2014.12.05 西国街道を歩く 高麗橋里程元標−神崎渡し

大阪高麗橋里程元標は高麗橋の東詰にあり 江戸時代の里程計算の起点とされ 京街道・西国街道
紀州街道・暗越奈良街道・熊野街道など 諸国への道程・車馬賃の計算基点となった
明治9年(1876)の道路制度公布後も引き続き里程計算の起点となり 高麗橋東南詰に
新たな元標がたてられた 現代の里程計算起点は大阪市北区梅田1丁目の梅田新道交差点と定められ
西北角に道路元標が建てられている 高麗橋は 秀吉の時代に西惣構堀として東横堀川が
開削されたのと同時に架橋され 慶長9年(1604)8月銘の擬宝珠が発掘されている
また大坂内12ヶ所ある公儀橋のひとつで 西詰には町奉行所の高札場があった
明治3年(1870)に 大阪で最初の鉄橋に架け替えられ「くろがね橋」などと通称されたが
昭和4年(1929)鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられ現在に至る
橋名の「高麗」は東詰付近に難波高麗館(なにわのこまのむろつみ)が置かれていたという説や
朝鮮国使来朝のために架橋されたという説などがある
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明治31年の測図
西国街道(大阪−尼崎) 1.大阪城 2.大阪高麗橋里程元標 3.浪華橋 4.十三の渡し
尼崎街道(大阪−尼崎) 5.肥後橋 6.田蓑橋
新淀川は 明治18年(1885)6月の大水害を受けて策定され 明治29年(1896)開削工事を開始
明治43年(1910)に竣工した
大阪市中央区東高麗橋・高麗橋里程元標から大阪市淀川区加島まで歩く
高麗橋の最寄り駅は 地下鉄堺筋線北浜駅 高麗橋東詰を出発したのは AM 8:35
梅田・十三・中津・三津屋を経て神崎大橋に到着したのは PM 13:11 その先阪神出屋敷駅まで歩く
出屋敷駅に到着したのは 午後4時を過ぎていた この日の歩行距離 24.1km
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高麗橋東詰の里程元標跡石碑
発掘された欄干擬宝珠 慶長九年甲辰八月吉日
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現在の高麗橋は 昭和4年竣工のRC造アーチ橋
高麗橋1丁目の旧街道
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道修町1丁目 小西儀助商店 明治36年(1903)建築・小西家住宅
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少彦名神社
今橋2丁目 両替商 鴻池家本宅跡

大阪市中央区道修町二丁目 少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
「道修町の神農(しんのう)さん」と呼ばれ親しまれ 毎年11月23日に大祭(神農まつり)がある
前日の宵宮にはオフィスビル街に突如として堺筋から御堂筋まで 祭り屋台街が出現する
オフィス街の商業地域であるため祭りには ほとんど子供の姿を見ない
武田薬品本社・塩野義製薬など通りに面する大小の製薬会社はシャッターを早々と閉め
その前に屋台がひしめく様は壮観である 屋台の多くは「居酒屋」風の屋台で占拠され
かろうじて祭りらしい屋台が少数存在する 道修町にオフィスを構える製薬会社の製品が笹に下げられ
翌23日は祝日なので宵宮はスーツ姿のサラリーマンやOLで遅くまで賑わい 面白くもある
江戸時代に 清やオランダからの輸入薬を一手に扱う「薬種中買仲間」が道修町に店を出したことで
日本に入ってくる輸入薬は いったん道修町に集まり 全国に流通して行くことになった
そのため現在に至るまで 武田・塩野義・田辺などの大手製薬会社を始めとする
薬品会社の本社や支店が軒を並べている 今では外資系の会社も関西を拠点とするところが多い
日本初の薬学専門学校(現在の薬科大学に相当する)が設置されたのも道修町であった
町名の由来は このあたりに「道修寺」という寺院があったからとする説
また 江戸時代初期に北山道修という薬学者がいたことに因むとする説がある
江戸時代中頃までは道修谷と呼ばれていた記録が残る
神社は 安永9年(1780)10月 薬種中買仲間の団体組織である伊勢講が
薬の安全と薬業の繁栄を願うために 京都の五條天神宮より少名彦命の分霊を 道修町にあった
仲間会所に勧請し すでに仲間会所に祀ってあった神農氏とともに祀ったことを起源としている
平成19年(2007)4月 神農祭・冬至祭が大阪市無形民俗文化財に指定された
祭神:少彦名命(すくなひこのみこと) 神農氏(しんのうし)
少彦名命は 国造りの協力神で常世(古代人が海の彼方に存在する考えていた想像上の国)から来た
渡来神である 医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つが
少彦名神社では 薬の神として健康増進 交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている
神農は古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人で 中国では“神農大帝”と尊称されており
諸人に医療と農耕の術を教えたという伝説が伝わり 医薬と農業を司る神とされる
