2017.04.14 西国街道を歩く 土山−加古川橋東詰

この区間は 土山駅前の標高23.6mを最高点に 標高5m程度の加古川宿まで高度を徐々に下げて行く
古代律令制の時代 加古郡野口村に駅(うまや)が置かれ賀古駅と呼ばれていた
現在も同所に「駅ヶ池」の名が見られる 駅跡には大歳神社があり その東部に古代山陽道が走る
その後 中世まで加古川宿はこの野口村にあり 加古川は日岡から南下し野口村の西側を流れていた
そのため 古代から中世にかけて 山陽道の水駅(渡船場)は野口村の西にあったとされる
古代の加古川は川幅3里(約12km)に及ぶ山陽道の難所で 土砂の堆積が進むと幾筋もの支流となって
何度も洪水を繰り返してきた 加古川による災禍は近年まで発生している
中世になり街道の整備が進むと 漸く治水工事が行われるようになって堤防が築かれ中洲に町が出来た
明石姫路の藩境から加古川橋東詰まで
江戸時代になると 加古川の治水工事により出来た中洲に西国街道が整備され
加古郡の寺家町と印南郡の本町が加古川宿となり栄えた
その郡境は 古い加古川支流の名残である分岸寺川であったが 現在は埋立てられて道路となっている
加古渡は 古くは「鹿子の渡し」といわれ 数ヶ所の渡し場があったとされ
一説では東西23ヶ所あったとされるが 徳川幕府開闢後半世紀の明暦年間(1655−1658)には
加古川西と船頭村東間の一ヶ所にに定められた 加古川西は現・加古川市本町の中央市民病院下あたり
船頭村は 対岸の現・米田町船頭郵便局のあたりで 中洲・向島の船元という加古川村の小字だった
その中州の東側に渡船場が設けられていた そこは山陽本線の下流約50mの位置で
その後は更に80m下流に 幕末から明治にかけては 現在の加古川橋付近へと順次下流へと移動した
今は加古川橋の下流に渡船場が復元されている
<参考文献:建設省近畿地方建設局姫路工事事務所発行 加古川流域の歴史と地誌>
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明石・姫路藩の境 平岡東小学校は嘗て池であった
加古川市平岡町土山
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喜瀬川の土山橋
土山薬師堂
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山陽本線踏切 旧道は右の廃止踏切
平岡町土山 五社大神社
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平岡町高畑
江戸から明治初期の竜吐水(消防ポンプ)
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高畑薬師
県道381号線の交差点
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平岡町高畑 国道2号線を斜めに横切る
ラーメン丸醤屋 古い農機具
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平岡小学校グランド 消滅区間
江戸時代に創建された 西谷八幡神社
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石の門柱と平岡会館 本陣大西市左衛門宅跡か?
平岡町新在家1丁目 街道は左へ
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東加古川駅前通り交差点
新在家の家並み
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街道はイオン加古川店へ
五輪塔
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五輪塔のある小さな公園と公民館
この五輪塔は 凝灰岩(竜山石)製で無銘のため造立年代は不明 推定では室町初期のものと考えられる
播磨名所巡覧絵図には 足利左馬頭義氏の墓とある 全高 225cm 水輪の径 80cm
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平岡町新在家 イオン内を突き抜ける
野口町野口 東和東加古川ハイタウン内
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東和東加古川ハイタウン 昭和60年(1985)7月竣工
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国土地理院 昭和22年(1947)の空中写真
現在イオン加古川店のあるところは農地のようだが このあと大きな工場が建ち 工場跡地に
昭和57年(1982)加古川サティがオープンした その後 経営破綻によりイオン加古川店となった
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五社宮野口神社 由緒略記
播磨は古く中央政権への「文化の通り道」としての役割があり、近代国家建設に貢敵した渡来系の入たちが
往来しました。 仏教伝来の流れの中で寺院が建てられ、古代寺院として奈良時代(8世紀〕に
野口神社のところに寺院(通称「野口廃寺」)が建立されました。近<には秀吉により天正6年(1578)に
攻め落された野口城がありました。のち江戸時代の慶安4年(1651〕に社殿が、寛文6年(1666)に
鳥居が建てられ山王五社宮(五社大明神、五社山神宮寺)として約250年間、社僧12代により栄えてきました。
江戸末期には頼山陽(1780〜1832年 儒者 歴史家)が立ち寄り、
「近 環 松柏見威霊之森巌 遥面波涛知膏青澤之 弥満」
(近くに松柏をめぐらした威厳に満ちた深い森を見、はるか向こうに瀬戸内の波をながめ、
人を豊にし幸福をもたらす恵みが一面に広がっていることがわかる)という詞を読みました。
神社の前の道は西国街道で、江戸時代参動交代が行なわれ、伊能忠敬などが通りました。
明治になり政府は神道を国教と定め「神仏判然令」(1868年)を出して神と仏を厳然と区別しました。
その結果、神社にあった神宮寺はただちに撤去され、社名も五社宮(5つの神を祀るので五社宮という)から
野口神社と改称されました。祭神は比叡山の麓の山王総本宮日吉大社より勧請(分霊をお招き)した
大山昨命(おおやまくいのみこと=日吉大神)を主祭神とし、品陀別命(ほんだわけのみこと=八幡大神)、
須佐之男命(すさのおのみこと=八坂大神)、速玉男命(はやたまのおのみこと=熊野大神)、
天伊佐々比古命(あめのいささひこのみこと=日岡大神)の五柱を祀る。
石灯籠には 享和三年(1803)癸亥九月の銘がある
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加古川市野口町野口 野口神社角の道標「東 大野村在 南 式内日岡神社 西 廿五丁 北」
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天台宗 念仏山 教信寺
教信寺建立の西国街道標識
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境内は桜の名所でもある
史跡教信寺と沙弥教信
教信寺は 平安時代に活躍した教信上人の庵の跡に建てられた寺院である
教信は天応元年(781)奈良に生まれ 興福寺で学んだ後 16歳の時に同寺を出て諸国を行脚し
40年余りの後 賀古の駅にたどり着き庵を結んだ 加古川での教信の活動は
ひたすらに念仏を唱えながら 街道を行く旅人の手肋けをするというものであった
東は明石から西は珂弥陀宿(現高砂市阿弥陀町)まで荷物を運んだと伝えられている
また 教信寺の南に広がる駅ヶ池も教信が地元の人々と掘った池だとも伝わる
貞観8年(866)死期を悟った教信は 妻子に遺骸は庵の側に捨て鳥獣に施すよう言い残し亡くなった
同じ時 摂津国勝尾寺(大阪箕面市)の僧・勝如の夢枕に教信が現れ 自らの死を告げた
不思議に思った勝如が弟子を加古川へ走らせると そこには頭部だけが残った教信の遺骸があった
これが 現在教信寺に伝わる教信頭部像だと言われている
その後 清和天皇(850~880)が教信の徳をしのんでこの地に伽藍を建てて観念寺とし
さらに崇徳天皇が大治元年(1126)に 念仏山教信寺と改めたとされている
天正6年(1578)秀吉の三木城攻めにともない野口城が攻略され 教信寺も戦禍を受け全焼したが
仏像などは 僧達によって避難し焼失を免れ 後の元和年間(1615〜1623)に再興された
教信は一遍や親驚にも先達として仰がれ とくに一遍は諸国を巡る旅の途中
教信寺で1泊して念仏踊りを興行した これが現在の播州音頭の起源であると言われている
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播磨名所巡覧図絵
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野口の地蔵
新代橋 大正4年(1915)12月架橋
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タイヤ館加古川中央店裏の道標 明石側上部欠損 ?道 加古川側も上部欠損 ?田山尾上道
中国行程記に「此棒杭二尾上高砂道ト有リ」と書かれ 同方向に刀田山(鶴林寺)がある
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野口と坂元の村境 坂元の観音堂 裏に坂元集会場
宝篋印塔 伝・和泉式部墓

