2014.12.07 西国街道を歩く 神崎宿から西宮宿まで

2014.12.05 神崎川を渡り尼崎へ 阪神電鉄の大物駅を北から南へ通過し 江戸時代に埋め立てられた
築地町を通り阪神出屋敷駅まで歩き通す この日大阪高麗橋から出屋敷まで24.1km
梅田・十三・中津・三津屋を経て神崎大橋南詰へ到着したのは PM 13:11
阪神電車 出屋敷駅到着は PM 16:07 であった
2014.12.07 出屋敷駅から西宮神社まで歩くこの日の歩行距離は 9.4km
2015.04.12 神崎川周辺と尼崎城周辺を再度訪れる
神埼宿の神崎渡し場跡から西宮神社鳥居まで歩く
KML作成ベース:地理院地図/情報/空中写真 1945年〜1950年
神崎の渡し
14世紀末に著された『太平記』で 正平17年(1362)に焼き落とされたと記される神崎の
掬上(ゆりあげ)橋は 再び架けられることが無く 大正13年(1924)に再び橋が架けられるまで
実に562年もの間 船による渡しが続けられてきた 川の旧名は三国川(みくにがわ)であったが
神埼の渡しが始まった南北朝時代以降も 山陽路の渡しとして栄えたため
中世末期から江戸時代の初めにかけて「神崎川」の名が定着したものと思われる
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『摂津名所図会』に画かれた神埼の渡し 手前が大坂側で左に「尼崎」の文字が見られる
神崎渡しは川幅が300間(約540m)常水幅は約100m 深さは8尺(約2.4m)であった
神崎川を渡り神崎本通りを抜けると 北へ伊丹方面 南に尼崎方面へ通じる街道に当たる
辻には高札場が置かれていた 神崎宿は公儀が決めた宿駅ではなく間の宿として存在し
渡し場は「昼夜行人絶えず」と表現されるほど利用者は多かったようである
神崎駅はおもに商人荷物を扱う駅所として繁栄した 神崎川の水運による年貢米の津出しや
伊丹より下る酒造米の受け入れ口であり 荷扱い問屋が宝暦8年(1758)に6軒あったことが
確認されている 江戸中期以降は 猪名川通船による荷役の減少や
不利益をもたらす公用通行貨客が多くなったことで衰退した
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神崎宿部分拡大図
本通りの辻に高札場が見える 辻を左に取れば尼崎に至る
明治42年(1909)の測図
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猪名川(図中では藻川)と神崎川合流地点の砂州が南に発達して 渡船航路が江戸期に比べ
南へ移動している 新淀川開削工事の後 神崎川拡幅や猪名川の付け替え工事が行われ
大正12年(1923)に橋が架けられとされているが 地図で確認されるのは昭和4年(1929)の測量図で
現在の神崎大橋は昭和42年(1967)に架け替えられた橋で 3代目の橋梁となる
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神崎村渡し場跡の葭島(かしま)公園 橋はJR山陽新幹線神埼川橋梁
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移設された金比羅灯籠
神崎本通り 突当りに地蔵型道標

金毘羅灯籠
金毘羅大権現は 讃岐の金刀比羅宮に祀られた海上守護神で 早くから舟乗りらの信仰を集め
とくに室町時代から江戸時代にかけて盛んとなった 神崎の津は 都から西海へ行き来する船と
人々で賑わい 航海の安全を祈念して建てられた また この石灯籠は 灯台の役割をもつもので
現存のものは石造であるが 以前は高灯籠ではなかったかと考えられている
願主の岸田屋治兵衛を中心に 神崎の津にあった問屋・仲間・宿屋などで働く多くの人々から
寄附が集められ 文化元年(1804)頃に建て替えられたものである
この石灯籠は その後も町の人々からは「金毘羅さんの灯籠」として親しまれていた
船着場に近い堤防上にあったが 堤防工事のため現位置に移設保存された
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神崎本通りの旧家と須佐男神社鳥居
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旧家前の新しい有馬道の道標
神崎本町の氏神 須佐男神社
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神崎宿の掲示案内板
尼崎市次屋4-7 有馬道の道標
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西国街道(中国街道)
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比較的新しい有馬道追分の地蔵形道標 左尼崎 右伊丹
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尼崎市西川の一心地蔵尊
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西川八幡神社鳥居
西川八幡神社境内の尼崎藩領界碑

尼崎藩領界碑
この領界碑は 昭和60年・注連柱の移設中発見され 地元の人の話から旧西川村の旧字
樋ノ口・新堤・山ノ下にあった3基のうち樋ノ口にあったものと考えられる
同村は尼崎藩領で 西国街道筋にあり 東は藩領の神崎村に離接し 西は旗本青山家知行地の
次屋・浜両村と接し また南は 大和国小泉藩領常光寺村に隣接していた
碑文は全長240cm 碑幅18.5〜20cmの花崗岩立柱型で 三面刻の字体・寸法いずれも
現存する11基(尼崎市域2基・伊丹市域・西宮市域・芦屋市域各3基)と同型である
ただ「他領」の刻字がこの碑のみ 異体字の「佗領」と刻字されている
宝永8年(1711)松平氏入封間もなくの時期に入組領の多い川辺・武庫郡西部及び菟原郡内に建立された
明和6年(1769)幕府より 尼崎藩領のうち武庫郡今津村から八部郡兵庫津までの海岸部・3郡24か村
1万4千石余りに上知(あげち)を命じられ幕府領となった 一方代替え地として与えられたのは
尼崎城下からは遠く離れた播磨国の多可・宍粟・赤穂3郡の71か村であった
この上知後に多くの領界碑が整理されたものと思われる
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西川八幡神社 拝殿
常光寺1丁目交差点
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尼崎市常光寺1丁目
尼崎市長洲東通1丁目 街道は消滅