伊勢講から始まった神社でもあるため 関西圏内より伊勢神宮のお札を求める参拝者で正月も賑わう
出社前に参拝するOLが多いことも驚きだが このオフィス街を歩いていて 歩きスマホの人が
全くいないことに再度驚かされる それほど関西人の歩行速度はダントツ的に「早い・はやい」
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北浜2丁目 街道はマンションに行く手を阻まれる
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現在の難波橋
明治9年(1876)に それまで木造橋であった浪花橋の北半分が鉄橋に架け替えられたが
明治18年(1885)の洪水で南半分の木造橋が流された 明治45年(1912)市電の
天神橋筋六丁目延伸計画で敷設反対運動が起こり 大正4年(1915)市電を通すため一筋東の堺筋に
パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考に設計された新橋が架けられ現在に至る
当初は大川橋と呼ばれたが 大正10年以降の中之島通敷設工事で浪花橋が撤去されたので
難波橋に改称された 南北の橋詰にそれぞれ阿吽のライオン像が置かれ ライオン橋とも呼ばれる
昭和50年(1975)に大改修が施され 戦時中に金属供出で失われた欄干や橋上灯が復元された
欄干や親柱には 市彰である「みおつくし」が飾られている
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浪華橋(浪花橋)
天神橋・天満橋とともに浪華三大橋と称され 寛文元年(1661)には天神橋とともに公儀橋となった
橋の長さが108間(約207m)の大型反り橋で 「浪花橋の夕涼み」は浪華百景に数えられていた
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現在の難波橋から土佐堀川の旧浪花橋あたり 右は大正7年(1918)竣工の大阪(中之島)中央公会堂
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中之島北側の堂島川 左は阪神高速環状線と中之島
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街道は再び難波橋筋を北上する
岡部薬店前・西天満3丁目の地蔵 台座に車輪付
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街道筋に旧町名由来案内の掲示板がある
老松町1丁目(現・西天満3丁目の一部) 老松町2丁目(現・西天満3丁目の一部 現西天満4丁目の一部)
源蔵町(現・西天満3丁目の一部)
老松町は、もと住吉町といったが、その名のもととなった住吉大神を祭る祠が、老松の下にあったため、
「老松」の名が有名になり、元禄4年(1691)から同14年の間に、老松町と改称した。
その範囲は、宝暦6年(1756)刊行の『大阪町鑑』に、「天満堀川樽屋橋より二丁西の丁」とあるが、
明治5年(1872)3月17日の町名分合改称のとき、この老松町を老松町3丁目、西樽屋町を老松町1丁目、
小島町を老松町2丁目として、老松町1〜3丁目が成立した。
源蔵町という町名の由来は明らかでないが、大坂三郷には居住者の人名によった町名が多く、この町も
「源蔵」という居住者名に由来するものと思われる。老松町と同じく大阪でも古い町の一つで、
『大阪町鑑』には、「天まほり川天神小橋西詰より、なにハばし筋迄」と記されている。
この町は明治5年3月の町名分合改称のときも、そのまま旧町名を継承し、町域の変更もなかった。

伊勢町・富田町(現・西天満3丁目の一部、西天満5丁目の一部)木幡町(現・西天満3−5丁目の一部)
伊勢町という町名のおこりは、弘仁12年(821)2月、源融が伊勢神宮の分霊を曾根崎洲に勧請して
神明社を創建したことにちなんで、神明社地に近いこの地につけられたと伝える。
その時期は未詳であるが、元禄16年(1703)の地図には、すでに記載されている。
この町名は明治5年(1872)3月17日の町名分合改称のときも、そのまま継承された。
富田町もまた大坂では古い町の一つで明暦3年(1657)の『新板大坂之図』に「とんた丁」と見えるが、
後に2町に分かれ、宝暦6年(1756)刊行の『大阪町鑑』以降の諸書や地図では、南富田町、
北富田町となっている。この両町を合わせて富田町の旧称に復したのは、明治5年3月17日である。
木幡町という町名も、明治5年に江戸時代以来の南木幡町と北木幡町を合併して、
新たにつけられたものである。江戸時代の南木幡町には「やかんや町」の異称があったが、
それはこの町でやかんが販売されたためで、安永6年(1777)刊行の『難波丸網目』にも、
「薬鑵屋 天満薬鑵屋町」とある。

東堀川町(現・南森町1丁目の一部、南森町2丁目の一部)
西堀川町(現・西天満3丁目の一部、西天満5丁目の一部)
東堀川町、西堀川町という町名は、明治5年(1871)につけられたものである。この地は豊臣秀吉の
大坂城下町建設により開発されたところで、慶長3年(1598)に天満堀川が開削され、川の沿岸に
町並みができて堀川町と呼ばれた。宝暦6年(1756)刊行の『大阪町鑑』には、
「堀川町・天満ほり川はし西詰・東詰」とある。この範囲は明治初年まで変わらなかったが、
明治5年3月17日の町名改正に際し、天神筋町から越後町に至る間を新たに東堀川町と名づけ、
