2015.09.05 西国街道を歩く 西宮から三宮まで

現在の神戸市域は 明治初期まで使われた律令制により決められた五畿内の西境域にあり
須磨浦公園から800m西の境川を国境として 東は五畿内の摂津国に入り西は山陽道の播磨国であった
幕府の直轄地である武庫郡西宮町を出た西国街道は 菟原郡打出村の東端で 山麓を行く本街道と
南部を行く浜街道に分かれる 浜街道は 江戸時代中期に摂泉十二郷と言われた「酒どころ」の内
灘目三郷と数えられる武庫郡今津・上灘(魚崎・御影)・下灘(灘区・中央区)が 江戸に樽廻船で
直送出来る地の利を生かし栄えたことから 物流ルートとして発達したことが始まりである
江戸後期天保8年(1837)の宮水発見により 酒どころ灘五郷として今津・西宮・魚崎・御影・西郷が
より一層の発展を遂げ 浜街道が商人や一般庶民が行き交う道として確立された
北部を通る「本街道」は 江戸期を通して大名の参勤交代や武士階級が利用する街道であったが
江戸後期には 大名や武士階級も繁華な浜街道を利用するようになった 生田川東部の菟原郡は
元々田畑や林が広がる鄙びた区域であり 浜側の賑いを見せる商家群とは対照的であったかと思われる
しかし標高20〜50m程度の高台を行く本街道の眺めは 見事であったろうことは想像するに難くない
西宮から三宮まで歩く 歩行距離 20.5km 所要時間7時間30分
KML作成ベース:地理院地図/情報/空中写真 1945年〜1950年
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西宮神社 東鳥居
拝殿
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西宮神社東南角の常夜燈型道標 柵内は立入禁止
南面に建立日 寛政十一年己未(つちのとひつじ)十一月吉辰(西暦:1799年)
東面に世話人名 世話人 平内太郎右衛門/真宜喜三右衛門
<西面> 西宮太神宮 左 京都 大坂 道 <北面> 右 兵庫 はり満 道
高さ258cmの夜灯型道標で 建立当時は現在の場所からえべっさん筋を挟んだ向かい側にあった
この道標は江戸時代後期の西宮町の街道交通史だけでなく当時の「町勢」を今に伝える歴史資料として
市の指定文化財となっている 西宮町は中世以来西宮神社の門前町として発達し
西国と京都・大坂を結ぶ重要な西国街道があることから 江戸時代初期には宿駅が置かれ
宿場町としても栄えた 当時は神社・宿場があり古くから人が住んでいた町北側の「町方」が
酒造業などを営む南側の「浜方」を含む西宮町全体を統制していた しかし中期以降「浜方」は
江戸に酒を出荷するようになり 経済・人口ともに大きく発展し 寛政11年には
宿駅業務を行う「差添役」が浜方から選出され 西宮町内の形勢は逆転した
同年 差添役となった「浜方」の平内太郎右衛門と真宜(さなぎ)喜一三右衛門が世話人となって
「町方」の中心地である西宮神社の目の前に道標を立てるに至ったのである
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真言宗 医王山 円満寺 康保3年(966)創建
円満寺前から街道は右の路地へ
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香櫨園バス停の地蔵堂
阪神香櫨園駅と夙川橋
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堀切川橋と阪神電車引込線 浜街道と分岐
分岐後の本街道は線路で消滅
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踏切を渡り迂回する
線路敷から続く街道 西宮方向を撮影
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芦屋市春日町高津マンション角の自然石地蔵彫り道標と石柱道標(左下写真)
自然石地蔵彫り道標 南面「法界」 西面「左 甲山/中山/妙見山 道」
石柱道標 南面「右 西宮道」 西面「左 中山道」 北背面「丹州恵比須村/亀」
中山道は 現在の宝塚市中山寺にある観音霊場・中山寺(中山観音)への参詣道のことである
現在では 阪急宝塚線の中山観音が最寄り駅となっている
紫雲山 中山寺
真言宗中山寺派大本山 本尊は十一面観音 西国三十三ヶ所第24番札所
秘仏の本尊十一面観世音菩薩像は インドの勝鬘夫人の姿を写した三国伝来の尊像と伝えられる
また 左右の脇侍も十一面観世音菩薩であり 本尊と脇侍をあわせて三十三面となり
法華経で説かれる「観音の三十三権変化身」を表わし 三十三所巡拝と同じ功徳が得られるとされる
寺伝では 聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場とされ「極楽中心仲山寺」と称された
本堂や阿弥陀堂は 豊臣秀頼が片桐且元に命じて慶長8年(1603)に再建した
古くは 安産祈願の霊場として皇室や源頼朝など武家及び庶民の信仰深く
また豊臣秀吉が祈願して秀頼を授かったとされ 江戸後期には関西をはじめ全国から参詣者が訪れた
幕末には中山一位局が安産祈願をして 無事 明治天皇を出産したことから
日本唯一の明治天皇勅願所となり 安産の寺として名を馳せた 中山道は
石刎町で夙川を渡り 甲山の麓を北東方面に行き 仁川を経て宝塚で武庫川を越え中山に至る
