おんせん県大分 泉都別府

別府温泉は 別府市内に数百ある温泉の総称で「別府八湯」とも呼ばれ 源泉数・湧出量ともに日本一を誇る
その歴史は古く 豊後の鶴見岳東山麓に温泉が湧出していることは古代より広く知られ 「豊後国風土記」や
「万葉集」には 血の池地獄の「赤湯泉」や鉄輪地獄地帯に相当する「玖倍理湯井」等についての記載がある
しかし古代においては 鶴見岳の活発な噴火活動で広大な荒地や沼地になっており整備されることは無かった
その後平安時代に柴石温泉が 鎌倉時代には別府温泉と鉄輪温泉が拓かれ 朝見・永石・流川等の沿岸に
湧出する温泉が整備された 同時期の浜脇温泉は八幡朝見神社の門前町として栄えた 江戸時代になると
日向街道沿いの観海寺・堀田・亀川の各温泉が整備され 瀬戸内方面から湯治舟が集まり
また温泉番付などが発行され 浜脇と別府温泉が上位に登場するなどして 次第に別府の湯治場が有名となる
それに従い それぞれの温泉に温泉街が形成され 庶民の温泉湯治が一般的となった明治期には
上総掘りによって温泉掘削技術が発達して急激に源泉数が増え
明治21年には内湯を備える宿はわずか14軒であったが 明治40年代には一気に1174軒に急増した
また明治期には交通網も発達し 明治4年(1871)に別府港が完成し
明治6年(1873)には大阪と瀬戸内航路が結ばれ 観光客が次第に集まり「泉都」へと発展した
明治33年(1900)大分から別府桟橋まで路面電車が開通 明治44年に別府駅が開業し
別府町役場に温泉課が新設された 明治45年には大阪商船の大型客船「紅丸」が阪神・別府航路に就航した
別府温泉の父 油屋 熊八
熊八は 文久3年7月16日(西暦1863年8月29日)伊予国宇和島城下の米問屋油屋正輔の長男として生まれた
15歳より家業の経営に携わり 明治21年(1888)には27歳で宇和島町議に当選する 30歳で大阪に渡り
米相場で富を築き 別名「油屋将軍」として羽振りをきかすが 日清戦争後に相場に失敗し全財産を失う
35歳で渡米しキリスト教の洗礼を受け約3年間滞在する 帰国後は再度「相場師」にリベンジするが失敗した
熊八が渡米していた間 実家に寄宿していた妻を頼り 明治43年(1910)別府に移り住んだ
翌 明治44年(1911)には 新約聖書の「旅人をもてなすことを忘れてはいけない」という言葉から
「旅人をねんごろにせよ」を合言葉に 実践の場として亀の井旅館を創業した
旅館には利用客の急病に対処する為に看護婦を常置していた また敬虔なクリスチャンで酒は飲まず
「旅館は体を休める所であり、飲酒をしたいなら外で飲むか他の旅館に行ってくれ」が熊八の口癖であった
故に当時では珍しく旅館においては酒類の提供はさせなかった
大正5年(1916)大阪−別府間定期航路の専用桟橋を大阪商船に要求し実現させた これにより危険を伴う
ハシケでの上陸が無くなった この頃大阪商船の紹介で「大正広重」と言われた吉田初三郎と出会った
大正13年(1924)には洋式ホテルに改装し 会社法人として亀の井ホテルを開業した
明治28年(1895)より使用されていた「地形図図式記号」の温泉マークを別府のシンボルとし
「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」というキャッチフレーズを付けて 宣伝費用を私財・借財で賄いながら
別府温泉を全国に広めた 大正14年(1925)にはこのフレーズを刻んだ標柱を富士山山頂付近に建てている
その他 建設する予定が無いにも関わらず「別府温泉 亀の井ホテル建設予定地」の立て看板を
別府市内や大分県内はもとより 福岡・大阪・東京に立てるなど奇想天外な方法を駆使し別府を宣伝した
この方策にはプロデューサーとして「初三郎」の助言と助力が存在した
閑静な温泉地由布院には 盟友吉田初三郎や中谷巳次郎らとともに 文人墨客を招待する亀の井別荘を建て
「別府の奥座敷」として開発 さらに久住高原一帯の開発をも進めた
「長者賀原(長者原)」や「九粋峡」は 吉田初三郎の命名によるものである
熊八は自動車も好きであった 同時に自動車交通の可能性に注目し「やまなみハイウェイ」の原型とも言える
別府−湯布院−くじゅう高原−阿蘇−熊本−雲仙−長崎間の観光自動車道を早くも大正年間に提唱しつつ
大正14年(1925)自らルート上にある長者賀原(長者原)にホテルを開設した
昭和元年(1926)ゴルフクラブ・別府ゴルフリンクス開業 温泉保養と組み合わせた新しいレジャーを生み出す
昭和2年(1927)大阪毎日新聞主催の「日本新八景」選考会で奔走し 別府を首位に導いたとされる
昭和3年(1928)1月10日 亀の井自動車を設立
全国初の女性バスガイドの案内による別府地獄めぐり遊覧バスを運行を開始し 大人気を博した
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大正5年に完成した別府桟橋
昭和30年代の流川通り ラクテンチも見える
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大正時代 九粋峡十三曲がりにて熊八と初三郎
バスガイドと熊八
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亀の井ホテル 熊八と初三郎
地獄めぐり遊覧バス発祥地の碑

