西国街道(山陽道) 明石−土山

明石市大道町にある西国街道と国道175号の和坂1丁目交差点を過ぎると 加古川市野口町坂元まで
標高10から30m程度の台地上を街道は通過して行く 街道の大久保段丘上における最高地点は
明石市魚住町長坂寺・県道379号岩岡恵住線交差点の標高45.5mとなる
この丘陵地は 印南野(いんなみの)台地の南端にあたり
大久保低位段丘と呼ばれ 瀬戸川や赤根川などの小流により土砂が堆積したものである
地層が粘土質+砂利質によるため地表水に乏しく また地下水が深いため近世まで未開発のままであった
 海岸部には播摂五泊のーつである魚住泊が漁村として発達してはいたが
内陸部を通る山陽道とは離れており 人家のない荒涼とした草原が広がっていた
しかし江戸時代に入ると 寛永12年(1635)に西島・中島・森の三ヶ村により農業用溜池として
寛政池が造成されたのに続き多くの灌漑用溜池が造られた このような新田開発により
大久保は一躍米処となり ここで作られた明石米は最上級とされるまでに至る
海運の良い浜辺では この良質の米を用いて酒造も行われ 「西灘」と呼ばれる酒の生産地となった
赤根川下流域には 現在も数軒の酒造会社が存在する
現在の山陽道である国道2号線は 旧市街地を避け新たな道として造成されてきたため
西国街道は 旧国道として拡幅されたものの 生活道路として存在し続けることが出来た
故に 明治以降 急速に経済発展してきた区域にもかかわらず 西明石駅周辺の一部を除き
そこはかとなく 旧街道の面影を好ましく醸し出している
<参考文献:北海道教育大学・酒井多加志 兵庫県明石市西部の溜池灌漑に関する研究>
明石市和坂坂1丁目・和坂口から土山・姫路藩境まで
2016.12.07 明石市和坂1丁目の国道175号線交差点から西明石駅まで
昔 和坂は蟹和坂と書き(かにがさか)と呼んでいた 江戸時代初期に明石藩が 蟹和坂の蟹を省略して
「和坂」とし 読みはそのまま「かにがさか」とした 近年 明石市営バスが和坂車庫を新設し
「わさか車庫」と呼んだ為 現在では「わさか」を正式な地名読みにしてしまったという経緯がある
しかし「和坂」は蟹伝説から由来しており「かにがさか」と読むべきものであるという意見もあり
現在も 山陽本線の敷地を有する大字和坂は「かにがさか」を正式読みとする
また Googleの日本語入力で「和坂」と入力すると「かにがさか」と読みが出る
古くから和坂は 広大な印南台地の東口の難所とされ 茨の茂る細道で追い剥ぎが出没する所であった
この細道の改修は 大正8年(1919)大正天皇と皇太子が和坂周辺で行われた陸軍大演習観閲の時で
道路が拡張され側溝まで作られた しかし 下に「荷車の押し屋」がいたほどの傾斜は変わらなかった
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播磨名所巡覧図絵
和坂(かにがさか)慶命山 坂上寺(ばんじょうじ) 図右下に池と蟹塚が描かれている
蟹塚は 昔あった「二つ池」の中島にあったもので 弘法大師が蟹を退治したと言う伝説があり
それに因んで 西国街道の坂上寺前から西側に向かう緩やかな上り坂を「かにがさか」と呼んだ
かにがさか伝説
今から千年以上も昔・京都に都があった頃 この坂には老狐がいて若い狐を従え我が物顔でこの辺りを
駆け回っていた 一方 坂の下には満々と水をたたえた大池があり 年老いた大蟹が住んでいた 老狐と
大蟹はとても仲が悪く「足の速さならこちらのもの のそのそ横にしか歩けない不細工なやつめ!」と
狐が言えば「蟹のハサミの恐ろしさをしらなぬか!」と蟹がやり返し
坂をめぐる縄張り争いに明け暮れていた ある時 決着をつけようと坂の下から上まで駆け比べをした
いよいよ駆け比べの当日 蟹は考えた「足の速さなら勝ち目はない」ここは一つ知恵比べといこうと思い
出発の号令と同時に狐の尻尾にしがみついた そうとは知らない狐は たちまち坂の上まで駆け上がり
「蟹はまだ1尺も進んでいないだろう」と振り返りかえると 素早く尻尾から離れた蟹が下から
「おい!なにを見ている俺はとっくについているぞ」と言った 狐はビックリして逃げてしまい
坂は蟹のものになった 敵がいなくなった蟹は 悪さのし放題で旅人を困らせていた
ある日 この坂を通りがかった弘法大師が村人の難儀を聞き 手にした杖で大蟹を退治した
以来この坂は安心して通れるようになり いつしか「蟹和坂=かにがさか」と呼ばれるようになった
また 日本書紀には 文石小麿(あやしのこまろ)という盗賊がこの地に屋敷を構え
道を行き交う人々や商船に対し 蟹殻の仮面や犬や牛の毛皮をかぶって略奪を繰り返したため
雄略天皇の命を受けた小野大樹が 兵を率い討伐したという話が記されている
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国道179号線・和坂1丁目交差点
かにがさかのお大師さん 坂上寺(ばんじょうじ)
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安永9年(1780)建立 大師旧跡の碑
和坂
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和坂1丁目
和坂2丁目 ?屋敷
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和坂2丁目の地蔵堂
和坂2丁目の土蔵
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西明石町5丁目で国道2号線と合流
松の内交差点から左の側道へ
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明石市和坂(かにがさか)
西明石駅前交差点

