2024.03.27 福岡県大川市大字大野島 デ・レイケ導流堤

正式には若津港導流堤と呼ばれ 明治16年(1883)に内務省が測量と調査を開始 内務省技師の長崎桂とオランダ人技師
ヨハニス・デ・レイケ< Johannis de Rijke >が流域の視察を行い デ・レイケの指導の下 石黒五十二技官が実施設計に携わった

若津港は 江戸時代の宝暦元年(1751)に久留米藩が開いた港で 筑後川下流域の広大な農地から産出される米やその他の穀物
また上流の日田地方から流される木材の積出港として発展した しかし港は 干満差が6mを超える入海である有明海の最奥部に位置し
尚且つ 広大な筑後平野と広い河口のため筑後川の流れが緩くなり 満潮時に逆流する上潮が引き起こす土砂の堆積で
干潮時は無論のこと満潮時であっても 曲りくねった流路を外れると容易に座礁することが頻繁に起きていた

さらに明治維新以降は大型蒸気船の航行が増加し 水深確保の工事が待ったなしの状態をむかえた
明治17年(1884)に筑後川改修の工事設計に着手し デ・レイケ技師の再視察も行われた 明治19年(1886)第一期改修計画が立案され
明治20年(1887)から導流堤本体の工事および護岸および川底の堀削工事など水利を促す低水工事が始められた
導流堤は明治23年(1890)には竣工したが 明治18年・22年と洪水に見舞われた 明治28年(1895)第2期改修工事の計画が立てられ
翌29年(1896)から河川の氾濫を防止する高水改修工事が 河口から日田に至る88kmの範囲で着手された
当初からの低水工事は明治31年(1898)に竣工 高水改修工事も明治36年(1903)には完了 9年の歳月をもって明治改修事業が終了した

福岡県大川市向島 筑後川昇開橋展望公園 デ・レイケ導流堤の実物模型

この若津港導流堤は 川の流れを速め 堆積する土砂を遠浅の河口に押し流すことで 航路を維持することを目的に建造されたものである
導流堤の完成から130年以上経つ現在もその機能を果たし 干潮時における航路が確保されている
しかし 大工事であったにもかかわらず 建設当時の調査報告書や設計図等が未発見であるため その詳細な構造は不明であった
平成27年(2015)2月 福岡県大牟田市と佐賀県鹿島市を結ぶ有明海沿岸道路の 有明筑後川大橋架橋工事が着工され
導流堤上に橋脚が設置されることになり 一部分が解体され同時に発掘調査が行われた 橋を含む区間は令和3年(2021)3月に開通した
調査によって造成された実物大模型が 左岸側の「筑後川昇開橋展望公園」と右岸側「大川市ふれあいの家」にそれぞれ設置されている

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デ・レイケ導流堤の実物模型
筑後若津駅跡地モニュメント
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筑後川昇開橋 旧筑後川橋梁 昭和10年(1935)竣工
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解体工事で明らかとなった導流堤の断面

延長6.5kmの若津港導流堤は 設置発案者であるオランダ人技師 Johannis de Rijke の名を取って デ・レイケ導流堤
または デ・レーケ導流堤と呼ばれている 満潮時には水面下に姿を隠す沈礁で目印の杭や塔が水面上に並ぶのみだが
一転して干潮になると 鱗のような石畳が 遥か遠くまで曲りくねって続く様を龍に見立て 筑後の龍とも呼ばれる奇景を露わにする

若津港導流堤は 当初の建設資料が未発見であることや一級河川内にある国有財産であること また知名度が低いという事情もあり
明治の国家的プロジェクトでありながら 福岡佐賀両県および国の文化財指定もなく 指定推進に向けた運動・議論も少ない
平成20年(2008)に 社団法人土木学会の「選奨土木遺産」に認定されたことで 少しは文化財指定に向かうことを願うばかりである

内務省技術顧問 ヨハニス・デ・レーケ < Johannis de Rijke

明治新政府は 日本の近代化を早急に図るため 教育・医学・法律・運輸・土木など各分野の専門家を欧米や中国から招聘し雇用した
御雇外国人と呼ばれた異国人は2690名に及び 大多数は1127名のイギリス人で アメリカ・フランス人などがこれに続く
河川改修や治水・築港などについては主にオランダから招聘され 99名のオランダ人技師が明治新政府が推し進める文明開化に協力した
31歳となったヨハニス・デ・レーケがオランダを出立したのは 明治6年(1873)6月で 9月には兵庫港に到着し渡来を果たした
内務省との契約では 月の給与は300円の高額待遇で4等工師として遇せられた(当時 公務員の平均年収は約160円であった)
日本国内での業績は多く 堰堤・運河・下水・河川改修・築堤・溜池・防波堤・築港・導流堤など全国・多岐にわたる
明治36年(1903)に帰国するまで30年間滞在し 滞在中の帰国は2回であった 帰国後中国上海へオランダ政府技師長として赴任した後
1911年(明治44年)に辞職 同年オランダ獅子勲章が送られた 1913年(大正2年)アムステルダムにて死去した

筑後川総合運動公園と新田大橋から見るデ・レイケ導流堤

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15:10 筑後川河口と導流堤 島原・眉山と雲仙・普賢岳を遠望
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15:30 導流堤と県道18号大牟田川副線の新田大橋
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15:43 本日の有明海干潮時間 大牟田港で16時10分
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昭和48年(1973)7月竣工 新田大橋
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新田大橋から下流側 島原半島に向かって伸びる「筑後の龍」 若津港導流堤 通称デ・レイケ導流堤
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新田大橋東詰 大川市新田
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新田大橋東詰から上流側 有明沿岸道路の有明筑後川大橋
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新田大橋東詰から上流側
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