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厳島神社
長洲中通2丁目 左の緑地は大門川跡
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西国街道と伊丹道の分岐三差路(現在は十字路)に建てられた道標 公園内に移設
<北面>文化五年(1808)戊辰三月吉日 <東面>左 尼崎 西宮(街道の大阪側から見る)
<南面>右 大坂 京/左 伊丹有馬(街道の西宮側から見る)
<西面>右 尼崎 大坂(伊丹道から見て)
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貴布禰神社
尼崎市長洲本通3丁目
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北大物町 関西保育福祉専門学校裏
稲川橋 堀川は埋め立てられた
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大物町 細原歯科医院裏
大物主神社境内の汁醤油発祥之地石碑

汁醤油発祥之地石碑は平成5年に建てられたもので比較的新しい  汁醤油とは醸造醤油のことなのか
日本で最初に造られた醤油は「たまり醤油」で 味噌の桶に溜まった汁を元に生まれ
紀州の湯浅が発祥の地とされている 17世紀末頃からアルコール発酵を伴う清酒の醸造方法を取り入れ
醸造醤油が造られるようになった 一般にこの醸造方法の発祥地は播州竜野とされ
「すみ醤油」と呼ばれた 18世紀には大量生産されるようになり「たまり醤油」にとって変わった
尼崎の醤油は 明治から大正期にかけ一大産地となったが 第二次大戦の戦禍も災いして醤油醸造所が
昭和20年代に全て消滅した 碑文の「尼生揚醤油」とは 通称「生醤油」と呼ばれ
原材料名に大豆・小麦・食塩のみを 使用した「もろみ」の一番搾りで 火入れしないものを指す
芳醇で旨味が際立つが 保管や流通が難しく大量生産が出来なかった
昭和60年代に保存会ができて「尼生揚醤油」が復活させられ 石碑が建てられた
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大物橋跡石碑 西国街道の旧橋は少し西側?
旧小島町本通り
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大黒橋跡の記念碑
現・大黒橋(歩行者専用橋)
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築地町の街道碑
築地町の街道筋 尼崎市営住宅前
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戎橋と阪神高速
築地町は 寛文4年(1664)に城地の南端を通る西国街道を迂回させるため
葭島(よしじま)を造成してできた 築地町に渡るには 東の大黒橋と西の戎橋が架けられた
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旧戎橋親柱 文久二年壬戌三月吉日(1862年)
戎橋北詰 築地大神宮石碑
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尼崎城址と城内の大庄西の道標(移設)天保7年(1836)
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尼崎城址公園・中央図書館
現在残る尼崎城址は 元和3年(1617)尼崎藩に5万石で入封した戸田氏鉄が築いた城後である
3重の堀を巡らせ 本丸は2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられた
氏鉄が寛永12年(1635)に美濃大垣藩へ転封となり その後明治までの城主は
正徳元年(1711)まで青山氏が4代 桜井松平家の支配が7代続いた
明治の廃城後は 本丸に女子技芸学校・尼崎第一尋常小学校・尼崎第二尋常小学校が設置された
その他の城郭内には 尼崎尋常高等学校・警察署・役場・郵便局・銀行 及び明治38年(1905)には
阪鶴鉄道尼崎貨物駅が開業した 現在は学校や図書館などが建設され
北側の外郭の多くは 阪神電鉄尼崎工場が専有している 西外郭一部が城址公園として利用されるが
地上には遺跡としてめぼしい物はない 成30年(2018)に外観復元天守が完成している
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尼崎市北城内 阪神電鉄尼崎変電所 明治37年(1904)建築
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西本町2丁目 登録有形文化財の商家 旧本田家住宅(尼崎市都市美形成建築物)
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尼崎市西本町6丁目 貴布禰神社
尼崎市汐町58 玄番堀橋親柱
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西本町8丁目
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昭和レトロな 大衆喫茶「玉一」尼崎支店
西本町8丁目の地蔵
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15:50 夕日傾く 西本町8丁目商店街
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西本町8丁目の道標
<南面>左 西宮 兵庫 <西面>右 大坂道 弘化三丙午歳 八月建之(西暦1846年)
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道標の通り街道は南から西向きに曲がり琴浦通りへ入る 竹谷小学校北で時刻が PM 15:56
夕刻が迫り撮影も困難となってきたので 本日はここで切り上げ阪神出屋敷駅へと向かう
2014.12.07 改めて蓬川橋から西宮まで歩く
出屋敷駅から西宮神社まで歩くこの日の歩行距離は 9.4km 午前中に到着する
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AM 9:20 蓬川橋(よもがわ橋)を渡り 尼崎市蓬川町に入る
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蓬川(よもがわ)を渡り 左の路地へ
トナカイではなくシーサーは「不気味」
