2015.10.06 西国街道を歩く 長府から赤間関まで

西国街道・最後の行程となる毛利長洲藩の支藩である長府藩城下町より現下関市の赤間関宿まで
下関市長府南之町から下関市大字前田まで県道246号長府前田線とほぼ同じルートを辿る
前田簡易郵便局から分かれて旧道を通り 前田二丁目に難なく達することが出来るが
その後は一部を除き 下関市本町一丁目辺りまで明治以降に喪失した箇所が多く
また 市街区域も開発などにより やはり喪失箇所が多く見られる
下記に示す地図は資料などにより ほぼそれらのルートを解明しようとした結果である
長府駅から下関細江駐車場まで 歩行距離約22.2km 7時間20分
長府の大辻から赤間関観音崎一里塚跡まで
西国街道よりひとつ北側にある 武家屋敷街の古江小路
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古江小路の土塀
街道に戻り一路下関を目指す
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明治36年建築の長府毛利邸 江戸時代は総社宮
街道は再び南へ向かう

下関市長府川端町 曹洞宗 金山 功山寺
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<掲示板より>
鎌倉時代の嘉暦2年(1327)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など
武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治3年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって
一時堂宇の荒廃をみた。その後、慶長7年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、
曹洞宗に転宗した。二代藩主光広が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、
秀元の法号、智門寺功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。
現在の仏殿は、元応2年(1320)の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式として国宝に指定、十代藩主匡芳の時、
当地工匠の作による山門は市指定文化財となっている。
その他境内には、県文化財の木造地蔵菩薩半跏像をはじめ、大内義長の墓と伝えられる法篋印塔、
五卿西下潜居の間、高杉晋作挙兵の処など数々の史跡や文化遺産が残されており、
境内地(付、伝大内義長の墓)も記念物として市文化財に指定されている。
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功山寺境内 旧長府博物館(昭和8年築 長門尊攘堂)
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長府川端1丁目
長府野久留米町
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豊浦村
峠の庚申塚から右へ旧道あり 通り抜け困難
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峠の庚申さん
標高60mの一段高い旧道 峠の反対側は通行可能
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長府浜浦西町 街道は右へ
右に地蔵堂あり
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下関市大字豊浦村 地蔵堂と旧街道
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一字一石妙寶塔
長府向田町で街道は左へ 火の山が見える

一字一石妙宝塔とは 室町時代から江戸時代に流行した一字一石経といわれた お経の一文字づつを
石に書き写し それを集め埋めて経塔としたものである
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長府向田町 新道の法面下
下関共同生コン前 火の山が間近
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前田簡易郵便局の前を直進 関門橋が見える
住吉工業砕石工場前から関門海峡
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前田2丁目
急傾斜の石張りの溝
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海峡に向かって下る道
海抜7.2mまで下り再び登りとなって道は消滅

下図は 関門大橋が架橋される以前の国土基本図で 作成年は1962年の地図である
火の山南山麓と丸尾山北部の峠に かつて破線で描かれた街道らしき細道が存在していたことが窺える
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前田から下関市本町に至る道をトレースしてみると 消滅した街道が現れる
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日高海運株式会社(前田2丁目31番地)構内の旧街道と思われる道
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道は深い谷を迂回する 標高約40m
谷の上部を再び西に向かって 標高約51m
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満珠荘駐車場 ここから街道跡不明(右方向へ?)
火の山峠の六地蔵
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ユースホステル新築現場上から関門海峡を望む
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街道跡の荒廃した「火の山公園」
みもすそ川町6丁目
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鉄塔の建つ鞍部に向かう 左が丸尾山
シャングリラ横の登り道(街道?)
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道は鉄塔まで続く
鉄塔のある丸尾峠 下は高速の壇之浦SA

丸尾山峠を下ると下関市本町である 本陣のある赤間関宿の所在地:山口県下関市赤間町
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上図は 東京国立博物館 情報アーカイブ  長州赤間関之図(江戸時代)である <拡大 サイズ404KB>
絵図によれば 阿弥陀寺町から観音崎に至るまで 多くの旅籠や町屋が街道沿いにあったことが解る
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長州赤間関之図の部分拡大図
絵図の東端に描かれている「烏帽子岩」は 現在も同じ位置もしくは近くに移転されていると思われる
毎年12月10日には この岩に注連縄を張る「しめなわ祭」が執り行われる
当図では 烏帽子岩の手前にある六地蔵堂の西から 長府道は山の谷間へと続く様子が描かれている
現在・関門大橋が架橋される辺りは 丸尾山が海にせり出す断崖絶壁の地形で
潮の流れも速く自然に砂浜が形成されることは無かったと思われることから
西国街道は 高速道路の壇ノ浦パーキングの近くを通っていたと推測される
<別ページ 御裳川から壇之浦漁港まで> 
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鉄塔のある丸尾峠から下れば本町
街道は右へ
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本町一丁目 丸尾道の道標
本町の共同井戸
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阿弥陀寺町
阿弥陀寺町 9号線の道標 たぶん移設
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明治に出来た赤間神宮
江戸期は海 もしくは浜辺
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街道はもう少し内陸部にあったのでは?
赤間本陣・伊藤邸跡

本陣 伊藤邸跡
伊藤家は鎌倉時代から続く下関屈指の名家。室町・江戸時代には港町下関の指導的な地位にあり、
この地に広大な邸宅を構えていた。室町時代は、下関の交通・流通などを掌握して朝鮮交易も行い、
江戸時代には大年寄として町政を司る。また、本陣を兼帯して九州諸大名の参勤時の休泊所となり、
各藩の用達も行った。特に対馬宗氏とは前代から親密な関係にあった。
伊藤家はオランダ宿として名高い。江戸に参府するオランダ商館長は、伊藤家と佐甲家の
二つの本陣を下関の定宿とした。歴代当主進取の気性に富み、開放的であったが、
なかでも文化・文政期の当主杢之允盛永は、熱烈なオランダ趣味の人で、
ヘンドリック・ファン・デン・ベルグというオランダ名を名乗り、ヅーフ、ブロンホフなどの
商館長と親しく交際した。佐甲家に宿泊した商館長のシーボルトも杢之允から歓待されている。
また、幕末の当主杢之助は吉田松陰と交際し、助太夫は真木菊四郎や坂本龍馬を支援した。
とりわけ、慶応2・3年頃の龍馬は伊藤家を活動の拠点としていた。
明治5年6月、伊藤家は明治天皇の西国巡幸時の行在所となり、本陣としての最後の役割を終えた。
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阿弥陀寺町一丁目
東京第一ホテル前の道を上る

亀山八幡宮のある丘は赤間宮の背後の山と続き また 亀山宮の西には入江が深く入り込んでいるため
街道は引接寺の南を通り 入江に沿って高度を上げて現在の東京第一ホテルの前を通り
再び高度を下げつつ市役所前の通りに至る迂回コースをとる
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今度は坂道を市役所方向に下る
明治の山陽道の碑が有る亀山八幡宮前

亀山八幡宮に寄り道
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拝殿・本殿
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鳥居下は海だった
番屋もあった堂崎の渡し場跡
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内田九一「明治天皇 西国・九州巡幸写真」から 地明治5年(1872)の亀山宮
再び街道を行く
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市役所前
南部町
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明治天皇御上陸地聖跡の石碑
観音崎の崖地
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永福禅寺石階段前の一里塚跡
真新しい一里塚跡の石碑
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国土地理院色別標高図
1.火の山 2.御裳川 3.丸尾山 4.丸尾峠 5.本町 6.赤間神宮
7.亀山宮 8.東京第一ホテル 9.観音崎
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