西国街道(山陽道)

近世の山陽道は 徳川幕府により京都羅城門から赤間関(下関)に至る街道として 律令時代からの
山陽道を再整備したものである 公儀においては 京都から大阪に至る京街道を除き
大阪高麗橋元標を起点とした街道を西国街道または西国道としていた しかし幕中から幕末にかけ
天領大阪を迂回する参勤交代道として 平安時代から続く山陽道の 京から山崎・伊丹を経て
西宮に至るルートの山崎道が頻繁に使われるようになった
これは幕中以降における大名家の資金難により経費の削減を図る為 繁華な街道や大坂を避け
また京ー西宮間を短絡するルートを求めた結果であろうと考える
大名行列には 各大名家の石高や格により定められた幕府の規定があった 享保6年(1721)の定めでは
10万石の大名家では 騎馬10騎・足軽80名・中間(人足)140名から150名とされた
それにも増して諸大名は 自らの体面を繕い自藩の権勢を誇示するため 義務付けられた以上の供を連れ
行列の服装も華美となる傾向があった 102万石の加賀藩では最盛期に4000人に及んだという
宿泊などの経費を考えると山崎道を利用したことも納得できる
いつしかこの山崎道を通称・西国街道と呼ぶようになったことから 一般的には西宮以西を山陽道とし
近世に建てられた多くの道標がこの名称によって建てられている しかし幕府が重要視していたのは
大坂発尼崎を経由するルートであったと思われる
山崎道では 武庫川は渡し(髭の渡し)であったが より南の西国街道には橋が架けられていた
よってここでは 京から山崎を通る街道を脇街道の山崎街道とし 公儀によって定められた
大阪高麗橋里程元標を起点とする西国街道について掲載する
しかし 近世の街道と言えども 現在の地図による街道探索はもはや不可能と言って良い
また多くの道標も道路工事により紛失又は移動されている 明治時代の地図を頼りに
先人の研究も参考にしながら想像を巡らし探求するも一興であろうかと思う
西国街道は1宿目の西宮から赤間関宿(下関)まで数えて47宿の道程である 京都−大阪間の京街道は
東海道の延長として淀川左岸を通り 途中に伏見・淀・枚方・守口の四宿が置かれた
ほかに 京−西の宮間には山崎街道があり
山崎・芥川(高槻)・郡山(茨城)・瀬川(箕面)・昆陽(伊丹)の五宿が設けられ
大坂を通らず西国へ抜ける脇街道として 幕中以降に大名の参勤交代に頻繁に利用された
西国街道は脇往還として ともに東海道・日光街道・奥州街道・中山道・甲州街道の五街道を管轄する
道中奉行の管理下に置かれた ルートは律令時代からの山陽道・山陽大路を踏襲している
幅員は定めにより二間半(約4.5m)と決められていた 赤間関から馬関海峡(関門海峡)を渡り
豊前小倉を経由し長崎街道へと通じることから 東海道に次ぐ重要な街道に位置づけられていた
また西国大名にとって参勤交代の重要な街道でもあった
宿駅は 1.西宮ー2.兵庫−3.大蔵谷ー4.加古川ー5.御着ー6.姫路ー7.正條ー8.片島ー9.有年ー10.三石ー
11.片上ー12.藤井ー13.岡山ー14.板倉ー15.川辺ー16.矢掛ー17.七日市ー18.高屋ー19.神辺ー20.今津ー
21.尾道ー22.三原ー23.本郷ー24.西条ー25.海田市ー26.広島ー27.廿日市ー28.玖波ー29.関戸ー
30.玖珂ー31.高森ー32.今市ー33.呼坂ー34.久保市ー35.花岡ー36.徳山ー37.福川ー38.富海ー39.宮市ー
40.小郡ー41.山中ー42.船木ー43.厚狭市ー44.吉田ー45.小月ー46.長府ー47.赤間関(終点)の
46次47宿である 全区間を通じ海岸線を通ることは少なく宿場間に峠が横たわることが多い
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広島県福山市神辺町大字川北 神辺宿の西国街道
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岡山市北区吉備津 真金の一里塚と西国街道
山陽小野田市山野井 吉田道(西国街道)の道標
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山陽道終点 赤間関観音崎一里塚跡の永福禅寺前 かつては大瀬戸が眼前に迫っていた
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1.船着場跡 2.一里塚跡 3.観音崎 4.永福禅寺前 5.西国街道
旧西国道が海岸線で 観音崎は大瀬戸に張り出す岬鼻であった  観音崎の直下が船着場となっていた
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