地図上ではそれらしき古道が見られ 近くに摂津国八十八ヶ所第72番札所の「清荒神清澄寺」がある
地蔵彫り道標にある妙見山は「能勢の妙見さん」と呼ばれる「無漏山真如寺境外仏堂能勢妙見山」の
ことと思われる 中山寺まで3里7丁半(12.6km) 妙見山まで8里14丁半(33km)ある
左の街道は この先国道工事に伴う住居移転で宅地となり消滅した
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街道は消滅 この辺りに札場があったらしい
芦屋市春日町3丁目 阿保親王廟道標
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阿保親王廟への寄り道で見た  旧松山家住宅松濤館(芦屋市立図書館打出分室)
昭和5年(1930)建築 鉄筋コンクリート造2階建 建築面積150平方m
登録有形文化財(建造物) 登録年月日:2009年1月8日
東と北の外壁はルスティカ風に花崗岩を積み 重厚な外観としている 隅部は円弧状とし
2連アーチ窓を配し 軒にデンティルを施す イタリア・ルネッサンス邸宅風の意匠が見られる
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芦屋市打出小槌町11の街道
芦屋市打出小槌町11 街道は消滅
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芦屋市打出小槌町4
宮川と西国橋
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橋の東詰めに地蔵堂 白露地蔵尊
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芦屋市宮塚町
芦屋市茶屋之町 街道は右の細道へ
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芦屋市茶屋之町 樋口ビル裏の歩道が街道跡
芦屋市業平町3 地蔵堂 暫く国道を行く
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地蔵堂 旧字名か? 読めない
大正14年12月架 業平橋西詰
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芦屋市前田町5
芦屋市清水町9 ガレージの古い看板
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神戸市東灘区森南町2丁目 子安弘法大師堂
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森南町2丁目 道標 稲荷之社 従是三町
北へ450m 森北町4丁目 森稲荷神社
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本山中町4丁目 昭和7年建立 国道地蔵尊
国道を離れ三王神社の北側が街道跡
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神戸市東灘区田中町4丁目
神戸市東灘区田中町5丁目 地蔵堂
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神戸市東灘区田中町5丁目 花松首地蔵尊
コープこうべ生活文化センターで消滅
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住吉宮町4丁目 有馬道 是ヨリ北九十丁
本住吉神社境内の住吉村道路元標
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神戸市東灘区住吉宮町7丁目 本住吉神社
主祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)および神功皇后
社伝では 神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり 神託により住吉三神を祀ったとされる
この話 生田宮と同じである 日本書記にある「大津渟中倉之長峡」の地が当地であるとし
当社が住吉三神鎮祭の本元であると伝え そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている
学術的には「大津渟中倉之長峡」の地は 現在の大阪・住吉大社であるとする説が有力であるが
当社では住吉大社も当社からの勧請であると主張している 本居宣長もこの主張を支持していた
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神戸市東灘区御影中町1丁目 再び国道から離れる
そしてまた消滅
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御影中学校西門 西国街道の残された並木松
御影中町7丁目 一里塚橋
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御影塚町2丁目 西国橋
神戸市東灘区御影塚町2丁目
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処女塚道標「兎原遠とめ塚」建立は明治?
