2020.07.07 宗教を考える No.2

仏教について
仏教の開祖は 紀元前5世紀頃の北部インドの釈迦である 元来サンスクリット語には文字がなく
サンスクリット語でガウタマ・シッダールタと呼ばれたが 漢訳では瞿曇悉達多(クドンシッタ)である
出身部族や領地の名である「シャーキヤ」と聖者を表す「ムニ」を漢字音写した「釈迦牟尼」の名で通り
通常は「釈迦」と省略され呼ばれる また「釈迦牟尼」を表す別名の「仏陀」は サンスクリット語の
「目覚め」または「知る」を意味する「ブドゥ」の過去形で 仏教の「悟り解脱した者」を表す
インドでは 宗教の奥義を極めた聖者に贈られる称号であったが 後に釈迦のみに許される言葉となった
日本では中世以降 死者を霊として尊び神として祀ることから 伝わった音訳の「浮屠(仏陀古語)」に
目に見えないものの意である「け」が加わって「ほとけ」となり 死者そのものを指すようにもなった

若き日の釈迦・シッダールタは王族として不自由のない生活を送っていたが 日頃から人の生死について
考えることが多かった 安逸な生活から訣別して29歳で出家を決め 難行苦行の末に36歳で
「輪廻転生」から解き放たれる悟りの境地に達し 解脱して「仏陀」となった
業・輪廻・因果の考えはインド思想の根本となっており 全ての生き物は 現世の業とその因果によって
輪廻され 無限に生と死を繰り返すと考えられた 輪廻は苦行であるとされ 己を輪廻から解き放ち
二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想とした 釈迦はこの法を悟り自ら解脱を果たしたが
我が解脱の法は 衆生には不可解で悟りに達することは叶わぬこととして法を説くことはしなかった
しかし 天部の神である梵天が現れ衆生に法を説くよう三度請われ 開教を決意したとされる
釈迦は 仏教の前提となる輪廻を操る主宰神や 輪廻から隔絶した絶対神の存在を認めなかったため
原始仏教では 神にすがることなく我が力で輪廻から解脱することが目的とされ 煩悩を断ち切るため
現世を捨て出家することから始めねばならなかった その教えには衆生救済のかけらもなかった
また 当時のインドでは偶像を祀るという習慣がなかったため 仏教においても当初は偶像ではなく
法輪によって仏の存在を示していたが 死後300年頃より釈迦の彫像が作られはじめた

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愛媛県内子町 高昌寺の涅槃仏像
涅槃仏(ねはんぶつ)は 釈迦が入滅する様子を仏像としてあらわしたもの

仏滅500年後の紀元前後に 在家者を中心に大乗仏教の一派が勃興した 大乗とはサンスクリット語の
マハーヤーナの漢訳語で「大きな乗り物」の意を持つ 乗り物とは仏教の教義を指している
悟りを開くためだけの修行は利己的であるとし 悟りを開く前の菩薩の存在を重視し
偉大な釈迦の教えによって衆生を救済することを目的とした一派であり 主に東北アジアに伝播した
その教えでは 釈迦(仏陀)は 輪廻を解脱し天上に存在するとしたことから極楽思想が生まれた
また 神格化したことから偶像が多く作られ 超越的な神に似た観念を仏陀に投影するようにもなった
ヒンドゥー教においても 釈迦はヒンドゥー教のヴィシュヌ神の9番目の化身とされた
その他 天部神としてインド民衆に崇拝されてきた多くの神々が
仏陀の教えに帰依する守護神として描かれ 仏教神話の体系に組み込まれていった
このような形成を経た大乗仏教が 日本に伝播したのは6世紀中頃の飛鳥時代であった
『日本書紀』によれば 欽明天皇が 仏教信仰の可否を臣下に問うたおり
廃仏派の物部尾輿と中臣鎌子らは外来の仏教に反対し 一方 崇仏派であった蘇我稲目は
海を隔てた西の国では仏教が盛んとなっているため 仏教に帰依したいと述べたことから
天皇は稲目に釈迦仏の金銅像と経論などを下げ与えた 稲目は私邸を寺として仏像を安置した
その後 疫病が流行ると 物部尾輿らは外国の神を祀り拝んだので 国津神の怒りを買ったと主張し
稲目の寺を焼き払い仏像は難波の掘江に捨てられた
後の世 信濃国国司の本田善光によって 堀江に棄てられた阿弥陀如来が救われ
信濃の飯田に祀られた後 皇極天皇元年(624)現在善光寺のある地に移された
皇極天皇3年 勅願により伽藍が造営され本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられた
元禄12年(1699)大坂堀江新地の開発に合わせ 善光寺の智善上人が本尊が出現した霊地として
新たに大坂堀江に智善院和光寺を建立し 善光寺から金銅阿弥陀仏像を迎え安置し開基している