もとの堀川に伊勢町の飛び地を加えて西堀川町とし東西二つの堀川町が成立した。
(注)昭和53年2月1日 新住居表示制度実施に伴い現町名に改称された 北区役所
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大阪市北区西天満5-4-17 堀川戎神社 OSAKA-INFOより転載
地下鉄谷町線/堺筋線「南森町」下車北西へ約250m。蛭子(ひるこ)大神を祭神とし、
「キタのえべっさん」として、ミナミの今宮戎神社とともに親しまれる堀川戎神社。
6世紀中ごろの創建と伝えられる。止美連(とみのむらじ)吉雄が、蛭子神のお告げによって
浪華堀江の芦辺で玉を拾い、これを神霊の代わりとして難波富島に祀ったのが始まりとされるが、
文和(ぶんな)年間(1352〜56)、当地に移築したそうだ。十日戎の日には
参詣客が境内に入りきらないほどの混雑を見せ「商売繁盛で、ササ持って来い!」という
景気のいい掛け声が、普段はひっそりとしている境内に響き渡る。
そのほか、摂社の「榎木神社」は一般的に“地車稲荷”と称され、
願いが叶うと地車囃子が聞こえてくるといわれており、参拝する人が多く見られる。
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堀川戎神社
読売大阪ビル横 蟠龍寺
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兎我野町と太融寺町の間を行く街道
野崎町 道路上の竜王大神と樹齢300年の銀杏
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扇町通りを渡る
綱敷天神社前
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大阪市北区神山町9-11 綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)
Wikipediaより転載
北野(喜多野、喜多埜)天神とも通称され、概ね旧西成郡北野村(キタの東半)を氏地としている。
茶屋町に当社の御旅社があり、角田町に境外社の歯神社(はじんじゃ)がある。社伝によれば、
創建は平安時代、摂州菟餓野に嵯峨天皇が行幸した縁により、皇子の源融が天皇崩御ののち、
追悼のためこの地に七堂伽藍を興し、太融寺を創建。
嵯峨天皇を祀る社として「神野太神宮」を併せて創建したという。
後に菅原道真が無実の罪で大宰府へ左遷の折、この地に着いたところ、一本の紅梅が
今を盛りと咲き匂っており、しばしこの梅を眺めるため、船の艫綱(ともづな)をたぐりよせ、
即席の座席としたことが「綱敷(つなしき)」の名の由来となるという。
この時、地元の者より「ゆりわ」なる器に団子を盛りて道真にすすめたところ、道真は大いに喜び、
今も大事な神事の折にはこの「ゆりわ」に団子を盛って供えている。
また、追従の老臣、度会春彦の孫、春茂以下六名の者を集めさせ、この地に留まるように伝えた。
道真と離れることはつらいことであるが、道真直々の言葉であればその帰りをいつまでも
この地にて待つとして、道真より白江の姓を賜り、別れた。
その後、道真は大宰府の地にて死去し、一族は、道真の愛でた紅梅の元に小祠を営み
梅塚と称して道真を祀った。正暦4年に道真の無実の罪が解かれ朝廷より正一位太政大臣を
追贈された折、この小祠と嵯峨天皇を祀る「神野太神宮」とを併せて祀るために社殿を建立。
今に至るまでその春茂の子孫、白江家は神職として綱敷天神社に奉仕している。
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堂山町と万歳町の間を行く
角田町の歯神社 綱敷天神社境外摂社
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茶屋町 街道に鶴乃・車乃・萩乃の各茶屋があった
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茶屋町 綱敷天神社御旅所
御堂筋阪急ガード下
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北区中津1丁目を左へ 池田街道とも称される
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JR梅田貨物線ガード
中津4丁目 淀川堤防
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新淀川  阪急電車鉄橋・十三大橋・新十三大橋が架かる
十三(じゅうそう)
地名の由来は 旧摂津国西成郡の南端を一条とし 北へ順次数えると十三条の場所に当たるという
条里制に基づく説 昔ここにあった淀川の渡しが 摂津国で上流から13番目であったとする説など
諸説存在し定かではない 明治11年に十三橋が架橋されるまで 淀川の支流・中津川に
南岸の成小路村と北岸の堀村を結ぶ十三の渡しが設置され 南岸にあった成小路村の小字であった
十三(左下図丸印内)は 西国へ向かう旅人で賑わい茶屋や旅籠が軒を連ねていた
十三の焼餅「十三焼」で有名な今里屋久兵衛は 享保12年(1727)に渡しの北詰め堀村で創業し
現在も親しまれている 今でも 中にあんこが入った白餅とよもぎ餅の二種類が売られている
旧十三は 現在十三と呼ばれる地域よりもやや南に位置し 今は淀川の川中になってしまった
