風呂の歴史

お風呂の歴史は 6世紀の仏教伝来から始まる 宗教儀式に於けるこの行為は一般的に「沐浴」と言われ
「沐」は水を頭から浴びること 「浴」は水に身体を浸けることを意味する
西洋から西アジア地域では 古代から続く習慣で 記録に残る最も古い沐浴の習俗は 古代ギリシャの
エレウシスで行われていた「神秘」と呼ばれる神秘主義者達による海での浄化の儀式である
多くの宗教で奨励されている参拝・礼拝の前に手や足・顔・口など体の一部を水で洗う行為も沐浴の一種であり
神道に於ける「禊ぎ」や 煙・火・香料などによりけがれを落とす行為も「沐浴」に含められる
この「沐浴」の習慣が 時をかけて日本に伝わり お風呂に入ることは健康に良いと理解されてもいた
「温室教」という沐浴の功徳を説いた経文には 沐浴によって 燃火(ねんか)・浄水・澡豆(そうず)
蘇膏(そこう)・淳灰(じゅんかい)・楊枝(ようじ)・内衣(ないい)の七物を整えると
「七病を除き 七福が得られる」と記され「汚れを落とすことは仏に仕える者の大切な仕事」とされていた

「風呂」とは 現代の「サウナ」と同様の熱気浴や蒸気浴の「室」のことを指し「ムロ」が転訛した言葉である
石風呂・岩風呂・穴風呂などとも呼ばれ 自然にできた洞窟や岩をくり抜いた穴の中に石を敷き詰めて
薪に火を付けて燃やし内部が十分に熱せられたところに 草の葉や木の葉などを敷き詰め
または筵などを敷き水をまくと 穴の中は蒸気で満たされるサウナとなる 薬草や石菖・枇杷の葉などを用いると
体にも良いとされた 大きなピザ釜や炭焼釜のような物を斜面に造成することもあった
鎌倉時代の建治2年(1276)に一遍上人が作ったとされる別府鉄輪の蒸し湯は 温泉の噴気を利用したものである
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上の写真は 大分県杵築市山香の泉福寺石風呂で 説明文には下記の通り記されている
金亀山泉福寺は、養老年間に仁聞菩薩(伝説的な僧)の開基と伝えられ、観応3年(1352)に再建されたが
明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。残されたこの石風呂の構造は上下二階式で、上部が浴室、下部が
火ぶくろとなっている。浴室入り口の両側と上部は板碑、浴室内の四壁は岩盤を削ったり、
板碑や各種の石材を積み重ねていき、天井や床は板碑や板状の石材を用いている。
石風呂は全国的に横穴式・炭竈式のものが多く、このような二階式のものは類例が少ない。
使用法は下から火を焚き、床に石菖やヨモギ等を敷きつめ、熱くなると水をかけて中に入り
身体を温めて治療していた。浴室入口の高さ90cm、奥行きは150cmである。製作年代は不明であるが、
江戸時代中期の記録に「病人多く集り焚く」とある

私見ではあるが 災いを悪霊のたたりとする神道に対し 仏教は人の生死を考える哲学的要素の中に
科学や医学も包括していたと思われ 仏教においては多くの宗派の開祖が 霊魂の存在を迷信として
説いていたこともうなずけるのである 故に 入浴は寺院や僧侶にとっては医術療養の一端であった
現代医学では免疫力を高める方法として 体を温め体温を上げることが有効とされている
近年「岩盤浴で免疫力が高まり癌細胞が死滅する」と話題になって 一躍 湯治療法が注目された
また 病にかかった場合熱が出るのは身体に備わった免疫本能で 無闇に解熱をしてはならないとされている
水銀体温計の37度の赤線は 欧米人の平均体温であり 日本で体温計を生産するに辺り
西洋の体温計をそのまま模倣してしまったため 今も 37度以上が病気による高熱であると 間違った概念を
日本全体に広めてしまった 現在では38度程度までは解熱剤を服用してはならないとされている
一般的に太古から高緯度の寒い地域で生きてきた欧米人に比べ 日本人は体温が低いと思われるが
それでも平均36.89度である 免疫力を正常に保つには36.5度程度は必要とされている

