2018.03.17 西国街道を歩く 御着宿−姫路城下

姫路は播磨国の中心に位置し 古代より山陽道の要衝として栄え 奈良時代には飾磨郡に国府が置かれた
鎌倉時代以降は播磨守護大名の赤松氏の支配下にあり 南北朝時代に姫山を縄張りして城を築き
後に姫山城とした 室町時代に赤松氏が滅亡し 但馬を本拠とする山名氏が守護となったが
応仁の乱後 再興された赤松氏が山名氏から播磨国を取り戻し 姫山城に本丸などを築いた
文明元年(1469)赤松則村が 新たに築いた置塩城(夢前町宮置)に本拠地を移し
一族の小寺豊職が姫山城の城代となった 延徳3年(1491)嫡男の政隆が城代になり御着城の築城を開始
永正16年(1519)に御着城に本拠地を移し 小寺政隆の子・則職が姫山城代になったが
天文14年(1545年)則職が御着城に移り 家臣の黒田重隆・職隆父子に姫山城を預ける
永禄10年(1567)には 職隆の子・孝高(黒田官兵衛)が城代となった
天正4年(1576)織田勢の羽柴秀吉が播磨を攻め 織田方の勝利により毛利についた小寺氏は没落したが
小寺政隆に織田氏への帰順を説いた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった
天正8年(1580)孝高は播磨平定を終えた秀吉に姫路城を献上 秀吉は約一年を掛け姫路城を近世城郭に
大改造して石垣で城郭を囲い天守を建築して名も姫路城と改めた 同時に城南部に大規模な城下町を作り
姫路の北を通る山陽道を城南の城下町を通るように改め 姫路を播磨国の中心地となるように整備した
秀吉は 天正11年(1583)に大坂城へ移り 姫路城には弟の秀長が入ったが 天正13年(1585)に
大和郡山へ転封 姫路には木下家定が入った 慶長5年(1600)池田輝政が15万石から52万石への加増で
姫路城に入城し播磨一国支配となって姫路藩が立藩された 以降姫路藩は 幕府から豊臣系大名の多い
西国を牽制することが命題とされた 輝政は8年掛かりで大改修を施し広大な城郭を築いた
元和3年(1617)池田家藩主が幼少で「西国大名牽制の命題に答えられること敵わず」として転封される
同時に石高も52万から15万石に減封され 小藩及び天領が旧藩領内にひしめくこととなった
以降寛延2年(1749)に酒井忠恭が前橋から姫路に転封するまで 同じ理由で9家22代が藩主の座に付き
目まぐるしく転封が繰り返された 酒井家は明治維新まで10代の支配を続けた 廃藩置県で姫路県となり
すぐさま飾磨地方の諸県と合併して飾磨県となるが 明治9年(1876)に飾磨県は兵庫県に併合された
御着天川橋から姫路城下備前門跡まで歩く
姫路市御国野町御着 姫路市役所東出張所裏 旧天川橋
姫路藩が文政11年(1828)に旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の桁石橋
全長:26.6m 幅:4.45m 高さは約5mで橋脚は5本 石工は印南郡石工瀬助と仲右衛門である
橋の東北詰めに高札場が設けられていた 昭和47年9月9日の出水で中央部橋脚が崩れ橋桁が落下したため
撤去され 昭和53年10月に御国野公民館隣接地に移設保存された 高さは地形に合わせて低<してある
移設地中央部の低いところは御着城の濠跡である 欄干には 儒者近藤顧一郎撰の銘文が刻まれてある
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在りし日の天川橋
欄干の銘文
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中国行程記 天川−姫路城備前門橋
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橋を渡って御国野町御着
御着駅 山陽鉄道・明治33年(1900)4月に開業
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山陽本線と新幹線を遠望
新幹線を潜り 工場の角に道標と旧山陽道の標識
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旧山陽道 御着城跡 600m 宮山古墳 1.2km (南へ)見野古墳群 1.0km
足元の地蔵型道標 右 かみすヾ 左 うしどう山(牛堂山国分寺)
牛堂山・国分寺は 播磨国分寺跡に再建されたお寺で 黒田官兵衛縁の寺とされる
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御国野町西御着 西国街道(旧山陽道)
国分寺参道跡は線路に遮られている

