砲兵工廠大空襲

現在のJR大阪環状線は昭和36年(1961)に運行を開始した それより以前は現地下鉄御堂筋線と
大阪城の東側を迂回する国鉄城東線の2路線があった 城東線は天王寺駅を出ると東から北へと回り
寺田町・桃谷・鶴橋・森ノ宮と過ぎやがて線路の西側に大阪城を見る 万博開催にあわせるように公園化が進むまで
城の手前から線路脇に至るまで 赤錆た鉄骨をむき出しにした巨大な廃墟が横たわっていたのを覚えている
大阪砲兵工廠すなわち旧「大阪陸軍造兵廠」の廃墟である 昭和20年8月14日米軍の爆撃により
一瞬にして廃墟と化したのである 終戦のわずか1日前の事である
当時米軍は 日本がポツダム宣言の受諾を伝える天皇の詔勅が翌8月15日に下り 停戦に入ることを傍受しながらも
戦後の占領政策を考慮し 日本国内の生産設備を徹底的に破壊する事にしたのである 当日の空爆で大阪市民が
一説に1万5千人程度死亡したといわれるが 現在でも被害規模・犠牲者ともに特定されていないのである
1日終戦が早ければなどと 運命的に囁かれる事もあるが そうは思えない
なぜなら いつものような焼夷弾よる空襲では無く 1トン爆弾による集中攻撃であった
戦略的には正確な空爆ではあったようだが 京橋駅が誤爆により直撃を受け避難していた多くの市民が犠牲となった
無傷で残された大阪城天守閣とは対照的である
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上写真は「国土地理院 国土変遷アーカイブ 空中写真 USA-R500-32」の一部分である
三年後の昭和23年12月30日(1948) 米軍により高度2438mから撮影された
黄色の丸印が京橋駅 多数の丸い穴は1トン爆弾により生じたクレーターである
不発弾の存在および犠牲者の発掘等により 長期間に渡り民間人の立ち入りが規制された

昭和20年8月14日その日 身重の母は長女を背中におぶって神戸市須磨区の父の実家を出た
四条畷に疎開していた祖母を訪ねようとしていたのである 京橋駅に着き片町線に乗り換えるべく駅に立つが
なかなか電車が来なかった 漸く来た電車に乗ったが二つ目の駅「放出」に停止したまま空襲警報が発せられ
運転打ち切りと防空壕に避難するように指示があった しかし母は席を立とうとはせず電車の動くのをひたすら待った
やがて電車は動いては止まりしながらも しばらくして「四条畷駅」についたと同時に大地が揺れ
頭上を爆風が吹きすさび 破片が飛んでくるのを感じた 駅を出ても頭上にグラマンが飛び交い
容赦なく動く物全てに機銃掃射を浴びせたと言う 母がもう少し家を出るのが遅かったら
もし言われるままに防空壕へ避難していたら 兄と私はこの世に生まれていないかも知れない
周囲一帯の防空壕は1トン爆弾の直撃で壊滅状態となり 後続の電車は爆撃で全滅状態であった

その後廃墟も徐々に取り除かれ砲兵工廠跡地の一部はビジネスオフィス街となり 大半は大阪城公園となった
森ノ宮〜京橋間に大阪城公園駅も開業して 大阪市民憩いの場となっているが 学徒動員で工場に来ていた
少年少女を含む 多くの人たちが亡くなったことをけっして忘れてはならない