2016.01.08 西国街道を歩く 三宮から兵庫宿まで

日本書紀によれば 「神戸」という地名の語源となった生田神社は 神功皇后の三韓征伐の帰途
兵庫ノ津で船が進まなくなったため「神占」を行うと 稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れ
「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ」との神託が下され
この地に 201年(神功皇后摂政元年)祠宮が造営されたと伝わるのが始まりとされている
当初は 砂山(いさごやま)に祀られていたが 延暦18年(799)の大洪水により山麓が崩れ
全山崩壊の恐れが出たため 現「生田の森」に遷宮したとある 因みに砂山とは布引山のことである
古代から神社には封戸(ふこ)と呼ばれる 神社に税を納める民が住む家(神の戸)があった
平安時代初期には「生田の神封四十四戸」と記され 現在の神戸市中央区の一帯が社領であったことから
領内の住居民を神地神戸(しんちかんべ)と呼び 後に神戸(かんべ)郷がこの地の呼称となった
中世には紺戸(こんべ)村と変わり 江戸時代以降は神戸(かんべ)郷一帯を上部(こうべ)村と呼んだ
江戸時代後期には再び神戸村と記され 幕末開港時代を経て近代以降は神戸(こうべ)町となった
明治元年頃 神戸町の人口は6千人 兵庫町では2万人にのぼり 明治の初め頃まで神戸の中心地は
湊と宿場を要する兵庫津にあった 明治12年に神戸町・兵庫町・坂本村・荒田村・葺合村が合併し
神戸市が誕生した 同時に神戸町・兵庫町・坂本村が神戸区となった
市制が施行された時の人口は 約13万5千人となっている

神戸港の前身となる沿岸地域は 京・大坂の外港・経由地として栄え「兵庫ノ津」と呼ばれた
飛鳥時代にはすでに湊が開かれていたが 平安時代の 平清盛による福原京造営に伴い
貿易の拠点港として整備され 大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれたことが 繁栄の始まりである
江戸時代の兵庫津は 西廻り航路の北前船や内海船の要港 そして 朝鮮通信使の寄港地として栄えた
また 江戸中期以降は兵庫西宮灘目三郷として酒造りが活発になり 後期には灘五郷が酒造で繁栄した
同じく江戸時代には 西宮宿と大蔵谷宿を繋ぐ宿場町として兵庫宿があった 兵庫には自治組織として
湊の浜方と宿場の岡方とがあり 本陣は浜方・岡方の双方にあったが 中期以降は浜方本陣が繁栄した

江戸幕府は 安政5年(1858)米・英・露・仏・和蘭の5カ国と修好通商条約を締結した
文久3年(1863)幕府の軍艦奉行であった勝海舟は「海軍操練所」の設立を図り 呉服商網屋吉兵衛が
私財を投じて竣工させた「船たで場(ふなたでば)」を利用することを考え 将軍の徳川家茂に建白し
翌元治元年(1864)坂本龍馬が塾長を勤める 諸藩士のための「海軍塾」と共に開設されたが
後に勝の更迭により神戸海軍操練所・神戸海軍塾は閉鎖になった 同年には和田岬砲台も完成している
修好通商条約の締結に際し 畿内の一ヶ所を開港することが基本的要求のひとつであった
幕府は大坂開港を避け 当初堺の開港を考えていたが 堺周辺に皇陵が多いことから朝廷の抵抗にあい
最終的に兵庫津に変更されたと伝わる 慶応3年(1868)に 兵庫津東部・海軍操練所のあった地域を
「兵庫港」として開港した 「神戸」の名称は 開港場の村名でしかなかったが
明治以降は神戸港の名称で呼ばれ 南東部の神戸村外域に外国人居留地ができ 居留地の西端部海浜に
慶応4年(明治元年・1868)に 現在も残る第三突堤・通称「メリケン波止場」を開設した 以後
西洋文化の窓口として発展し 明治5年(1872)和田岬灯台を設置し 明治25年(1892)勅令によって
旧生田川(現フラワーロード)河口から和田岬までの全体が「神戸港」となった
神戸市中央区雲井通6丁目(三宮駅東交差点)から兵庫西惣門まで
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雲井通6丁目 街道はここから生田筋まで消滅
生田新道の北長狭通交差点 街道は三宮駅の下
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寄道 北長狭通・地蔵ビル前の郡界石標
生田宮参道の生田筋は西国街道でもある
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生田神社神門
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生田の森道標 左 京大阪道 右 兵庫播磨道 文字方向から推定される元位置は神戸朝日ホールの前
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生田新道・北長狭通1丁目交差点
JRガード下から北向き撮影
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三宮中央通り生田筋南詰 生田宮一の鳥居 街道はもうひとつ南の通り
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神戸朝日ホール(神戸朝日ビル)の前から右折して東に向かう
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江戸末期の生田ノ浦
西国街道松並木