飛鳥時代の仏教を巡るいさかいは 用明天皇の後継者を巡る争いとなり 物部尾輿の子・守屋が
蘇我稲目の子・馬子に滅ぼされるまで続いた この戦いで馬子方についた聖徳太子が
四天王に戦勝を祈願し 勝利の後 摂津国に四天王寺を建立した
また馬子も 戦勝祈願成就により飛鳥の地に法興寺を建立した
聖徳太子は仏教の導入に積極的な役割を果たし 仏教は国家鎮護の宗教となった
奈良時代においては 仏教は天皇や貴族のものだという捉え方があり 律令制の中に仏教も組み込んで
僧尼令という法を定め 官僚組織の一員として僧尼を国家管理し 民衆への布教はされなかった
平城京では 後に南都六宗と呼ばれた 三論・成実・法相・倶舎・律・華厳などの宗派が大勢を占めた
天平年間は災害や天然痘などの疫病が多発したため 聖武天皇は仏教に深く帰依するようになり
天平13年(741)には国分寺建立の詔 天平15年(743)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出した
同じ頃 法相宗の僧・行基を中心とする民間の信仰集団が形成され 畿内を中心に階層を問わず
布施屋の設立など衆生救済のための社会事業を各地で成し遂げたていた しかし朝廷は僧尼令をもって
弾圧を図ったが 行基集団は民衆の圧倒的な支持を得て なおも寺院・道場49ヶ所 溜池15ヶ所のほか
水路や堀9ヶ所 架橋6ヶ所の実績を挙げた 聖武天皇は次第に行基集団の活動に関心を抱き始め
東大寺盧遮那仏(大仏)造立の実質的な責任者として招聘し 集団の助力を仰いだといわれる
この行基の行動は 大乗仏教の誠実な実施者であり 優れた哲学者・科学者でもあったと思わせる

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大阪府岸和田市 久米田池
聖武天皇がこの池の開削を行基に命じ 神亀2年(725)から天平10年(738)までの工事を経て竣工した

仏教が広く定着すると 神道の神々も仏が化身として現れた権現であるという本地垂迹説がとなえられ
様々な神の本地仏を定め 神像が僧侶の姿で造作されることも発生した これは明治になるまで続いた
権現は 天台の山王神道や真言の両部神道に基づくものや 修験道に山岳信仰が融合したものなどがある
後の世では 徳川家康のように崇敬された人が死後に大権現として祀られることも出現した
権現の他には「明神」があり 豊臣秀吉は豊国大明神として祀られているた
平安時代には 空海によって密教がもたらされ 朝廷や貴族も一挙に密教に傾注し始めたため
叡山の官僧・最澄も密教を開山せざるを得なくなり空海に師事を請い天台密教を開基した
空海の真言密教を「東密」最澄の天台密教を「台密」と称した 密教は秘密の教えという意味で
従来の経典などの文字によって 全ての信者に教えが開かれている顕教に対し
視覚的な呪文呪術が多用され 生きたまま仏となれる「即身成仏」を唱えたことから革新的な仏教として
多くの人に受入れられたと思われる また台密は 山岳信仰の修験道とも合体し神仏習合の主体となった
平安時代中期には 末法思想が蔓延し浄土信仰が流行して宇治の平等院が建立された
平安時代末期には社会不安が増大し 大寺院では要塞化が進められ強大な権力を持ち僧兵が組織化され
朝廷の支配を揺るがすまで勢力は強大化し それがまた社会不安を増大させるという悪循環に陥いった