県指定文化財 宝篋印塔 花崗岩製 高:228cm 南北朝時代〜室町時代(14〜15世紀)
この塔は 完全な状態で保存されている大きな宝篋印塔で 基礎の部分の格狭間内には
開花蓮や一茎蓮の模様が彫り出されている また 塔身部の月輪には金剛界四仏の種子を配しており
笠部の隅飾りには 胎蔵界大日如来の種子を配している この塔は 昔から和泉式部の墓と伝えらている
和泉式部は 平安時代の女流歌人で 各地に伝承が伝わる
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宝篋印塔と街道
おりいの清水と住吉神社

おりいの清水
この社下の街道沿いに「下居の清水」という井戸があった この井戸は有名で  江戸時代の旅行案内書
『播磨名所巡覧図絵』には 説明とともに当時の風景が記載されている
昔 瀬戸内海を行く船が ここで水を汲んだことが記されている この井戸は
「折井の清水」「織井水」「細田の清水」とも呼ばれ その前の坂を「おりい坂」と呼んだ
教信寺 和泉式部の塔 観音堂 弁天社などが続くこの付近は 江戸時代の街道の目印がよく残っている
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播磨名所巡覧図絵
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おりい坂と地蔵
野口町坂元 県道18号線は渡れない
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別府川 二号橋
国道2号線 平野東交差点
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加古川市加古川町平野の国道2号線 街道は右へ
加古川町平野
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浄土宗西山禅林寺派 一鱗山 龍泉寺
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境内の古桜
龍泉寺五輪塔