若林秀岳が 開港後急速に変わりゆく神戸の 江戸時代の様子を描きとどめておこうと
明治34年(1901)から旧記や記憶をもとに 兵庫津や生田神社・長田などの風景を描いた
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神戸市中央区三宮町2丁目 三宮神社
若林秀岳作 三の宮

三宮神社は 古代から生田神社領内にある生田裔神八社の一つで 神社が鎮座する界隈を三宮と称した
生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)は 生田宮を囲むように点在し裔神(えだがみ)八柱を祭る
今では「港神戸守護神 厄除八社」と称され 厄除けのため数字の順に八宮巡りを行う
八社の現在地は当初より相当ずれているが 北斗七星6番目の星が正確にはふたつの星であるため
かつては その位置が北斗七星に似ているという説があった 近代以後に六宮・八宮が遷座しているが
以前の位置においては概ね東から西に数字が大きくなる 生田裔神八社のある同所は旧神戸村の一部で
慶応4年(1868)兵庫港開港時に建設された外国人居留地の北に隣接した地域にあたる
明治6年(1873)新設した南北筋の道路を三ノ宮筋と名付け
明治11年(1878)に三宮町という正式な地名となった
三宮筋という名称は消滅したが 三宮神社の西側にある「トアロード」がそれにあたる
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生田川ヨリ二茶屋図(写)神戸市立図書館所蔵  茶色の範囲は江戸時代後期の神戸村域内と思われる
1.生田宮 2.三之宮神社 3.薬師(現在地不明) 4.道場(現在地不明) 5.四之宮神社
6.神戸村・二茶屋村 境川(現在の元町通3丁目と4丁目の境界)が見られる
<Link:神戸市立中央図書館貴重資料デジタルアーカイブズ>
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慶応4年(明治元年)の神戸町の図
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街道は元町商店街のアーケード通りとなる
元町商店街

