2016.12.06 西国街道を歩く 兵庫宿−境川

兵庫宿を出ると 街道はほぼ西方に一直線で長田に至る 長田で西南に向きを変え
長田神社の鳥居を過ぎると須磨寺参道分岐まで 標高10m前後の高台を直線的に辿る
現在この区間は 道幅の広い新道となっているが 旧街道は若干蛇行しながら続いていたであろう
須磨と塩屋の間は旧来の難所で北から鉢伏山が迫り 明石海峡との狭間には今も山陽電車・JR山陽本線
そして国道がひしめき合って通る この急傾斜地に東から一ノ谷・二ノ谷・三ノ谷と三つの谷が続き
摂津・播磨の国境である境川へと至る 西暦646年・大化の改新の詔(みことのり)に
畿内の西限として「赤石の櫛淵」の名がある 海岸線が櫛目のようになった荒磯を思わせるのが
この辺りであった 故に古山陽道はこの難所を迂回し 月見山から鉄拐山の北にある多井畑を経て
下畑から塩屋へと下るルートをとった 平安時代後期から鎌倉時代にかけ
鉢伏南麓に砂浜が形成されて  今在る西国街道が通じた物と思われる
参考:市民のグラフ こうべ No.42 1975年10月号
兵庫宿西惣門跡から境川まで
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国土地理院 明治43年(1910)測図 大正2年(1913)発行
1..兵庫駅:山陽鉄道による開業は明治21年で西国街道との交差地に開設された
2.新湊川:明治34年(1901)開削 3.長田宮参道 4.蓮の池 5.阪神電車西代駅:明治43年開業
6.妙法寺川 7.鷹取工場:山陽鉄道が明治33年(1900)に開設した 8.天井川
2016.01.08 三宮からの続きで 柳原えびす神社から須磨まで歩く
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塚本通5丁目附近
西市民病院前歩道橋から兵庫駅方向撮影
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西市民病院前歩道橋から須磨方向撮影
新参道の長田神社道標 大正9年頃設置
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早稲田大学図書館 兵庫津之図 文久2年(1862)の幕末期の絵図面
A.長田社 B.長田村 C.池田村 D.蓮池 E.西代村 F.一里塚 G.板宿村 H.禅昌寺 I.大手村
J.長洲御陣屋 K.聖霊権現(證誠神社)L.東スマ村 M.西スマ村 N.スマ寺 O.綱敷天神 P.濱スマ村
河川名称は東から カルモ川・妙法寺川・天井川と書かれている
長洲藩の御陣屋
安政5年(1858)6月 長州藩は幕府から天領である兵庫の警備を命じられ 武庫川西部から須磨まで
三千人の兵力が動員され 摂津菟原郡打出村と八部郡東須磨村に陣屋を建てた
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長田神社
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若林秀岳作の絵図 長田神社(江戸時代後期)
長田神社の本参道 八雲橋と松並木・常夜灯
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西国街道の長田神社参道口
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西国街道の狛犬 大震災で破損
長田区御船通4丁目 震災復興住宅