成小路村は 明治22年(1889)に中津川南岸にあたる他の村と合併して西成郡中津村となった
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明治31年(1898)の測量地図と旧十三の町並み
明治31年(1898)新淀川の開削工事が開始され 十三を含め中津村区域の多くが 新淀川の中に消えた
園稱寺境内に中津村旧址記念碑が残されている
明治43年(1910)新淀川堤防北岸に箕面有馬電気軌道(現・阪急宝塚線)の十三駅が設置され
十三の名称は駅名として復活した 大正14年(1925)中津町と神津町が大阪市東淀川区に編入され
これを機に 十三東之町・十三西之町・十三南之町が制定された
その後の変遷により現在は 十三本町・十三東・十三元今里の三区画になる
街道は 中津4丁目の新淀川南堤防からファミリーマート十三元今里店前まで ほぼ消失している
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園稱寺境内の中津村旧址記念碑
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十三大橋  昭和7年(1932)1月竣工 新淀川に架かる橋では二代目となる
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十三渡し跡の碑 旧淀川左岸の場所
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新淀川左岸 大正9年(1920)の道標
十三本町 街道は十三バイパスとなった
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元今里3丁目の十三筋歩道橋 蛇行していた街道は道路で消滅
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今里の北向地蔵尊
淀川区田川北1丁目 街道はファミマから北へ
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長楽寺への道標 淀川区田川北1丁目
三津屋南2丁目
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三津屋南3丁目 三吉大明神
三津屋中町 地蔵のある辻
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三津屋中2丁目 中西会館前の地蔵尊
三津屋北3丁目 三津屋霊園
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三津屋北3丁目 十三筋に合流
加島2丁目 福山製紙(株)西側
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淀川区加島 阪神高速ガード下 香具波志(かぐはし)神社鳥居と街道(右)
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街道側正面参道 香具波志神社鳥居
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神社石碑と国道26号線の碑
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淀川区加島4丁目 富光寺前
國道第二十六號路線 距高麗橋元標 貳里

国道第26号路線
明治9年(1876)太政官通達によって 京都を起点に大阪を経ずに山崎道で西宮を通り山陽地方を抜けて
九州へ至る街道を一等国道と指定した 明治18年(1885)内務省告示の「國道表」により
東京より神戸港に達する路線の国道3号 東京より長崎港に達する路線の国道4号に指定されたが
いずれも経路も大阪を通らず 大阪市から兵庫県西宮に至る区間は
大坂府と広島鎮台とを結ぶ路線として国道26号に指定された
大正9年(1920)4月1日に 新たな道路法に基づく「路線認定」が施行され
東京市より鹿児島県庁所在地に達する路線(甲)として国道2号に指定され
初めて大阪経由となる現在の国道1号・2号・3号に相当する路線が誕生し 国道26号線は廃止された
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高野真言宗 孝徳天皇勅願所 長慶山 富光寺
寺伝による創立は大化年間(645年 - 650年)とされ  大化5年(649)に孝徳天皇の病気平癒が祈祷され
寺領と勅願を下賜された 建永2年(1207)法然上人が土佐に配流される途中寺に泊まり
その夜神崎の遊女に念仏の法話を聞かせたと伝えられる また香具波志神社に参詣した北条時頼が
大梵鐘を寄進し 延元元年(1336)には足利尊氏を追う楠木正成が神崎橋上から富光寺の本尊に
戦勝祈願したといわれている 戦国時代には阿波の三好長慶が願掛本陣にしており 山号はこれに因む
後に豊臣秀吉も朱印地を寄進している古刹で 江戸時代の慶長年間に実印が再興し今に至る
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神崎川南岸 川は浚渫されて水面幅は明治初期の4倍程ある 川を渡れば有馬道との追分神崎宿である
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