西国街道と元町商店街
元町商店街が広がる地域には、江戸時代、九州と近畿地方とを結ぶ西国街道が通っており、
これはほぼ現在の「元町通り」に当たると考えられます。その当時、この道沿いには、
神戸村・ニツ茶屋村・走水村という村があり、このうち神戸村・ニツ茶屋村は、18世紀前半の享保期には、
兵庫津よりも多くの廻船を保有するなど、北前船をはじめとする全国海運の拠点でもありました。
また19世紀半ば頃にできた「兵庫津細見図」には、街道沿いに密集する町並みが描かれています。
慶応3年12月(1868年1月1日)、神戸が開港されました。しかし開港に際して、外国人居留地の建設が
間に合わなかったため、居留地周辺の神戸村・ニツ茶屋村・走水村は雑居地となり、
明治元年(1868)11月には、3村は合併して神戸町と名付けられました。
その後、明治7年(1874)5月には、大阪・神戸間の鉄道の開通に合わせて、兵庫県令により、
神戸町の西国街道にあった大手町・演町・札場町・松屋町・中町・西町・城下町・東本町・西本町・八幡町が、
元町通と改称されました。これが現在の元町商店街の名の言われとなります。
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こうべまちづくり会館前の西国街道案内板
走水(はしうど)神社参道
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旧走水村の氏神 走水神社
菅原道真が祭神のため「狛牛」がある
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兵庫県里程元標
明治42年(1909)に相生橋の西詰めに建てられたが 昭和6年(1931)に国鉄高架線完成によって
橋と共に撤去された 相生橋は 鉄道敷設で分断された元町通りと多聞通りを結ぶ陸橋であった
昭和35年(1960)湊川神社の正門の東に移転されたが 平成16年(2004)この地に再度移転された 
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D51蒸気機関車野展示場は街道の上
湊川神社参道
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湊川神社
南北朝時代の延元元年(1336)足利尊氏と湊川の戦いで敗れ自害した南朝方の武将・楠木正成を祀る
元禄5年(1692)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して以来
楠木正成は理想の勤皇家として崇敬され 幕末の尊皇攘夷で神格化が進み
明治元年(1868)明治天皇の勅令によって神社を創建するに至った
戦前の皇国史観や国粋主義により繁栄をきわめ 別格官幣社となった
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境内の道標は光圀建立の石碑に至る道しるべで 弘化三年(1846)に再建されたものである
「従是楠公石碑道」 「従是くすのき公せ記ひみち」 「弘化三年丙午夏五月再建」と刻まれている
右は若林秀岳作の絵図 湊川神社・楠公墓碑(江戸時代後期)
元禄5年(1692)に徳川光圀建立の石碑に至る道標で 元は西国街道にあった
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神戸駅
明治7年(1874)官営山陽鉄道の大阪−神戸間開通に伴い終着駅として開業 駅舎は煉瓦造であった
当初は西国街道と交差する位置に駅が設置されたが 駅周辺の開発で元町通6丁目−相生町4丁目間の
街道が消滅している 昭和5年(1930)7月 線路の高架化に伴い現在の駅舎(三代目)に改築された
貴賓室などもそなえた豪華な駅舎は近代遺産に指定されている
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相生町4丁目の交差点から再び街道
古湊通 有馬道分岐
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相生町5丁目の西国街道標柱 旧湊川の堤防辺り
西国街道ビル 旧湊川跡地の新開地
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湊町のJR山陽本線ガード下 この辺り一里塚跡
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若林秀岳作の絵図 湊町壱里塚・古松
若林秀岳作の絵図 湊町惣門
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兵庫宿湊口惣門跡
湊八幡神社

神戸市兵庫区本町 兵庫宿
西国街道に設けられた兵庫の東口の惣門で 道はこの惣門を入り兵庫津の湊・江川・木戸・木場・
小物屋・北仲の兵庫本町を進み 南仲町の札の辻を右折して小廣・神明・逆瀬川・東柳原・西柳原を過ぎ
柳原口にあった柳原惣門を出て 斜めに今の長田交叉点を渡り西代を経て須磨に向かった
兵庫は天正年間に池田恒興が織田信長の命によって反旗を翻した荒木村重の花隈城を攻め落とし
その戦功で兵庫の領主となり城を築き 湊口・江川口・永澤口・三川口・関屋口などに番所を設けた
ほか市中にも宮内・匠・松屋・魚棚・島上の諸町に中濱門として番所を設けたが
江戸時代に青山氏の領地となり湊口・柳原口の両門と番所を残し廃された
門内の番所には高礼場が設けられたが 幕末には番所がなくなり 門外の左側に高礼場が移転した
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文久2年(1862)兵庫津之図(1967x1520px)
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文久2年(1862)兵庫津之図 湊口部分
中央の川は天井川となった旧湊川で その西側に一里塚が見える 一里塚から湊川支流の小川を渡り
再度 兵庫津の舟入に通じる運河を渡ると兵庫宿湊口惣門と八幡社がある
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阪神高速 横断できず回り道
七宮神社
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兵庫区本町2丁目 兵庫津歴史館岡方倶楽部 昭和2年(1927)建築 旧ユアサ食料
岡方惣會所
徳川時代の兵庫津は大坂町奉行支配で その行政区分は 全域を岡方・南浜・北浜に三分割していた
これを三方(みかた)と称した 三方にはそれぞれ惣会所があり名主が惣代として年寄などを指揮して
行政を執り行っていた 岡方は浜に接しない町々を含めて総称し岡方惣会所をここに設けていた
岡方に属していた現在の町名(一部地域を含む)
神明町 南逆瀬川町 北逆瀬川町 南仲町 西仲町 切戸町 磯之町 浜崎通 東柳原町 西柳原町
西宮内町 本町 三川口町 門口町 永沢町 佐比江町 湊町 兵庫町 新開地
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岡方惣会所跡の碑
札場の辻 高札があった
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道標 右 和田御崎 左 築島寺
札場の辻で「昼飯」
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兵庫城跡
清盛くん(どーなんですかね?)