旧西国街道 大路(おおみち) 蓮池掲示板から
中央幹線を挾んで南北両側に「大路通」という町名があります。この町名の由来は「西国街道」だと
いわれています。街道は、時代とともにその役割や姿を変化させてきました。
古代(律令時代)には街道の重要度や利用頻度などから大路・中路・小路に分けられ、
そのうち山陽道は唯一の「大路」でした。その後、中世(鎌倉・室町)時代には公定のルートとしての
山陽道は存在しませんが、近世(江戸時代)に入ると、江戸幕府ぱ参勤文替のために五街道と脇街道を
整備しました。西国街道は脇街道の一つで、西国大名の参勤交替に使われました。
 また、道幅も山陽道は9mから12mだったといわれ、西国街道と呼ばれるころには、
3mから6mぐらいだったそうです。現在の中央幹線は、道幅50mの幹線道路となっています。
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摂津名所図会 矢田部郡の下
1.苅藻川 2.長田神社 3.長田神社一の鳥居 4.西国街道(大路) 5.蓮池 6.一里塚 7.聖霊権現
蓮の池址
昭和6年(1931)まで ここには「蓮の池」という4町2反(約4.2ha)の大きな池がありました
奈良時代に周辺の田に農業用水を供給するため池として作られたもので 僧行基が作ったという
言い伝えがあります 池が完成したとき「蓮の花が美しく咲いているという極楽浄土の池のように
この池にも蓮の花が咲き乱れ この水で人々が豊かになるように」と願って 行基は一抹の蓮の花を
池に投げ入れたといわれます やがて池には その言葉通り蓮の花がたくさん咲き 人々はこの池を
「蓮の池」と呼ぶようになったそうです 「蓮の池」の南には山陽道が通っていたため 「平家物語」 
「増鏡」 「太平記」などの古典に「蓮の池」がたびたび出てきます たとえば「平家物語」には
平重衡が西へ落ちていくのを『湊河・かるも河をもうちわたり、蓮の池をば馬手にみて
駒の林を弓手になし 板屋ど 須磨をもうちすぎて 西へさいてぞ落ちたまふ』と書かれています
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蓮の池址
西代通2丁目 「西代村東外れに一里塚あり」
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須磨区寺田町2丁目の地蔵
太田町交差点 西南角の旧西国街道標柱
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證誠神社(聖霊権現)に寄道 祭神:五十猛尊
高速3号線ガード下の須磨橋
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山陽電車月見山駅南の月見山本町2丁目にある多井畑厄除け八幡神社の道標
「右 多井畑村迄距離三十三丁(3.6km)」と刻まれたこの道標は 明治14年(1881)頃に
新しく建てられたものである 古代山陽道の道筋でもある多井畑厄除八幡宮への参道は
江戸時代になると浜辺を通る西国街道の繁栄をよそに山道は廃れていった
「古は兵庫より夢野を経て山中に入り、此田井畑を歴て播州へ出づる。これを古道越といふ」と
『摂津名所図会』に記されている 明治になり交通が活気を帯びて 寂れた峠道は永い眠りから覚めた
『武庫郡志』には「多井畑街道、東須磨字西の口より多井畑に至る延長三十三丁余の道路なり。
之多井畑地民が独力三千三百円の巨費を投じ、明治14年11月11日より、同16年12月に渉りて」
旧道の少し北に新道を建設した この新道起点の碑がこの道標である
昭和40年代の宅地開発とモータリーゼーションは この道を大規模に変身させ
多井畑峠にあったトンネルも削り取られてしまった
参考:市民のグラフ こうべ No.42 1975年10月号
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菅の井(すがのい)
元宮長田神社

菅の井(すがのい)と元宮長田神社
伝説では 延喜元年(901)菅原道真が九州大宰府に流される途中 風波を避けて須磨に一時上陸した際
浦人が漁に使う大綱を巻いて円座を作り 道真に休んでいただいたといわれている
その時に西須磨の旧家である前田家の人が井戸の水をくんで差しあげたところ 道真は大いに喜び
自画像を前田家に与えたとされ 前田家ではこの井戸を「菅の井」と名付け
この水で銘酒「菅の井」を作り 毎年太宰府天満宮へ献上していたと伝えられている
前田家は神功皇后の時代から家名が続く豪族といわれ その屋敷にあった「菅の井」
「菅公お手植の松」「杜若(カキツバタ)」が今も保存復元されている
元宮長田神社は前田家の跡地にある 西須磨村の氏神は長田神社である 昔は長田まで参詣していたが
遠く不便であったため 前田家の屋敷内に長田神社より分社したと伝えられている
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元宮長田神社前の旧西国街道標柱
須磨寺参道との十字路

