2014.12.22 大分県別府市明礬 明礬温泉

鉄輪から別府八湯・明礬温泉まで歩く 往復約7km 1万歩のウォーキング
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明礬湯の里温泉は標高338mにあり 高低差212mの上りコースである
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鉄輪地獄地帯公園 別府では珍しい積雪に見舞われた
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別府市小倉 標高300m
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高速大分道の別府明礬橋 昭和64年(1989)竣工 235.0mのアーチ支間は竣工時では日本一であった
明礬温泉
鉄輪温泉から西方約3.5kmの位置にあり 標高400mの伽藍岳中腹にある地熱地帯で その名の通り
江戸時代から明礬(湯の華)が採取されてきた温泉地である 急傾斜の地獄に石垣が築かれ
湯の華小屋が建ち並び 湯煙立ち込める景観は 鉄輪温泉同様「別府の湯けむり・温泉地景観」に含まれ
風景の文化財として「国の重要文化的景観」に選定されている
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明礬温泉入り口
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高速大分道の別府明礬橋 高崎山と別府湾を一望する標高400mの地
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明礬温泉 共同外湯・鶴寿泉 現在湯温低下で閉鎖中
明礬温泉  湯の華採取小屋
小屋の中に青粘土を敷き詰め 粘土から析出し結晶化した湯の華や明礬を 採取する方法が採られている
製造される湯の華は生産量も多く全国に流通する この明礬の製造は 寛文4年(1664)渡辺五郎右衛門が
森藩領の豊後国速見郡鶴見村の照湯(別府リハビリテーションセンター辺り)にて初めて成功した
享保10年(1725)には 脇儀助が同じ鶴見村の明礬温泉にて本格的な生産をおこない さらに隣接する
幕府直轄地の野田村でも生産が行われ 産出量は合わせると全国の70%を占めた 火薬の原料にもなる明礬は
享保15年(1730)からは幕府の専売品として明礬会所が設けられ 独占的な取引がおこなわれていた
明治時代以降 中国産の安価な明礬が流通するようになると 専ら湯の華が製造されるようになった
別府で長年受け継がれてきたこの伝統的な湯の華製造技術は
昭和43年(1968)に「別府明礬温泉の湯の花製造技術」 として別府市指定の無形文化財に指定され
平成18年(2006)には 同名で国の重要無形民俗文化財にも指定されている
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江戸時代の明礬製造跡
白土地中30cmの噴気溝の石畳断面が現認さる。寛文6年(西暦1666年)肥後国八代在、旧大友家臣
渡邊宗寛之子、渡邊五郎衛門豊後国立石村来、我国初之和明礬完成創始。
文化元年(西暦1804年)森藩主久留嶋公の命に依り岩瀬主水正が明礬山の山奉行として着任し
硫黄採掘明礬製造、以来連綿と「湯の花」製造続く。
岡本屋 当主 岩瀬公男
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明礬温泉「湯の里」 背後の扇山と鶴見岳
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