用眺望スペース

官営八幡製鐵所の操業2年前の 明治22年(1889)に製鉄所の中枢司令棟として建設された赤レンガ建造物である
屋根は和瓦葺き 小屋組みには木材が使用されるなど和洋折衷の洋館建築物で 車寄せからエントランスホールへ続く空間や
窓廻りの装飾に 製鉄所建築へかける国の威信や権威が散りばめられている 1階は長官室をはじめとした事務部門 2階には
大会議室のほか技監室や外国人顧問技師室などの技術部門が入っていた 大正11年(1922)製鉄所の規模拡大に伴い
管理機能が移転した後は 鉄鋼研究所や検査室などに利用された

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