須磨寺参道の智慧の道を南下して綱敷天満宮と須磨海浜公園へ
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綱敷天神まで「知恵の道」
綱敷天満宮
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天満宮拝殿
若林秀岳作の絵図 綱敷天神社(江戸時代後期)
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須磨海浜公園の旧和田岬灯台(登録有形文化財・近代遺産)
慶応3年(1867)4月 幕府は英国との間で結んだ大坂条約の中で 5基の洋式灯台の建設を約束した
和田岬灯台はこの中の一つで 兵庫の開港を前に設置されたものである
初代の灯台は明治4年に完成したが平面八角型の木製灯台であった 明治17年(1884)に
鉄製灯台に改築され 昭和38年(1963)まで点灯を続けた
英国人技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計され 高さ15.76mの三階建てで
平面は六角形の形をしている この灯台は現存するものでは日本最古の鉄製灯台で
平成10年(1998)に国の登録有形文化財に登録された 地元では「赤灯台」の愛称で親しまれている
今回の街道歩きはここまで JR須磨海浜公園駅から帰る
2016.12.06 須磨からJR塩屋駅まで歩く
垂水のパークマリン神戸に駐車 一円以上の買い物で終日無料なので昼食を食べ JR垂水駅から須磨まで
電車で移動し 須磨からJR塩屋駅まで歩く
須磨寺
正式名称は 上野山(じょうやさん)真言宗須磨寺派大本山 福祥寺 本尊は聖観音菩薩である
開基は 平安時代初頭まで遡り 漁師が和田岬の沖で引き上げた聖観音像を
仁和2年(886)に聞鏡上人が現在の地に移したのが始まりとされている
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摂津名所図絵 矢田部郡下巻 須磨寺 須磨寺門前
境内の建造物等は時代が古いものと思われるが 定かではないため建物の文化財は少ない
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須磨寺参道
明治〜大正期の着色写真 須磨寺参道
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十王堂 平重衡とらわれの松跡
若林秀岳作の絵図 須磨寺馬場先 十王堂重衡松

平重衡(たいらのしげひら)とらわれの松跡
寿永三年(1184)2月7日源平合戦の時 生田の森から副大将平重衡は須磨まで逃れて来たが
源氏の捕虜となり 上地の人が哀れに思い名物の濁酒をすすめたところ 重衡はたいそう喜んで
「ささほろや波ここもとを打ちすぎて 須磨でのむこそ濁酒なれ」の一首を詠んだ
のちに鎌倉に送られ処刑された
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須磨霊泉
須磨寺参道の碑
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仁王門 平安時代の源 頼政の再建と伝わる
須磨寺本堂 慶長7年(1602)豊臣秀頼が再建
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須磨寺境内参道
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名所記書図板本 名産根本 藻汐磯馴味噌 須磨浦 升屋九兵衛 『摂州須磨浦 一の谷◯ 真景細見』
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再び県道21号線に合流する手前
街道は山陽電鉄に沿って 但し痕跡は無し
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須磨の関跡に寄る
移設の道標 「長田宮」「川東左右関屋跡」

須磨の関の由来
平安末期の歌人源兼昌が 「淡路島 かよう千鳥の 鳴く声に いく夜寝ざめぬ すまの関守」と詠じ
それが小倉百人一首にとり上げられた「須磨の関」伝承地である
明治初年に 暗渠となった千森川(千森筋)と西国街道の交叉する地点で 「長田宮」側面に
「川東左右関屋跡」と刻まれた石標が土中から掘り出された 石碑の出土地点からみれば
現在関屋跡といわれている関守稲荷神社の地点とはかなり離れており 少なくとも千森川の東側に
かっての関屋跡(櫓台)とされる所が一時期あったということになる
「紀聞集」に第37代天皇の時「置ク四境ノ関ハ、鈴鹿関ハ在近江伊勢ニ、逢坂関ハ山城近江境ニ、
竜田関ハ在大和河内境ニ、須磨関ハ摂津播磨境ニ」と書かれ また別書では大宝律令に定められている
天下三関を「伊勢鈴鹿の関・美濃不破の関・越前愛発(あたか)の関とし 次いで重要な関として
摂津の関・長門の関」と記されている 須磨の関がいずこにあったかと言うと 諸説まちまちである
また海関であったか陸関であったかも不詳で 地形的に海陸両用であるとの説もある
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関守稲荷神社鳥居
関守稲荷神社祠
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関守稲荷神社から下り山陽電鉄のガード
村上帝社