2017.04.14 西明石駅前−土山
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明石市小久保2丁目の地蔵堂 背後は山陽新幹線
街道は山陽新幹線西明石駅で消滅
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新幹線北側 小久保2丁目
栽松寺(江戸時代は庵)の古井戸
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三社神社 「子を抱く狛犬」の子宝神社
街道は生鮮&業務スーパー敷地に
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明石市藤江 国道2号線北側の旧街道
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江戸時代に造成された雲楽池(くもらがいけ) 夏は蓮の花が綺麗である
以前は青池やカケノ池・割池なども見られ 松林が広がる中に六軒の茶屋があったというが
雲楽池の他は全てなくなり松林も消滅してしまった
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明石市藤江 街道と国道2号線の交差地
明石市大久保町森田
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森田・住吉神社
橋本医院の桜
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大久保町大久保 谷八木川までの下り坂
大久保住吉神社 東住吉講の布団太鼓小屋

明石の布団太鼓
布団太鼓は 摂津の河内・和泉 播磨の淡路・兵庫・明石など瀬戸内東部の地域の大型の飾り担ぎ山で
最大の特徴は 正方形の巨大な布団を屋根にあたる部分に逆ピラミッド型に積む点にある
別名 布団だんじり 布団神輿 布団屋台などとも呼ばれるが 地車のような曳山ではない
明石型の特徴は他の地域では見られない 赤色3枚の平型布団屋根と 掛幕の寸胴形台をしたものが多く
地域によって様々で 和坂の一枚布団や 魚住町清水の黒屋根など 布団の枚数や色が違うものもある
ちなみに 大阪や淡路島では布団の枚数は5枚が中心で 二見町など明石市西部では
高砂市の曽根天満宮などでよく見られる反り屋根をしたものも見られる
市内各所の神社36社中21社に 約40基の布団太鼓があり 毎年10月の秋の祭礼に市内各所を練り歩く
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広報あかし 2013年10月1日号表紙画像
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大久保の地蔵
本陣安藤助太夫跡 駅前マンション群を遠望

