2015.10.05 西国街道を歩く 小月から長府宿まで

 小月−長府間は旧国道とほぼ同じルートを辿る 山や丘陵地と周防灘に挟まれた隘路であったが
江戸時代から干拓埋立てが進み 街道から海は遠くなった
途中に峠もなく 高低差のない平坦なルートである
小月駅から新下関駅まで 歩いた距離約19.5km 時間6時間30分
小月宿茶屋町東口より長府・大辻まで
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小月茶屋町 長府から約2里の遊興地
岡崎屋 赤間外郎(ういろう)の老舗
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旧商店街 右側は小月公園町4丁目
小月駅前通り
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小月茶屋3丁目 旧国道の標柱
清末鞍馬4丁目
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孝女政の碑
清末では 「孝行塚」と呼ばれ 明治7年(1874)に建てられた 碑文によれば 政(まさ)は清末の
角屋助三郎の娘として生まれたが 幼くして父を失い 長く母だけと暮らしていた
非常に親孝行で 結婚してからも母にも夫にもよく仕えたので殿様から度々褒められていたが
明治4年5月1日に46歳で病死した その生前の行為をたたえる者が多く募金を集めこの碑を建てた
今でも清末では政の命日の5月1日が敬老の日と定められている
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清末中町1丁目 孝女政宅跡
清末八幡宮鳥居 建立・文化5年戌辰(1808)
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拝殿 安政4年(1857)再建
八幡宮鳥居前の地蔵堂
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清末中町1丁目
清末五毛1丁目
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清末西町3丁目 道祖神
橋本家煉瓦蔵
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清末千房1丁目 橋本家長屋門
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神田川の手前
文化8年(1811)架橋
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神田川に架かる神田橋 石橋の欄干を保存
王司神田6丁目
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国道491号線の交差点に出る
国道を斜めに横断し再び旧国道へ
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王司上町5丁目 ゆめタウン長府が見える
王司上町4丁目 宇部一里塚跡
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王司上町4丁目
JR才川踏切
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長府才川1丁目
才川橋
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山陽本線・JR長府駅
長府松小田本町
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長府江下町4丁目
長府八幡町3丁目

長府宿 所在地:山口県下関市長府金屋町
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元禄時代長府古地図(教育資料館所蔵) 別図<貳百参拾年前之長府古図(乃木家蔵品写)988KB>
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八幡(忌宮神社)御旅所 春季大祭の神輿と秋季大祭の子供樽神輿が廻る
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八幡橋
長府前八幡町3丁目 街道は盛土されている
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長府院内町 女流俳人 菊舎尼宅跡
狩野芳崖邸跡

菊舎は 江戸時代の俳人で宝暦3年(1753)に豊浦郡田耕村で田上家の長女として生れた
本名は田上道(みち)である 明和5年(1768)村医者であった父由永が長府・田上家を継ぐため
長府印内町に移り住み 長府藩士となとなった 同年 道は田耕村の農家に嫁いだが死別し
子供がいなかったため24歳で印内の実家に戻った後 五精庵只山に師事し菊車の号を得て俳人となった
29歳になった天明元年(1781)芭蕉と親鸞の旧跡を訪ねる旅を決意し長府を旅立つ
大津郡油谷の八幡人丸神社に参詣し 萩城下の浄土真宗 月輪山 清光寺で得度し妙意の法名を得てから
俳諧修行の一人旅に出立した 上方から美濃の朝暮園傘狂を訪ね入門し 奥の細道を逆コースで巡り
北陸・信濃・陸奥から江戸を経て長府に帰着したのは 4年後の天明4年(1784)であった
後に菊舎は俳句以外の書画・琴・茶湯・和歌・漢詩にも精通した文人となり
その後も旅を繰り返したが 文政9年(1826)印内のこの地で74歳の生涯を閉じた
狩野芳崖
幕末から明治に生きた日本画家で 近代日本画の父と呼ばれる 印内で文政11年(1828)長府藩狩野派の
絵師だった狩野家に8代目として生まれた 成人後父とは別に30石の禄を給され 御用絵師として
江戸と長府を往復する生活が続いた 藩が瓦解した明治維新以降は困窮したが
近代日本画の先駆者となり その作品は伊藤博文によって見いだされ東京美術学校設立の契機となった
芳崖は東京美術学校の教官に任命されたが 明治21年(1888)開校を待たず享年61で死去した
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長府印内町8
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長府印内町13 一里塚跡は痕跡皆無
山口ヤクルト販売(株)長府センター
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街道は商店街に
明治の鬼将軍も只の「おっさん」
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ひらがな表記は「決まり」か?
熊野金物店 「亀の子たわし」の「亀の子」
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古い写真と共に「閉店挨拶」も
忌宮神社 東参道の鳥居
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忌宮神社 正面(南)参道の鳥居
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)拝殿

主祭神:第一殿・仲哀天皇 配神:第二殿・神功皇后 第三殿・応神天皇
長門国二宮の八幡宮 熊襲平定の際 仲哀天皇が滞在した行宮・豊浦宮跡とされている
社伝によれば 仲哀天皇8年(199)に天照大神と住吉三神による託宣を疑ったため筑紫の香椎で
亡くなった仲哀天皇を 神功皇后が三韓征伐からの帰途に豊浦宮の跡に祀ったのが始まりとされる
聖武天皇の時代に香椎宮から神功皇后・応神天皇を勧請・合祀し 仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」
神功皇后を祀る神殿を「忌宮」 応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称し 三殿別立となっていたが
中世に 火災により全て「忌宮」に合祀したことから「忌宮」と呼ばれるようになった
因みに 長門国一宮は 新下関駅南東の住吉神社である
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乃木神社鳥居
住吉神社参詣道分岐
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長府の大辻
大辻を曲がり街道は西へと続く

長府から逢坂峠を越えて新下関まで歩く 4.6km 約1時間20分
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逢坂峠
峠の鳥居跡
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