兵庫城跡
功績により信長から兵庫の地を与えられた池田恒興は  天正9年(1581)花隈城を破棄し
兵庫津に城を築いた 2年後には秀吉の直轄地となり「片桐陣屋」と称した
元和元年(1615)大坂落城後は 兵庫津一帯が尼崎藩領となり城址には尼崎藩陣屋が置かれた
明和6年(1769)兵庫津一帯は再び天領となり 城址の陣屋が勤番所に改築された
明治時代になって勤番所が初代の兵庫県庁となり 伊藤博文が初代知事として赴任した
明治6年(1873)まで外郭の土塁が残っていたが  市街地開発のため削り取られ
翌明治7年の兵庫港大改修の際 新川運河開削のため兵庫城跡は破壊され消えた
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兵庫陣屋絵図 神戸市立博物館所蔵
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近代遺産の大輪田橋 RC造石貼り
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1995年の大震災で破損した親柱のモニュメント
大正13年(1924)6月竣工
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清盛公墳墓塔・清盛像・経政琵琶塚が並ぶ
琵琶塚は道向いにあったが道路拡張で現在地に移転
真光寺境内の道標(推定元位置札場の辻南東角)
左 京 大坂道  右 者里満ミち(播磨道)

清盛公墳墓塔 経政琵琶塚
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文久2年(1862)の兵庫津之図では 真光寺の左に琵琶塚と清盛墓が向かい合っている様子が描かれる
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若林秀岳作の絵図 琵琶塚
若林秀岳作の絵図 清盛墓

清盛公墳墓塔(清盛塚石造十三重塔)
この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ 北条貞時の建立とも伝えられている
当初は現在地より南西11mの位置にあり 平清盛の墳墓とも言われていたが 大正時代の
道路拡張に伴う移設の際の調査で 墳墓でないことが確認され 現在地に移設された
石塔は 高さが8.5m 初層は一辺145cm 最上層は一辺88cmである
基礎台石東面の両脇に「弘安九」「二月日」の銘があり 弘安九年(1286)に建立されている
石塔の隣には 神戸出身の彫刻家である柳原義達の作になる平清盛像が建てられている
経政琵琶塚
清盛塚と小道を挟んで北西に平面形が琵琶の形をした塚があり 琵琶塚と呼ばれ 江戸時代から
琵琶の名手・平経正(たいらのつねまさ)の墓と信じられていた 平経正は清盛の弟経盛の長男で
敦盛の兄にあたる 明治35年(1902)有志により琵琶塚の碑が建てられたが
大正時代の道路拡張の際に 清盛塚とともに現在地に移設された
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天台宗 宝積山 能福寺 兵庫大仏
平清盛の菩提寺とされる

寺伝によれば 延暦24年(805)最澄により能福護国密寺として創建されたとされ
日本初の密教教化霊場と称する 治承4年(1180)平清盛の福原京遷都計画により平家一門の祈願寺に
定められ大伽藍が建立されて大いに栄えた その後 南北朝時代に兵火で七堂伽藍全てを焼失したが
慶長3年(1599)に再興したと伝わる 初代の兵庫大仏は 明治24年(1891)に建立され
日本三大大仏の一つに数えられたが 戦時中の金属類回収令で解体供出された
平成3年(1991)に再建され その材料には 戦後になって発見された供出された大仏の一部が発見され
当時の住職が回収保管し 再建時にその金属片を混入したものを使用している
像高11m 蓮台・台座を含めると高さ18mの仏像である
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神明神社と街道
神明神社
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柳原えびす神社前の街道
柳原えびす神社境内
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兵庫宿西惣門跡標柱
川と橋の跡は道路に
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