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 昭和に入り熊八はお伽倶楽部に参加した 「頭のピカピカおじさん」と親しまれ 同会の梅田凡平とともに別府宣伝協会を立ち上げる
 昭和6年(1931)10月1日〜2日 手のひらの大きさを競う「全国大掌大会」を亀の井ホテルで開催した 審査員・講演者として参列したのは吉田初三郎をはじめ 平山芦江・長谷川伸・与謝野晶子・与謝野鉄幹・江見水陰・松崎天民など錚々たるメンバーであった
 昭和10年(1935)3月24日 享年72歳で波瀾万丈の人生を閉じた 別府温泉の宣伝はすべて熊八が行ったわけでは無い しかし一個人が私財を投げ打ち借財を重ねて日本中に別府の広報を行ったことは 非常に希なことであり大いなる力であった 熊八没後 亀の井自動車やホテルは借財返済の為売却され何一つ残されなかった しかしその行動力・独創力に敬意をこめ別府観光の父・別府の恩人として今なお慕われて続けている
 平成19年(2007)11月1日 その偉業を称えて大分みらい信用金庫の依頼により 別府駅前に辻畑隆子作のブロンズ像が建てられた そのブロンズ像は片足で両手を挙げ熊八がまとうマントには小鬼が取りついている これは 制作した辻畑隆子氏によると 天国から舞い降りた熊八が「やあ!」と呼びかけている姿を表している

「熊八」亡き後も「吉田初三郎」は九州観光に深く関わり続け 各観光地のパノラマ俯瞰図を数多く残している
昭和6年に福岡日日新聞に21回にわたり連載された「国立公園としての九州の価値」という論文は
その後の九州観光地の状況を的確に予言している これは熊八との交流を深める中で
彼に触発された部分が多々あるものと感じざるを得ない 初三郎も昭和30年8月16日享年71歳で没す
吉田初三郎が天国の熊八の元へ旅立った昭和30年初頭は 別府が一番輝き始めた頃であった
戦災に遭遇する事無く終戦を迎えた別府は 高度経済成長期には新婚旅行や修学旅行客などで最盛期を迎えた
昭和25年(1950)国際観光文化都市第1号として国際観光温泉文化都市に指定され 宿泊施設も急激に増大した
当時 大阪との間を結ぶ瀬戸内航路は最盛期を迎え 昭和35年(1960)には「瀬戸内海の女王」とも呼ばれた
「くれない丸」が就航 3千トン級の客船が最大時6隻体制で新婚旅行客などを別府へと運んだ
また 修学旅行専用船として 昭和37年(1962)に「わかば丸」 昭和39年(1964)には「ふたば丸」が就航
しかし1970年代半ばから「泉都・別府」の苦難が始まる 高度成長期が終わる昭和48年(1973)に国際通貨の
変動相場制に移行すると ドルに対して円高基調に突入し海外旅行ブームが到来する
その後 昭和47年(1972)に沖縄返還が決まると 南国九州のイメージが一挙にしぼみ
九州への新婚旅行が激減していった 昭和50年(1975)の山陽新幹線・博多駅の開業は
大分県や宮崎県にとっては痛手となり 別府市の年間総観光客数は 昭和51年の約1300万人をピークに
微減傾向が続き 現在は統計手法が変わったとはいえ 約800万人を割るまで減少している
肥大化した温泉宿を抱える別府は 昭和60年代に訪れた 女性を中心とした小グループで旅行をする
「温泉ブーム」に乗ることが出来ず 油屋熊八が文人墨客のために拓いた由布院温泉に客を取られてしまう
近年大型温泉ホテルを中心として 東南アジア各国の団体客の誘致が進むが
逆にそれが国内客を遠ざけてしまう遠因となったとも言われている
また 昭和63年(1988)の竹下内閣による「ふるさと創生」事業により 各地に温泉が堀削され
「日帰り湯」と言う新たな文化が生まれ 一泊二食で客を囲い込む温泉宿の苦難が続いている
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