鎌倉時代に入ると 鎮護国家を標榜し朝廷や貴族の支配階級を対象とした儀式や教義の研究に明け暮れた
しかし 教条主義を捨て衆生救済の本分に立ち返る宗派が現れた 特に叡山の学僧であった法然の浄土宗
法然の弟子であった親鸞の浄土真宗 日蓮による日蓮宗 一遍の時宗などが 簡素な念仏を唱えることで
救われるとして辻説法などを展開し布教した これらの宗派は難しい理論や厳しい修行ではなく
在家信者の生活を優先させる易しい教えと現世ご利益が説かれ 民衆の間に大きく広がった
これらの新派に対し 既存宗派や施政者による弾圧が行われたが 他宗派に対し大きな影響を与えた
また 臨済・曹洞の二つの禅宗がもたらされ 特に武士階級に好まれたため 幕府からも庇護を受けて
多くの禅寺が建てられ栄えた 日本の仏教宗派は この鎌倉時代にほぼ出揃ったと言える
室町時代・1467年の応仁の乱後は治安が悪化して 各宗派ともに寺院を武力で固め要塞化・強靱化された
故に 宗教間においても武力闘争が起き 民衆を支配するまでに成長した宗派は 守護大名に対しても
武力で対峙するようになった 多くの大名は強大な宗教勢力との諍いを好まず 妥協する政策をとった
只 尾張の戦国大名で「天下布武」を掲げ 中央集権国家を目指した織田信長は 一切の妥協を許さず
後に非情とも評価された方法で 国家に反目し独立しようとする宗教勢力を徹底的に壊滅した
しかし その根本となる教義を禁止するまでには至らなかった
信長亡き後 秀吉によってその意志は引き継がれ 敵対した根来寺や高野山を屈服させ
寺院の武装解除を推し進めた 後に秀吉はキリスト教を禁止 江戸幕府もこの施策を踏襲した
江戸幕府は 禁教令の実施に伴い寺社奉行を設置し宗教と寺院を統制下に置いて管理した
庶民に対しては 全ての人々を仏教寺院に登録させる寺請制度を強制し 一種の戸籍制度を作るとともに
実質的に改宗を禁じ 幕府非公認の布教活動をも出来なくした 承応3年(1654)に来日した明僧隠元が
幕府の許可を得て黄檗宗を開基し布教したほか 幕末には 黒住教・天理教・金光教が開教している
尊皇攘夷の明治維新よって生まれた新政府は 神祗官を復活させ日本神道を国是としたため
江戸時代の檀家制度による 寺の特権に安住した仏教界の腐敗に対する民衆の強烈な反発もあり
全国で激しい廃仏毀釈が行われた 寺院とともに文化財である仏像なども廃棄され混乱を極めた しかし
行き過ぎた廃仏毀釈の反省もあり 明治30年に古社寺保存法が制定されたが 寺院の数は大幅に減少した
明治以降は 日本神道を教育に取り入れ 幕末から台頭した水戸学(朱子学)を基本としたため
特に帝国陸軍で国粋主義が頭角を表し 諸外国への侵略が続いたが 欧米の民主主義国家に破れた結果
第二次世界大戦後の新憲法で 政教分離の法則及び基本的人権として信教の自由が明記された
明治維新からこの戦争に至るまでの間 既存の仏教勢力は 前史に比べあまりにも無力であった

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