寄り道 真言宗 牛堂山 国分寺
奈良時代に聖武天皇の詔により 日本各地に建立された国分寺のひとつ播磨国国分寺の後継寺院である
史跡としては 現境内と重複して旧国分寺跡と北方約600mに国分尼寺跡がある
南方に古代山陽道が通っていたと推定されている
旧国分寺跡は 昭和43年に始まった発掘調査で 金堂・塔・講堂・僧坊などの主要伽藍の遺構が判明した
推定寺域の北半分(金堂・講堂周辺)は 近世に再興された牛堂山国分寺が重複しており
重複しない寺域南半分の 塔・中門・回廊周辺が史跡公園「ふるさと歴史の広場」となった
出土瓦によって 国分寺は平安時代末頃まで国分尼寺は13世紀初頭までの存続が推定されている
後継寺の牛堂山国分寺縁起によれば 戦国時代に国分寺は荒廃していたが
天正15年(1587)に豊臣秀吉から国分寺村337石の寄進を受け また慶長6年(1601)には姫路藩から
30石の寄進を受け堂宇が再興された さらに現在の本堂は 寛永年間(1624-1644)に
城下にあった池田・本多両家の菩提寺の大堂が移されたものされている
なおも慶安元年(1648)に 三代将軍家光から30石の寄進を受け この朱印地は幕末まで継続された
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播摩名所巡覧図絵 国分寺
播磨名所巡覧図絵では 牛堂山に「ごどうさん」のルビを振るが「堂内に牛(うし)の像あり」と書かれ
一般庶民のあいだでは「うしどう山」としていたと思われる
播磨西国三十三ヶ所観音霊場の第32番 および播磨四国八十八ヶ所観音霊場の第1番として信仰を集めた
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山門
本堂と牛の像
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国土地理院航空写真
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発掘調査 伽藍配置図
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塔と中門跡
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御国野町西御着 御着村の一里塚跡
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四郷町(しごうちょう)山脇 瓦葺白壁土塀の家
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旧山脇村の西国街道(田圃道)
道標のある県道517号妻鹿花田線との交差点
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正面:菩薩坐像と 右やかぢぞう 是より一り 左面:右ヒメジ 左神戸
安政六年 正月吉日施主伯州汗? 国?(?は地中)
八家地蔵(やかじぞう)は 景勝地である小赤壁東の海岸近くの砂州で繋がった岩場に建立された
鎌倉時代の地蔵菩薩半跏像で現在の住所は 姫路市的形町福泊となる
本来は航海安全祈願として祀られたが いつしか子宝地蔵として信仰を集め遠方からの参拝者も多かった
江戸時代の「播磨名所巡覧図絵」にも記載があり その頃はお堂もなく野ざらしであった
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四郷町山脇の西国街道
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四郷町山脇の西国街道 左側は古社印鐸大神社のある山 右側は花田町一本松
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中国行程記に記された題目石 「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」と刻む
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市川に沿って北へ曲がる街道
山陽本線のガードを潜る
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国道2号線一本松交差点
五霊天神社の道標 左 丹波 有馬 右 大阪 神戸

播摩名所巡覧図絵 市川
江戸時代に橋は架かっておらず 西国街道の渡し場は一本松にあった 渡し場には姫路藩御伝馬船が1艘と
渡し守が12人いたと伝わる 渇水期には渡し場の上手に板の橋をかけて渡った
中国行程記には 「此市川広サ弐百間程有、東地ニ広キ河原有、地水之間四十間程有、船渡リ」とある
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明治8年(1875)に木橋が架橋されるまで渡しは続き 明治36年に道標(五霊天神社の)が設置された
明治41年(1908)6月には一本松より東郷町へ通じる国道に延長490m余の鉄橋が架けられた
その鉄橋は 当時の兵庫県下では最長の橋であったと伝わる
現在の橋は 昭和16年(1941)内務省によって架け替えられたものである
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市川橋の北 一本松の渡し場跡
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安政6年 二代目歌川広重 播州姫路 市川渡し
市川橋西詰からみた市川
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市川橋西詰交差点 右へ
道路の東側は消滅 駐車場の南が西国街道入り口
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京町1丁目
京町1丁目
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文化3年(1806)の姫路城下絵図
江戸時代から明治大正を経た古い町並みは 第二次世界大戦終結間近の昭和20年(1945)6月22日に
播但線京口駅西にあった川西航空機姫路製作所を中心とした爆撃と 7月3日に全域に焼夷弾を落とされた
無差別爆撃との二度に渡る空襲で灰燼と帰した 火の手は姫路駅前から上がり 順次周辺へと拡大して
町は火の海となり中心部を主に総戸数の40%が焼失 累計による死者数514人 被災者55402人を出した
姫路城は 天守に命中した焼夷弾が不発で発火せず偶然に焼失を免れた
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京町一丁目 卯建のある黒壁の旧家
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卯建の屋号
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京町二丁目
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土蔵
室町期の石棺仏がある地蔵院
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大善町を過ぎ国道交差点直進 突当りで消滅
姫路城の標識のある大通りを西へ
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京口台交差点・播但線ガードを潜り綿屋角を右へ
京口町 1つ目の角を左に曲がる
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外堀川と京口橋・光蓮寺・京口門跡
現代の番所とも言える京口交番