間宿である大久保に本陣が設けられたのは 慶長年間のことで播磨国領主・池田輝政の時代である
明石藩松平信之の時代には 本陣・安藤助太夫 脇本陣・林屋与兵衛となっている
脇本陣の林屋は本陣の向にあり 現在の本陣邸宅内に「大久保本陣跡」の石碑があるらしい
幕末には 80軒余の商家が街道筋にあり その内十数軒が旅籠で「丸屋治右衛門」が大きく有名であった
明治21年(1888)に山陽鉄道が開通し 交通体系の変遷により宿場は寂れていった
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土蔵
西住吉講の布団太鼓小屋
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明治天皇大久保御小休所建物の碑
移築された南側の明治天皇御小休所建物
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この洋館は 本陣安藤家の新太郎が大正8年(1919)出身地である大久保に自身の余生をおくるため
建てた洋風建築物である しかし 建物の完成を見ること無く大正8年2月13日に急逝してしまった
この建物内で新太郎葬儀が営まれた後 現在まで約100年の間空き家として放置されたままなのである
新太郎は 明治元年に庄屋の橋本家に生まれ その後本陣を営んでいた安藤家の養子となった
しかし 本陣は明治3年(1870)に廃止され村役場となったため
明治22年(1889)に明治法律専門学校(明治大学)卒業後は海運会社勤務を経て
明治36年(1903)より衆議院議員を務めるかたわら 辰馬汽船や浦賀船梁の取締役にも就任したが
政界引退後は故郷への思いが強く 邸宅の建設を始めた 加護谷裕太郎の設計により
外壁は重厚な総石造 屋根はマンサードルーフで緑色のスペイン瓦で葺かれ三連の丸窓が特徴的である
ポーチは ふくらみを持ったルネッサンス様式の柱で支えられ 当時では最先端のハイカラ建築であった
明治18年(1885)に 明治天皇が西国巡幸をされた際に休まれた建物(木造書院造り)は
元は本陣安藤家にあったものを 洋館建築時に記念館として移築したものである
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大久保駅前1丁目交差点の大久保町案内図
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大久保駅前1丁目の大久保村道路元標
大久保駅前1丁目の地蔵
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県道380号線に突き当たり消滅 交差点に道標
魚寿み 中尾 左リ住吉社二見道 濱谷 西岡
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江井島 是ヨ里 播磨八拾八ケ所 森 柳井
富士通工場前から振返る 動物病院の向こうが街道
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明石市大久保町西脇 コカ・コーラ明石工場西側
明石市魚住町金ケ崎
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金崎神社(黒石神社)鳥居
明石市魚住町金ケ崎
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「左大山寺道 」の参詣道標が立つ金ケ崎接畑三差路 太山寺まで15.4km(約4里)の道程
天台宗 三身山 太山寺
住所:兵庫県神戸市西区伊川谷町前開224
平安時代創建の名刹 寺伝による建立は霊亀2年(716)とされている
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播磨名所巡覧図絵 大山寺
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真宗大谷派 天光山 正覚寺
明石市魚住町金ケ崎
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亥ノ池
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長坂寺の古前中池 坂の上に道標
小式部内侍之松
魚住之太子道
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長坂寺の旧家と桜
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長坂寺の地蔵
県道379号交差点 標高45.5m
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明石市魚住町清水 長池の地蔵
明石市魚住町清水 浜西神明神社
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地名長池の由来元 長池 元は長さ300mあった
小学校敷地で分断され 北側も埋立てられた
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日向堂は藩主松平日向守信之の威徳を偲び建立
焼き麩製造の永井商店
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長池の井戸 近くに茶屋と長池本陣があった
明石市魚住町清水742-11 謎の石柱
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魚住町清水 旧家の大屋根
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魚住町清水998 瀬戸川への下り坂
共同墓地内の五輪塔

