道草を食う

なぜか理由は解らないのだが 父の転勤で遷り住んだ宿舎では 子供たちは隣町の市立の学校へ行った
まだ現在のように宅地化の進む以前のことであり 大半が農家であった為 確執があったのかも知れない
なので幼稚園には行けなかった 小学校へも電車に乗って一駅隣の町まで通う
入学早々の小僧が定期券を持って通学する訳で 今では考えられないことである
河内から泉州・和泉・岸和田あたりまでは「だんじり祭り」が盛んで 祭りの日は学校が休みであった
しかし越境入学の子供には引くべき「だんじり」がない こうして今でも私は神社の祭りが嫌いである
一駅隣と言ってもホームから望めば次の駅が見えるほどの距離で 道草をしながら歩いて帰る事もあり
今の世と比べると安全で快適な日本であったのかもしれない 国鉄車両基地と車両工場に挟まれた道を帰るのだが
車も人も滅多に通ることもなく寂しい野づらの道が続き 墓の手前で道は二つに分かれる
墓を突き抜ければ近道となるが 右に曲がれば少し遠回りながら線路沿いの道に出る
いつも数人で帰るとき その角でいつも「棒たおし占い」でその日通る道を決める
ある日火葬場の煙突から煙が出ているのに 棒はまっすぐの方に倒れた 墓地の真ん中を走って駆け抜ける時
ちらりと釜の方を見た なぜか扉が開いていた 真っ赤な炎の中に今でも何かを見たような気がするのである
haka
中学校まで越境通学は続いたが ある時から教育委員会がうるさくなって 越境通学は難しくなった
父の勤務の都合で別扱いとなる特例で残留することが出来た 転勤が多いとの理由からであろうか
ある日 同じく越境で通っていた級友が通学証明を貰いに行ったが 特例外で学校が証明書を発行しなかった
私は特例の事を友人に言えなかった 彼が転校した後 なぜか嫌な気分と寂しさを感じた