このような蒸し風呂が 僧侶や寺院によって全国に作られ 施浴(せよく)と称した施しを一般庶民に与えた
やがて 小さな浴堂だけではことたりず 境内に大湯屋とよばれる浴場が設けられるようになった
大湯屋を訪れた庶民が「お布施」を置くようになり それが何時しか入浴料となって
これが現在の銭湯の源になったともいわれている
寺院では仏教儀式に則り月に2回湯をわかし施浴をした 中世の絵巻物に描かれた湯屋には
湯を沸かす釜場 湯を浴びる浴室 法要が行われ脱衣所にもなつた前室の3室が描かれている
現存する最古の湯屋は「東大寺大湯屋」で 延応元年(1239)に創建され 応永15年(1408)に大改造を受けた
湯屋内部の浴室入口上部には唐波風の屋根が取り付けられ こうした寺院の湯屋の様式が
江戸時代以降の銭湯入り口のモデルになっているといわれている
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熊本県山鹿市 「さくら湯」唐波風
藩主の御茶屋として 寛永17年(1640)に創建される
明治5年(1872)庶民に開放されていた外湯を大改修し 「さくら湯」と名付けた
平成24年10月 明治初期の姿で再建された木造建築の湯屋である

大湯屋では 蒸気を常に発生させる必要が生じ 床の一部に湯溜めを設置して熱湯を常に供給したと思われる
この浴槽は下から直接火を焚いて沸かすのではなく 別の釜で沸かした湯を運び入れる形をとっていた
また 現代のシャワーのように 熱い湯を木の枝などを使い身体に掛けるようなことも行われていたとも考えられる
温泉地などでは 身体そのものを湯に浸け浴する行為も行われるようになった

銭湯の出現時期については判然としないが 銭湯という言葉自体は1300年代にはあったことが確認されている
寺院による施浴によって一般庶民にも「入浴する」という習慣が広まり 平安時代の末には京都に湯屋が出来た
鎌倉時代以降は幕府も一般庶民に施浴を施し 室町時代に入ると施浴は「功徳風呂」などと呼ばれ
日にちを定めて庶民にふるまわれた さらに 施浴の習慣は個人にも広まり人を招いて遊ぶことを
「風呂」と呼び 入浴にさまざまな趣向がこらされ 浴後には茶の湯や酒食がふるまわれた
いわゆる「風呂ふるまい」で 裕福な家は近所の人々に風呂をふるまい 地方でも村内の薬師堂や観音堂に集まり
風呂をわかして入り 浴後は持参の酒・さかなで宴会をする「風呂講」が行なわれた
人々の入浴は 宗教的意味合いを徐々に失い 娯楽的・レジャー的要素が強まり 現代へと引き継がれている
しかし 医療・療養的意味合いは 現代も失われてはいない

江戸の銭湯で 記録に残る最初のものは天正19年(1591)銭瓶橋(現・千代田区大手町江戸橋附近)の袂で
伊勢与市が風呂屋を開業したのが初見である 徳川家康が江戸入りした翌年で 城下町も整っておらず
城下町建設に集まった人々を目当てにした銭湯と言える この銭湯は 小屋の中に焼いた石を敷き
その上に水をかけて簾の子を置いた蒸し風呂で 驚くほど熱かったと伝わっている
17世紀初頭の慶長年間の終わり頃には 「町ごとに風呂あり」といわれるほど江戸中に銭湯が広まったが
やはり「熱い」蒸し風呂が多く 江戸っ子の熱湯好きは この頃に形成されたと思われる
江戸の町はもともとが湿地のような場所を埋め立ててつくられたため 井戸を掘っても塩水しか得られなかった
幕府の手で上水が整備されたが 水は高価で貴重なものであった
それ故銭湯は 当初は水も燃料も少なくて済む蒸し風呂が主流であった
やがて 風呂と湯の中間的なものが現われる
最初に書いたように「風呂」とは蒸し湯をいい 「湯」とは浸るための「据え風呂」を指す
今では 関西圏は「風呂」 関東では「湯」と言い習わされているが 今では同じ意味合いである