南へ200m 史跡処女塚古墳
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神戸市灘区に入る 友田町3丁目
灘区大石東町6丁目
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都賀川(とががわ) 下河原橋
灘区船寺通1丁目 この後国道に出る
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厄除東八幡宮の道標 南へ150m
厄除東八幡宮 現在は船寺神社
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西郷川と岩屋中橋 旧岩屋橋は80m上流
灘駅近辺 街道の痕跡は無い
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昭和23年(1948)2月2日 米軍の空撮
まだ空襲により焼け野原となった灘駅の南側 旧街道と思われる道の痕跡が残る
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神戸市中央区脇浜町1丁目 子安地蔵
神戸市中央区筒井町3丁目
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春日野道商店街の西国街道掲示板
西国街道は 西宮から海岸沿いを芦屋の打出まできた街道は 内陸部を進む参勤交代に利用された
「本街道」と海岸沿いを進む「浜街道」に分かれた後 生田筋で合流していた
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大安亭の名の由来
明治時代の旭通4丁目付近に「大安亭」という名の人気の高い浪花節の寄席小屋があり
その周辺にできた商店街が大安亭と呼ばれて栄えた 明治時代後期には 新生田の東側にも
商店街ができ始め その後栄えて新大安亭と呼ばれるようになった
第二次世界大戦後は 新大安亭の方に元の大安亭にいた商人が移転していった
この頃の大安亭は 毎日が縁日かと勘違いされるほどの人出で 神戸有数の市場として発展した
名の由来となった寄席小屋の大安亭は 昭和15年頃になくなったといわれている
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神戸市中央区日暮通5丁目
神戸市中央区吾妻通 雲井橋と新生田川
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新生田川と布引ロープウェイ遠望
六甲山系の摩耶山に源を発し名勝「布引の滝」を経て神戸港に注ぐ旧生田川は
 現在のフラワーロードの位置を流れていたが 長年の堆積により天井川となっていた
また下流域に堆積による平地が広がり近世には商工都市として発展したため 一度水害が発生すると
その被害は甚大なものとなっていた 幕末の開港にあわせ整備される外国人居留地が
生田川の氾濫により大きな被害を被る恐れがあり 明治4年(1871)政府は生田川の
付け替え工事を計画して商人の加納宗七が請負 およそ3か月で工事を完了させた
旧生田川が天井川となっていたことで 両岸それぞれに集落が形成され異なる文化が形成されてきた
神戸市誕生前は 西側が須磨まで「八部郡」 東側が現・芦屋市までが「菟原郡」と区分され
神戸の元となった生田神社の「神の戸」の集落は生田川の西側になっていた
因みに 昭和55年(1980)に区再編がされ中央区となる以前は フラワーロードより東側が葺合区
西側が生田区であった 17万坪に及ぶ旧生田川の河川敷は 加納宗七が娘婿の有本明とともに
兵庫県から落札し区画整備を行った これが 現在の「加納町」の由来となり
加納3丁目交差点の歩道橋の一角に旧生田川の石碑が建てられている
以後 神戸の市街地は 天井川が消滅したことで 田畑や林が広範囲を占めていた東部の旧菟原郡へ
急速に拡大していった 昭和に入り生田川は 市街地部分のほぼすべてが暗渠化され
この真上に道路や公園を整備した 当時の神戸市は 市街地の機能を高めるため河川の暗渠化を
政策的に実施したが 昭和13年(1938)の阪神大水害により 巨岩や巨木が
生田川の暗渠入り口に詰まり フラワーロードの周辺街区一帯に大きな被害をもたらした
この教訓から生田川の暗渠については撤去され 新たに公園を再整備したのが現在の生田川公園である
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現在の新神戸駅辺りから見る 明治の新生田川開削工事写真 開削された新生田川(左)と
蛇行する旧生田川(右)が見られる
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布引谷はハイキングコースである
神戸市中央区雲居通6丁目
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神戸市中央区旭通5丁目 生田神社も近い西国街道は今も昔も繁華街
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