龍泉寺五輪塔
五輪塔は 花崩岩の水輪に阿弥陀如来を表す梵字(キリーク)を刻んでいる
その他は 竜山石(石英粗面岩)で造られている
この塔は 寺前の旧西国街道の西方約150mの北側路傍に建っていたが 昭和10年頃道路拡幅により
現在地に移された 現在の地輪東面には 南北朝時代の康永三年(1344)の造立銘文が刻まれている
『銘文』
法界衆生/平等利益/康永三年甲申潤二月八日/大勧進沙弥定蓮
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加古川町平野 龍泉寺付近の街道
胴切れの地蔵
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胴切れの地蔵
全長101cmの石棺材を利用して作られたと思われる石材に 全高67cmの地蔵菩薩が彫られている
伝説では この地蔵さんを深く信仰していた人が うっかり殿様の行列の前を横切ったために
供侍に無礼討にあい 体を真っ二つに切られてしまった
ところが ふと気がつくと自分の胴体はなんともなく 代わりに地蔵さんの胴が真っ二つになっていた
以来 地蔵さんが身代わりになって下さったと 一層深く信仰するようになったといわれている
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胴切れの地蔵前の街道
地蔵横の煉瓦の建物
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煉瓦建築物は 繊維産業の大村株式会社 創業年は不明だが 加古川では明治30年代から繊維産業が発展した
兵庫県加古川市加古川町寺家町・加古川町本町 加古川宿
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加古川宿寺家町の古民家
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軒の漆喰飾り
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寺家町交差点
加古川駅前通り 加古川一番街じけまち
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アーケード街の西国街道
県道18号線と交差
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商店街が続く
廃墟となった商店(住居)も多い
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廃業した大店
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本陣わかまつや結納店跡
廃業し住居のみとなった家
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シャッターを下ろした人形店
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人形の店「陣屋」 市指定文化財 陣屋(山脇邸)
姫路藩の加古川役所として 宝暦2年(1752) 3月18日に建造され 参勤交代のために加古川宿を通行
宿泊する大名に対する応接などに使われていた 明治18年8月9日には 明治天皇が西国街道を巡幸の際
ここで休憩し昼食をとった このとき 松盆栽を陳列したことから「樹恵堂」の名が贈られている
建物内部は 中央部に上段の間を配し 応接部分の部屋割りが良好に残っている
江戸時代の加古川宿の面影を残す貴重な建造物である
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わがまち加古川60選 寺家町周辺
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加古川宿は 分岸寺川を境に印南郡と加古郡に分かれていた 本町地蔵尊のある道がその川跡である
寺家町は JR加古川駅の西側一帯の大字である 江戸時代には西国街道の宿場町「加古川宿」として
栄えたところで、現在の寺家町の商店街にその名残をとどめている 姫路藩の藩役所であった陣屋
黒壁の旧家 商店の軒先に残る卯建 光念寺の白壁など 歴史を感じさせる古い町並みが今も残る
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加古郡と印南郡の境 ここから加古川町本町
角に本町地蔵尊
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本町商店街
古い商家も残る 本町商店街
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加古川 江戸中期の渡し場辺り
加古川渡
中国行程記では「此賀古川広サ百間程、地水四十間程、船渡シ、中河原有、西ノ川廿間程、陸渡」とある
下図では水量も多く筏流しもされていたようである 江戸時代初期には 向島という中州島があり
船頭村という字があった 主に川渡船頭や筏師の住いがあったようである 川幅は約180mあり
その内本流は約70mを船渡しで 西の流れは約36mで土橋などがあったと考えられる
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江戸中期の絵図
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播磨巡覧名所図絵 加古松と加古渡
常住寺「鹿児の松」
播州名所巡覧図絵にも紹介された巨木で 初代の松は高さ3丈2尺(約10m) 太さ3丈1尺(約9m)
東西21間(約40m) 南北18間(約35m)に広がっていた
嘉禄年間(1225〜1226)の大洪水で 七堂伽藍は全て流出したが 松だけは残り
本尊や脇立仏などが無事にこの松の梢に掛かり残されたため「影向の松」と言われた
二代目の松も 老根がはびこって枝が四方に広がり 蒼然として異彩を放っていたが
明治の中頃に 100mほども伸びた枝が風もないのにある晩 突然枯れ落ちたと伝わる
また源平合戦の最中には 新宮十郎行家がこの寺に陣を構え この松に腰掛け
「けふはまた 田鶴の鳴音も はるめきて かすみにけりな 加古のしま松」と歌を詠んだと言われる
現在 本町常住寺にその歌碑と小ぶりながら三代目「鹿児の松」がある
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加古川畔の加古川地蔵尊
加古川駅の道標は明治のもの

加古川駅前の道標
建立年が無銘のため 江戸時代の標柱または山陽鉄道が開通し加古川駅が開業した時の標柱など諸説ある
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刻銘内容は東西南北の順に
東 明石驛迄五里十四丁 西 姫路驛迄四里五丁余 南 西國街道播磨國 加古郡加古川驛 北
刻銘内容から 山陽鉄道が明治21年(1888)12月23日に明石−姫路駅間を開通させ
加古川駅を開業した当時に建立されたものと思われる
特に「南 西國街道播磨國 加古郡加古川驛」の文面では 新駅から西国街道加古川宿(駅)までの案内で
まだ 街道の宿場も「駅」と呼ばれていた明治の建立であることは確かである
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