当時の銭湯は蒸し風呂の一種で「戸棚風呂」といわれた形式で 浴槽の底に膝をひたす程度に湯を入れ
下半身を浸し上半身は湯気で蒸す仕組みであった 浴室の出入口に引違い戸を付け 湯気のもれるのを防いだ
ところが開閉が激しいと湯気が逃げてしまうので 工夫されたのが「柘榴口」である
これは 三方羽目板で囲まれた小室に浴槽を置き 出入口に天井から低く板をさげて湯気の逃げるのを防いだ
客たちはこの板の下を潜り出入りした 「柘榴口」の呼び名は 鏡を磨く「柘榴の実」にあてて
「屈み入る」を「鏡鋳る」とのしゃれ言葉であったらしい 柘榴口の上には「唐破風」の屋根がつけられていた
当時 浴槽内の湯はきわめて不潔で量も少なく 体を洗う湯を浴槽から汲んで使うということはなかった
そこで 別に沸かしたきれいな湯を湯番と呼ばれる人に柄杓で汲んでもらっていたようである

慶長年間の末頃には 湯に浸かるための「据え風呂」が 商家などに広まった 蒸し風呂ではなく
湯の風呂だから「水(すい)風呂」とも呼ばれ 当初は沸かした湯を桶に入れる方式であったが
浴槽内側の縁に 通気口のついた鉄製の筒(煙突)をたて この中に燃えている薪や木炭を入れ
通気口から入る風で薪が燃え続けて 鉄の筒が熱せられることによって湯が沸く「鉄砲風呂」が発明された
主に江戸で広まったが 長屋暮らしの庶民には 銭湯通いが普通であった
一方関西では 桶の底に平釜のついた「五右衛門風呂」と呼ばれた釜風呂が多かった
名称は 石川五右衛門の釜煎りの刑にちなむもので 土竈の上部に平らな鉄釜をとりつけ
この上に円筒形で底のない桶をのせ 釜とのつなぎ目を漆喰で塗り固めたものである
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上図の左が「五右衛門風呂」で 右は明治以降に作られた「長洲風呂」である
<絵図出典 キッチン・バス工業界 >
文化2年(1805)に刊行された 十返舎一九の著作「東海道中膝栗毛」初編小田原宿の一節で
<小田原宿の現代訳 別ページ>
江戸っ子の弥次郎兵衛と北八には 上方(関西)で流行っていた「五右衛門風呂」の入り方が解らず
また シャイな江戸っ子には「聞くのが恥ずかしい」という見栄っ張りもあって
小田原宿で「五右衛門風呂」の底を抜いてしまう この話に出てくる風呂は 左の方である
現在では 「五右衛門風呂」は右の長洲風呂を指している 今 この長洲風呂を国内で製造する会社は
広島市安佐北区可部にある 天保2年(1831)創業の大和重工(株)のみとなっている
img 江戸時代の中期から後期にかけて 浴槽の外側に別の湯沸釜を設置し
釜と浴槽とを二つのパイプで連結して 釜の湯が沸くと自動的に湯が浴槽に
循環するというお風呂が登場した これが「子持風呂」と呼ばれる外釜式の
桶風呂で 現代の外付け風呂釜の原点ともいえるものであった
 左の画像は 明治43年(1910)に発売された巴式の風呂釜の新聞広告で
この風呂釜は子持風呂の一種であり 現在の外置きガス釜と大差はない
また 鉄砲風呂も明治以降は 鋳物の焚き口と釜が風呂桶の下部に付けられ
昭和30年代まで 家庭の風呂は木桶にこの釜と煙突が付いた風呂であったが
プロパンガスの普及と公団型アパートの出現で瞬く間に姿を消した
 一方の「五右衛門風呂」は平釜と桶の接合部から漏水することが難点で
明治以降 長洲風呂の普及で消滅し 「五右衛門」の名も長洲風呂に奪われてしまった

明治時代になり銭湯の様式は大きく変化した 石榴口は取り払われ 蒸し風呂式は無くなり
浴槽は板間に沈めて湯をたっぷり入れた さらに洗い場を広く天井を高くし 開放的な清潔感のある銭湯になった
これは「改良風呂」と呼ばれ評判になった 石榴口の豪華な破風造りは あらためて銭湯の入り口に据えられ
今も残る古い銭湯の原型となっている
大正時代になると さらに銭湯は近代化し 板張りの洗い場や木製の浴槽は姿を消しタイル張りとなった
後に 水道が普及すると浴室に水道式のカランが取り付けられ 衛生面においても向上した