村上帝社(むらかみていしゃ)由来
平安時代の琵琶の名人藤原師長(もろなが)は 唐に渡りなおも琵琶の奥義をきわめたいと願い
都を出て須磨まで来た しかし この地に泊まった夜 琵琶の名人である村上天皇と
梨壺女御(なしつぼにょうご)の霊が現れ 師長に琵琶の奥義を伝えた
師長は唐に行く思いをとどめ 「獅子丸」という琵琶をこの地に埋めて都に帰ったという伝説がある
この村上天皇にまつわる伝説から 土地の人々が村上帝社を祀ったといわれている
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国道2号線 一の谷バス停
一の谷川
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長田神社須磨御旅所
源平合戦・戦の濱石碑 昭和13年建立
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二の谷
須磨浦公園遊歩道
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三の谷はロープウェイ下
ロープウェイ山上駅のある鉢伏山
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須磨浦公園展望所パーキングから 須磨海づり公園 手前の「ガスト」左に「敦盛塚五輪塔」
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神戸市立図書館蔵 摂津国矢田郡一ノ谷(図)
中国行程記によれば この間
「一ノ谷、川広十間水無シ → 古城山 二ノ谷、川広八間水無シ → 一里山→ 三ノ谷、川広二十間水無シ → 
敦盛石塔 → 川広十五間水無シ → 川広三間水無シ → 従是東天領
摂津国矢田部郡西須磨村 国境村境 播磨国明石郡塩屋村 従是松平但馬守領」
の順で書かれ
国塚「此棒杭ハ丸木ニテ河原中二立、無名也」川広三十間水無シとある これによれば
二ノ谷と三ノ谷の間に一里塚があり「此一里ハ通リ懸リニハ不見、土山損シ知レカタキ也」と記され
塚は崩れ落ちていたようである また 敦盛塚を過ぎて二ヶ所の水無川を通過し境川に至る
境川の中央に丸太杭を立てた国境の碑があるとも書かれている 
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敦盛蕎麦 江戸時代からある敦盛茶屋
若林秀岳作の絵図 一ノ谷五輪前蕎麦屋
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神戸市指定有形文化財 敦盛塚石造五輪塔
この五輪塔は花岡岩製の総高4m近い堂々たるもので、中世の五輪塔としては
石清水八幡宮五輪塔(京都府八幡市)に次ぎ、全国で2位の規模を誇る。総高397cm、
2石から成る地輪は幅126cm、高さ98.5cm、水輪は最大径 130.4cm、高さ99cmで下部がすぼまり、
火輪は軒幅126.4×119cm、高さ75.8cm(上面に径30cm、深さ20cmの柄穴)、風・空輪は一石彫成で、
風輪の径73cm、高さ56cm、空輪の最大径69cm、高さ72.9cm。各輪四方にそれぞれ
五輪塔四門の梵字を薬研彫りに配している。 紀年銘はなく、梵字が大きいことや水輪や火輪の様式に
やや古調がみられるが、 風・空輪は明らかに近世塔の先駆的様式を示していることから、
室町時代末期から桃山時代にかけての 製作と思われる。 この付近は源平ーの谷合戦場として知られ、
寿永3年(1184)2月7日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直美によって首を討たれ、
それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から、“敦盛塚”と呼ばれるようになった。
このほか、鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、
弘安年間(1278〜1288)に造立したなどの諸説がある。
昭和60年(1985)4月に、神戸市教育委員会が周辺整備のための発掘調査を行ったところ、
下半部が埋没した地輪の下に、四角に囲った板石とその中に2枚の石から成る基壇遺構があった。
このため、基壇の上部を地表に現し、地輪部以上を完全に露出するように積み直した。
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播磨名所巡覧図絵 大五輪石塔
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敦盛塚から一つ目の谷川 山陽電鉄橋梁
二つ目の谷川 山陽電鉄石造アーチ橋
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播磨名所巡覧図絵 界川
摂津・播磨の国境の境川(山陽電鉄境川橋梁)

中国行程記で 川広三十間 水無川「此棒杭ハ丸木ニテ河原中二立無名也」と記されており
川の中央に国境の丸太で出来た標柱が有ったと思われ
棒杭には「播磨国明石郡松平但馬守領 摂津国矢田部郡天領 国境」と記されていた
播磨名所巡覧図絵の界川図は雨で増水した川が描かれているが 通常は水無川であった
芭蕉の「蝸牛(かたつむり)角(つの)ふりわけよ 須磨あかし」の句がしたためられている
現在は東側が神戸市須磨区 西側が神戸市垂水区となり 境川自体が近畿に入っているが
垂水区・西区及び明石市の大部分は廃藩置県前は明石郡として播磨明石藩の領地であった
明治4年の廃藩置県で 明石県・姫路県・飾磨郡と同年内に三度も目まぐるしく行政区が変わった
同年には 兵庫県に尼崎県と三田県が統合され新しい兵庫県が発足し
明治9年(1876)に飾磨郡が兵庫県の管轄に入り 但馬国全域と丹波国の氷上・多紀の両郡及び
淡路島全域を含む現在の兵庫県が発足した
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