2009.05.22 京都市左京区南禅寺福地町 琵琶湖疏水 水路閣(すいろかく)

土木学会選奨土木遺産の琵琶湖疏水には 明治23年(1890)に完成した第一疏水と明治45年(1912)に完成した第二疏水がある
明治14年(1881)第3代京都府知事となった北垣国道は 江戸時代の豪商・角倉了以や子息の角倉素庵が唱えた琵琶湖用水から
長年にわたって懸案となっている 灌漑・上水道・水運や水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を 幕末の戦乱と東京遷都に疲弊した
京都復興の起爆剤として発案した 東京工部大学で土木工学を専攻し就学中であった田邉朔郎がこのことを知り
明治14年(1881)京都へ調査旅行に赴き 卒論として「琵琶湖疏水工事の計画」を完成させた 後に論文は海外雑誌にも掲載され
イギリス土木学会の最高賞であるテルフォード賞をも受賞 元工部大学校長であった工部勅任技監の大鳥圭介の推薦を承け
卒業と同時に 明治16年(1883)京都府の技官に採用され弱冠21歳で大工事である琵琶湖疏水の担当となった

琵琶湖疏水の第1期工事は 明治18年(1885)に着工 明治23年(1890)に 疏水分線を含め竣工した 当初の計画に水力発電は
入っていなかったが 工事途中の明治21年(1888)に上下京連合区会(京都市会)議員の高木文平とともに渡米視察を行い
その結果 当初予定の水車動力を水力発電に変更した 疏水を利用した日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所が建設され
疏水竣工の翌年に電力供給が開始された 明治28年(1895)2月 その電力を使用した日本初の電気鉄道・京都電気鉄道が開業した

疏水鴨川運河は 鴨川合流点から濠川の起点である伏見区の墨染溜りまで 明治25年(1892)に着工 明治27年に完成した
かつて墨染溜りと濠川の間にもインクラインがあり 高低差は僅か15mだが距離が291mと短く 蹴上よりも勾配が急であった
第二琵琶湖疏水完成後 この落差を利用した黒染水力発電所が建設され 大正3年(1914)5月に運転を開始している

電力供給と上水道の敷設を拡大するため 新たに疏水ラインを追加する第二疏水工事として計画をまとめ 明治41年(1908)に着工
明治45年(1912)に竣工した 上水道の原水を確保する意味で全線トンネルおよび暗渠とし 第一疏水とは蹴上船溜りで合流させた
流量は 第一疏水300立方尺/秒 第二疏水550立方尺/秒 合計850立方尺(23.65トン)/秒となった
大正3年(1914)4月夷川船溜りに夷川水力発電所を 同年5月伏見インクラインに墨染水力発電所を竣工した

当初より目論む船運では 1910年代前半までは旅客貨物ともに利用者が多く成功したと言える 並行する国鉄東海道線は
明治13年(1880)に逢坂山トンネルが開通し大津神戸間が全通した しかし移動時間は舟に比べ早かったが 乗り心地は悪い上
運賃は疏水船に比べ遥かに高額であり 当時の生活自体が今と比べ「慌ただしい」というほどのものでもなく利用客は少なかった
しかし明治45年(1912)8月に京津電気軌道の東山・古川町と大津市上栄町・札ノ辻間が開業した後は 前年に13万人を数えた客が
一気に4.7万人まで急減した 大正4年(1915)には京阪電鉄が三条まで延伸開業し大津-三条-伏見間が電車で直結されると
利用客は3万人台まで落ち込み 旅客船運航会社の京近曳船は廃業した

その後も貨物の取扱いは続けられたが 伏見行き下り貨物は 昭和10年(1935)年に無くなり 翌年大津行き貨物も無くなった
昭和23年(1948)には 蹴上インクラインも運転を停止 最後の貨物は 昭和26年9月の大津から山科まで運ばれた4.5tの砂利であった
しかし同年早くも新会社が設立され屋形船による蹴上-大津間を運航させたが 同年冬の第1疏水取入口改造工事のため運航停止し廃業
昭和34年(1959)に伏見インクラインから 翌年には蹴上インクラインから電気設備が撤去された
昭和38年(1963)には 四条大橋から団栗橋の水面に駐車場が建設され 疏水鴨川運河の水運機能は喪失した
伏見インクラインも撤去され埋め立て 運河も一部暗渠となり国道24号線となった

近年インバウンドによる観光客の増大で 蹴上-大津間の観光船復活の機運が盛り上がり 2018年から春秋に観光船が運航されている

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土木学会選奨土木遺産 琵琶湖疏水のうち 南禅寺 水路閣

明治23年(1890)供用開始 煉瓦造アーチ構造の水路橋 延長:93.17メートル 幅:4.06メートル 水路幅:2.42メートル
設計は田辺朔郎で古代ローマ時代の水道橋を参考にしたといわれる 当初の計画では 塔頭南禅院の南山腹に水路トンネルを
穿つ予定であったが 亀山法皇廟所の裏を通ることになり南禅寺の反対にあい 境内に水路橋を築造することで決着を見た
当時 古都の景観を破壊するとして反対の声も上がったが京には「新しもの好き」が多く 南禅寺には見物人が殺到したと伝わる
今ではテレビドラマの撮影に使われるなど 京都を代表する景観として定着している

南禅寺の正式名は 瑞龍山 太平興国南禅禅寺で臨済宗南禅寺派の大本山である 日本最初の勅願禅寺として
正応4年(1291)に 亀山法皇の開基により無関普門(大明国師)が開山した古刹である 京都五山および鎌倉五山の上位にあり
日本国中全ての禅寺の中で最も高い格式を持つが 明治新政府の上地にあい寺領の多くを失っている

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寺院ですが拝観料も不要で 開放的な境内は京都でも有数のデートスポットでもある
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橋上の水路 西側
疏水分線第5トンネル東口

舟運用の傾斜鋼索鉄道 蹴上インクライン

インクライン< incline >とは 産業用として使われる鋼索鉄道(傾斜鉄道)のことで 日本で初めて導入されたのが蹴上である
蹴上船溜と南禅寺船溜の落差は約36m程で その間を結ぶ水路は蹴上発電所の導水管と余水吐水路の二つで
舟の運航は不可能であった そのため伏見までの舟運も重視していたことから 時間のかかる閘門方式ではなく傾斜鋼索鉄道を敷設し
舟を台車に乗せまま移動させる方法を採用した 斜度は約1/15 水平距離は582m 水中のレールを含めると延長が640mとなり
複線のため敷地幅も22mと大規模なものである 当初ケーブルの駆動には水車が用いられたが蹴上水力発電所の完成後は電動になった
大正から昭和にかけて 諸々の事情により旅客貨物ともに利用者が激減し廃止となった 伏見インクラインは廃棄埋立となったが
蹴上の諸施設が残されたことで手つかずのまま線路や敷地が残された 現在は国の史跡となり桜並木の観光スポットにもなっている

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白川通りガード下
昭和15年(1940)頃のインクライン
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南禅寺船溜 扇ダム放水路吐出口
「楽百年之夢」の扁額は 当時の京都府知事・北垣国道の書で 「百年の夢を楽しむ」という意味
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