建造物「石造五輪塔」
地輪に「貞和ニ年ニ月時正」(1346) の銘が彫られている2m近くある石塔である。
貞和というのは南北朝時代の北朝方の元号、時正は彼岸の中日を意味する。
全体にどっしりした落ち着きをもち、水輪のふくらみや火輪の反転に豊かな美しさをみせる。
建武中興など、打ち続く戦乱の犠牲者を弔う供養塔として建てられたものと思われる。
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清水神社
明治以前は王子権現宮と呼ばれていた 江戸時代初期の明暦2年(1656)の創建
祭神は 雄略天皇の迫害を逃れてきた二人の王子 後の第23代顕宗天皇と第24代仁賢天皇及び大己貴命
古くからこの地に祀られていた帝釈天と 他の村から勧請した王子権現を合祀したのが始りとされる
石灯籠には 宝暦9年(1759)と明和5年(1768)戊子年の銘が見られる
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西福寺角の地蔵 「右 あかし道」の刻字あり
地蔵の前にも道標

この道標は「道しるべ」というより 名所旧跡の観光案内の要素が強い
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明石側南面「左 別府手まくらの松 をのへの可年 高砂相生末川」
「別府手まくらの松」は 加古川市別府町東町の別府住吉神社境内にある松で 横に傾き腕枕のように
見えることから 別府出身の俳人・滝瓢水(たきひょうすい)が「手枕(たまくら)の松」と名付けた
初代の松は大正末期に枯れ 現在の松は3代目である 「をのへの可年」とは「尾上の鐘」のことで
加古川市尾上町長田にある尾上神社の 国重要文化財の「朝鮮鐘」のことである
「高砂相生末川」とは 「高砂相生の松」の意味で 高砂市高砂町にある高砂神社の相生の松のことでで
江戸時代に3代目の松が植えられ 大正13年に天然記念物に指定されたが 昭和になって枯死し
現在の松は5代目である 雌株と雄株の二本の松が寄り添い生えることから
松の長寿と相生の夫婦和合を象徴しており 謡曲「高砂」はこの「相生の松」を謡ったものである
<加古川観光協会 wikipedia>
街道側東面「是よ里 はり満名所道」 枝道西面「右 岩岡 安かし道」
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播磨名所巡覧図絵 尾上社
兵庫県加古川市尾上町長田518 尾上神社(おのえじんじゃ)住吉四所を祀る
神功皇后が三韓征伐の際に この地に上陸したが長雨のために船を進めることが出来なかったため
「鏡の池」で潔斎沐浴して晴天を祈願し 住吉大明神を勧請したことが起源とされる
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瀬戸川橋
清水共同墓地の六地蔵
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清水新田 宝篋印塔
清水新田 延命地蔵尊

清水新田 宝篋印塔 (ほうきょういんとう)
清水新田宝篋印塔は江戸時代後期(18世紀後半から19世紀半ば)に建立されたと考えられています。
江戸時代、このあたりは西国街道と呼ばれる街道があり、往来する旅人が数多くいました。
江戸時代の旅では旅の途中で命を落とすことも珍しくなく、清水新田の地で行き倒れとなった旅人も
多くあったようで、行き倒れとなった旅人を供養し、地域に災いが起こらないようにと
清水新田の人々がこの地に宝篋印塔を建立したのではないかと言われています。
以前は現在の位置から約30メートル東北東の位置にありました。幾度か場所や形を変えてきたようですが、
老朽化が進み倒壊寸前の状態にあり、現在地の財産区墓地の整備を契機として、
現在の位置に移設する事となりました。そして、平成23年8月から移設作業が開始され、
移設作業と同時に老朽化が進んでいた石塔の修復作業がおこなわれました。
移設作業の際には石組土台の内部から「一字一石」、「寛永通宝」、「戒名の書かれた木片」等が
多数発見されました。現在の場所に移設された際には、地震による倒壊を防ぐために石組土台部分と
石塔本体部分を分離して設置する事となり、現在の姿となりました。
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兵庫県明石市魚住町清水 道標のある辻
左 二見/右 三木 加古川面:右 江井ヶ島
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魚住町清水居屋敷
イオン土山店が見えてきた
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県道514号交差点 松本稲荷と地蔵
イオン土山店
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土山駅前交差点
加古川市平岡町土山 姫路藩領に入る

イオンにいた「ワンちゃん」 可愛すぎて思わずパチリ
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