八丁堀 女湯の刀掛け

女湯入りと 毎日髪結床が出前で結髪し月代(さかやき)を綺麗に剃ってくれる日髪日剃は 与力・同心の
特権だったらしい 女湯の朝湯を留湯(貸切)にして入り 男湯から聞こえる話に耳を傾け情報収集を
行なったといわれている また 下級武士であった与力・同心が市中の動向を探るため 情報収集の方法として
髪結床で話される世間話や噂を得るために日髪日剃が認められていたとされる
江戸時代の朝湯は 早朝から開かれ職人は仕事に出る前に体を清めるためにひとっ風呂浴びていくため
朝早くから かなりの人が入っていたらしい それに比べて女湯の朝は空いていたので そこを貸切りにして
与力や同心を入れたと伝わる しかし 江戸時代の中頃までは男女混浴の湯屋が普通であった
故に この話は江戸時代の後期か 混浴禁止令が布告された寛政以降であったと思われる
寛政3年(1791)老中松平定信が寛政の改革の一環として 入れ込み湯(男女混浴)の禁止令を出したが
なかなか遵守されなかった 理由のひとつとして湯女(ゆな)の存在があった
当初は客の背中を流したり髪結の世話をする女性であったが やがて湯上がり客の酒の相手をするものも現われ
男性客の中には湯女を目的に湯へ行くものもいた 男女混浴を禁止すれば 当然 湯女の存在も禁止となるため
また 男女別々に湯を作ると水も燃料も倍になり経費が嵩むという理由で 入れ込み湯禁止令は守られなかった
やがて湯女を無くし 客の背中を流す「三助」と呼ばれる男性の職業が現われ 混浴禁止を守る銭湯もあったが
一般的には 男女の入浴時間や入浴日を分け 男女混浴を避ける方法をとるのが普通であった
銭湯での7歳以上の男女混浴が完全に禁止となったのは 明治23年(1890)になってからである

銭湯のペンキ絵

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大田浴場連合会公式HPより配布のペンキ絵PC壁紙 原画:360cm×180cm 丸山清人氏作画

背景画ともいう 大正元年(1912)に東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」の主人・東由松氏が
お客で来る子供達に喜んでもらえるようにと 川越広四郎画伯に壁画を依頼したのが発端となった
作者の広四郎氏は静岡県掛川の出身で富士山が大好きであったという
これが評判となって多くの銭湯が倣い 銭湯といえばペンキ絵という観念を生じさせるに至ったが
東京を中心とする関東地方に限られたもので 西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多く
壁面のペンキ絵はほとんど無い 現在キカイ湯の跡地にはペンキ絵発祥地の記念碑がある

風呂敷

日本に入浴の習慣をもたらしたのは仏教でした そのため宗教的色彩が強く 入浴は単に体を
清潔にするだけではなく 仏の前で心身を清浄にする沐浴の一面もあった そのため 入浴にも決められた
作法があった その一つに白衣を身につけて入浴しなければならないという定めがあった
滝行の人が白衣を着ているのと同じことである 別府の鉄輪蒸し湯でも浴衣を着る作法が存在している
そのため入浴前後に 広げた布の上で服を更衣し 着替えや自分の持ち物この布で包み 散らかさないのも
大切な作法(マナー)であった この布を「風呂敷」と呼んだのが起源という説は有力である
(その他 蒸し湯の中で身体に敷いたという説もあるが それが現在の「風呂敷」になったとは思い難い)
濡れた風呂衣を風呂敷に包んで持ち帰ることなどによって 敷布としての役割から包んで運ぶ用途が加わり
後の世まで包み携帯するための布として認識されるようになったと考えられる
室町時代 足利義満が大湯殿を建てた際 招かれた大名などが入浴する際に他者の衣服と間違えないよう
家紋を付けた布に脱いだ衣服を包み 湯上りに際してこの布の上で装束を調えたという記録があり
この時用いられていた敷布が「風呂敷」と「平包」の双方の役割を果たしていたものとしての
最古の記録と考えられている 江戸時代初頭に銭湯が誕生したが 元禄時代頃から江戸や上方の町では
銭湯が盛んになり 庶民も衣類や手桶・手拭・ぬか袋・ヘチマなど入浴時の道具を「平包」に包み
持って銭湯に出かけている 風呂に敷く布で包むことから、「平包」に代わって「風呂敷包み」や
「風呂敷」と広く呼ばれるようになった このようにして広まっていった包むための風呂敷の呼称は
やがて「風呂で敷く布」から、「包む布」として行商人たちによって全国に広められていったと考えられる
「風呂敷」に用いられる文様には 家紋や花鳥風月等の日本独特の吉祥文様が用いられることが多い
今でも代表的な風呂敷柄の「唐草模様」は 元来吉祥文様であり めでたいもののひとつであった
この唐草文様の風呂敷は 実は明治から昭和に掛けて大量生産されたもので 泥棒は手ぶらで家屋に侵入し
真っ先に盗んだ物を持ち運べる大風呂敷を探した 当時は婚礼道具や布団を唐草の風呂敷で包んでいた
所帯を持つどこの家庭にもあったもので そこから泥棒=唐草の風呂敷というイメージが定着した
唐草文様は古代エジプトで生まれ シルクロードを渡って日本にもたらされた そして江戸時代には風呂敷の
文様として定着したのである 唐草は四方八方に伸びて限りがなく延命長寿や子孫繁栄の印とされていた