姫路城外京口門
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外京口門は 姫路城の外濠に設けられた五門(福中・飾磨津・北条・外京口・竹ノ門)のひとつで
京都方面への出入り口となるのでこう呼ばれた 五門のうち外京口門と福中門は
山陽道の出入り口にあった重要な門で 三方を濠で囲み内外二門をもつ厳重な構えであった
江戸時代の姿は上図のようであったが 明治になって 真すぐな道とするため門や石垣をとり除き
濠は埋められた その跡地は 教員伝習所・姫路中学校・県立姫路高等女学校などに移りかわり
第二次大戦後は東光中学校となった 昭和57年(1982)の発掘調査により 埋もれていた石垣の一部や
東西の濠を繋ぐ長さ15mの暗渠などが見つかった
体育館の完成後も 遺構が見られるように地下の石垣の部分は床下にそのまま保存してある
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国府寺町
奥行きの長い典型的な町家建築
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国府寺町
大黒壱丁町を左に曲がって坂田町
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圓證寺
元塩町通り
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二階町商店街東口
大手門筋から西国街道の綿町を見る

二階町・西二階町・福中町を通る繁華な商店街筋は 秀吉が定め その後も徳川幕府に引き継がれたが
公儀の定めた街道筋ではなく 外濠に近い綿町・本町・坂元町を通る道が西国街道であった
元和3年(1617)に姫路城主となった本多忠政が 寛永年間に中堀の浚渫工事を行い
排出された残泥土の処分に困り 坂元町の街道筋に捨土を敷いたため 馬や人の往来に支障をきたし
大半の旅人は 俵町(現:西二階町)に迂回して備前門に向かったといわれる
以来旅人は二階町から福中町へ抜ける道筋を通るようになって福中町に旅籠が並び 備前門も福中門と
改称されるほど繁華なメインストリートとなった 中国行程記にもこの道筋が太く描かれている
一方 北の西国街道は寂れたが 長崎に向かう役人が往来したと言われ 本陣の門も北向きであった
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西国街道の本町通り 左角は国府寺家本陣跡
本陣を勤めた国府寺家は 播磨国造(くにのみやつこ)の末裔で 江戸時代には大年寄の役職を務めた
藩主が初めて入城する際には この本陣に立寄るしきたりがあったといわれるほどの有力な旧家である
廃藩置県後は 藩主と共に東京へと移住し 本陣はまもなく取り壊された
西二階町は 慶長5年(1601)の池田輝政による町割りで誕生した町で
古二階町・東二階町・中二階町の三町があった
名前の由来は 古二階町付近の小字・高尾格子という所に初めて二階屋が建てられたことから
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二階町商店街
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大手門通
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西二階町商店街
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旧旅籠町の福中町
備前門(福中門)
姫路城は 外曲輪から城外に備前門・飾万門・北条門・外京口門・竹ノ門の五門が開かれていた
備前門は 西に西国街道 南西に室津道 飾万門は 飾磨津までの飾磨街道 北条門は妻鹿・松原道
外京口門は東に西国街道 東北に丹波道 竹ノ門は東に丹波道が通じていた
備前門は 東の外京口門から城内外曲輪に通じる西国街道の西の出入口として備前に向かうことが
名称の由来であるが 酒井家当主は代々四品(しほん)の雅楽頭(うたのかみ)に叙任され
酒井忠道(ただひろ)が隠居後に主計頭(かずえのかみ) 次いで文政5年(1822)に備前守と
改称したことにより 藩は触れをもって備前の字を避け福中門とした
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外堀川と備前門橋跡
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備前門橋跡
フェンス外謎の石碑 酒井?万位?
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