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中国街道の表示と琴浦通り 中国街道・山陽街道・西国街道と呼び名がまちまち
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歩道の表示タイル
町名表示 蓬川・嵩徳院・水明・琴浦など
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琴浦神社 創建年は不明 祭神:源融(みなもとのとおる・822年−895年)
由緒は 第52代嵯峨天皇の第12皇子である源融が 琴が浦で海水を日々汲ませ京都六条の河原院に
運ばさせ塩を焼かせたという故事から この付近だけ小高い丘になっており
平安時代初期は社の前まで海が迫っていた 琴浦通りの名はこの神社に由来している
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琴浦通り 旧国道
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琴浦町の地蔵
中国街道(旧国道)の表示版
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小学校を貫く街道 校内に大庄村道路元標あり
尼崎市大庄西町3丁目
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尼崎市大庄西町3丁目 街道は右の路地
大庄西町2丁目7の伊丹道(右)と地蔵
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武庫川堤手前の地蔵堂
毛利家・中国行程記の蓬川・武庫川部分
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武庫川を渡れば西宮で 尼崎藩陣屋が置かれていたが 明和6年(1769)の上知後天領となった
奈良時代に この地は都から見て遠く「向こう側」ということから「武庫川」となったとされる
武庫川の渡し
ここより上流の山崎道にあった通称「髭の渡し」は 通常は徒渉もしくは舟橋がかけられていたが
増水時は人足や連台及び船渡しによる渡しが行われ それが不可能なときは川留めとなった
『摂津名所図会』によれば 下流にあった西国街道の「武庫川渡し」には
幅は狭いものの橋が架けられており 利便性では優れていたと思われる
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『摂津名所図会』 武庫川 おかしの宮(岡太神社) 小松旧跡
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武庫川西岸 旧国道下の旧街道
かつて右側の車が停まる家並みは旧国道を潜る阪神武庫川線が通っていた跡である
昭和19年(1944)から昭和60年(1985)まで単線ながら電車が走っていた
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旧国道を挟み反対側の線路跡
岡太社境内の尼崎藩領境界石(移設)
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西宮市学文殿町2丁目 旧街道のけやき通り
甲子園五番町の街道跡
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枝川橋跡 正面家の幅が街道幅
上野神社常夜灯(寛政12年)と街道
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左・今津曙町と右・津門呉羽町
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津門川橋(つとがわばし)
染殿町 街道は右へ
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東川橋 川向こう与古道町の街道は消滅
エステートピア小西敷地に残る地蔵と街道跡
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六湛寺川を渡る
札場筋は山崎道のこと
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西宮宿 山崎道の分岐 高札場跡と本陣跡
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街道は西宮神社鳥居前で左折
兵庫県西宮市本町 西宮宿
一般的に「西宮」の起こりは 古代に創建された廣田神社をはじめ 生田・長田・住吉を含む神社群が
京から太宰府へと繋がる西海道(現・国道171号線・古代山陽道・近世の山崎街道)にあることから
「西宮」と呼ばれたことが始まりとされている 現在「西宮神社」と呼ばれる「西宮戎神社」は
元々広田神社の境外摂社である「浜南宮」で 現在 西宮神社境内摂社の「南宮神社」が元社である
中世から近世にかけ 人形を繰る傀儡師が浜南宮境内の北隣に居住し 戎神人形を繰り全国を巡って
戎信仰を広めた 中世紀以降商業の発展とともに 海産漁業の神だけでなく商売の神としても
厚く信仰され 戎信仰の勃興により 浜南宮は廣田神社の摂社格からはなれ
江戸時代には徳川家綱により本殿が再建された
また 全国に頒布していた「えびす神の神像札」の版権を幕府から得て
戎信仰の総本宮として栄え今日に至る
元和元年(1615)より尼崎藩の所領であったが 明和6年(1769)鳴尾・西宮・今津の各村が上知され
天領になった 江戸時代を通じ 戎神社の参詣宿及び西国街道と山崎街道の追分宿として賑わった
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西宮市立郷土資料館所蔵 寛政元年(1789)〜寛政4年(1792)間に描かれた西宮宿絵図
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絵図の中心部 西宮神社の門前町は「町方」と「浜方」に分かれている 宿場の大半は旧廣田神社領区域である
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西宮市立郷土資料館所蔵 明和6年(1769)以降の西宮町絵図模写(南波図)
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絵図の中心部
1.東川橋 2.六湛寺川橋 3.山崎道(札場筋) 4.高札場跡・本陣跡 5.西宮神社
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