浴衣

平安時代の湯帷子(ゆかたびら)がその原型とされ 浴衣の漢字は当て字で「ゆかたびら」の略称である
「帷子」とは夏用の単衣の着物で「片枚」とも書く
湯帷子は平安中期に成立した『倭名類聚抄』によると 「内衣(ないえ)の布で沐浴するための衣」とされている
この時代は蒸し風呂のため 複数の人と入浴するのが普通であった そのため汗取りと裸を隠す目的で
使用されたものと思われる 素材は水に強く水切れの良い麻が使われていたという説がある
やがて浴衣と呼ばれるようになったが 人前で着るものではなかった 平安時代の末頃から入浴に際しては
白衣を省略し 男は前だけを隠す湯褌を 女性は下半身をかくす湯巻(湯文字=腰巻き)を着けるようになった
安土桃山時代頃からは 湯上りに着て肌の水分を吸い取らせる目的で広く用いられるようになり
江戸時代の中期以降 入浴時には湯褌や湯巻が使われなくなった 理由は銭湯の湯そのものが汚れているため
湯褌や湯巻を湯から上がるときに洗わなければならず 面倒であったからと考えられる
入浴用としての役目をなくした浴衣は やがて江戸庶民の愛好する夏場の単衣物の一種となった

ケロリンの湯桶

img製造開始は昭和38年(1963)内外薬品株式会社の鎮痛薬ケロリンの
広告媒体として製造された 以降 公衆浴場に置かれ現在も湯桶の
定番として全国で使われている
睦和商事の営業担当より提案を受け考案された 製造は睦和商事に
委託する形で提供を開始した 当時の銭湯は木製の湯桶を使用していたが
ケロリン桶は衛生面と壊れにくさを考慮して素材にプラスチックを採用した
木桶が衛生問題により合成樹脂製へと切り替わる時期で 広く広まった
当初は白色の桶が使われていたが 湯垢による汚れが目立つため
黄色い桶に改められた また文字が消えないように印刷はプラスチックの
表面ではなく内部に埋め込んだ形のキクプリントという技術を採用している
ケロリン桶には関東用と関西用の2種類のサイズがある 関東用は直径225mm×高さ115mm
関西用は直径210mm×高さ100mmとなっており 関西用が少し小さい これは 関西には湯舟から直接
桶でかけ湯をする習慣があり 関東用を使った場合に湯が入りすぎて重くなってしまうためである
平成25年(2013)1月末に睦和商事が需要の落ち込みにより事業を停止し 同年3月に経営破綻した
平成24年(2012)末以降は ケロリン湯桶の販売・配布展開については内外薬品によって行われ
今も ケロリン湯桶は1週間に1020個製造されており amazonでも購入可能である

参考サイト
ナスラックお風呂の歴史:http://www.nasluck.co.jp/useful/bath/history/
お風呂のお話 楽しい入浴 日本のお風呂の歴史:http://takejoy.fc2web.com/
銭湯の歴史|東京都浴場組合:http://1010.or.jp/sento/history/
株式会社ナカガワ・日本のお風呂の歴史:http://www.kk-nakagawa.co.jp/blog/2012/06/post-14.html
国立歴史民俗博物館:https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/142/witness.html
五右衛門風呂とは・コトバンク:https://kotobank.jp/word/
五右衛門風呂(長州風呂)の特徴と豆知識:http://www.idaya.co.jp/go/tokutyou.htm
風呂|水の話|フジクリーン工業株式会社:http://fujiclean.co.jp/fujiclean/story/vol13/part101.html

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