2016.03.16 西国街道を歩く 厚狭市−吉田宿

船木の逢坂から西見峠を越えて厚狭市宿を通り 旧厚狭町の大字山野井の旧街道分岐に至る西国街道は
明治9年(1876)太政官通達によって一等国道に定められ 山陽国道となり整備が進められたが
山野井から福田を経て蓮台寺のある峠を越えて吉田宿に至る道筋は 開発から遠退き
特に峠の前後は 旧街道の痕跡も無いほど荒れ果てている
山中宿・船木宿・厚狭市宿・吉田宿ともに厚狭郡に入る 厚狭郡の記載は天平時代に初見されるが
当初は「あずさ」と呼ばれていたとされ 古代律令制による荘園制度崩壊後は私領・私郡となって
南北朝時代から江戸時代の寛文4年(1664)までの間 厚東郡・厚西郡に分かれ その上一時期は
吉田郡も分立していたとされる 府中藩領の福田村と山野井村を除く54村全てが宗家長州藩の領地で 
慶安3年(1650)に長州藩では 宰判と言われる藩内の郷村をまとめた行政区を置いた
厚狭郡内では 船木と吉田それぞれに宰判勘場が設置された
明治4年(1871)廃藩置県により山口県の所管となった
厚狭市宿鴨橋西詰から吉田宿一里塚跡まで
江戸時代は 鴨橋の少し下流に水量の少ない時期だけ板橋が架けられていた
明治4年(1871)に常設の橋が架けられ 鴨神社にちなんで「鴨橋」と名付けられた
昭和2年(1927)にRC製の橋に架け替えられたが 平成22年(2010)7月 厚狭川右岸のこの地区は
川の氾濫により災害を受け 防災を図る川の拡幅と護岸工事に伴い 鴨橋の架け替え工事が行われた
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天満町 菅原神社 厚狭天満宮
鴨橋西詰の道標 2013.10.15撮影(現状:撤去)
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左 はぶ 下の関 橋を渡り左へ
右 あつ 直進すれば美祢市西厚保・東厚保
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鴨橋西詰 厚狭1丁目(天満町)
「ダイナマイト羊羹」今は製造していない

厚狭銘菓 ダイナマイト羊羹
普通の羊羹だが インパクトのある名前と包装で有名だった 日本で初めてダイナマイトを製造した
日本化薬株式会社の工場が 厚狭にあることから付けられた名前であった
現在は後継者もなく 10年あまり店も閉鎖されているが 看板だけは健在である
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当時の包装紙
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川を渡れば駅前通り商店街 明治以降の商人町である
厚狭駅は 明治33年(1900)12月 民間の山陽鉄道が三田尻駅(防府駅)から延伸し終着駅として開業
明治38年(1905)9月 同鉄道が大嶺駅までの支線(美祢線)を開業
平成11年(1999)3月 山陽新幹線の厚狭駅が開業 山陽新幹線全通の24年後である
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街道は西へ曲がる
JRと山陽新幹線に遮断された街道
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山陽小野田市大字郡広瀬一
石橋のあった石丸川を渡り石丸 東に新幹線を見る
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山陽小野田市大字山川字石丸 街道(旧山陽国道)は左へ 江戸時代の呼名は「ケハイ坂」
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大字山野井字七日町の井戸と地蔵 一里塚もこの辺り
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大字山野井の道標 左 はぶ道 右 吉田道(西国街道) 明治10年(1877)建立
この三差路を左に取れば旧談合峠越えの埴生に至る旧国道
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明治時代の山陽国道との分岐
大字山野井 はぶ道の六地蔵
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大字山野井の幸神(庚申塚)明治3年(1870)建立
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街道は 橋を渡り山野井八幡宮の南を通る
山野井八幡宮の鳥居 正徳4年(1714)建立
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山野井八幡宮拝殿
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県道227号線を横切り細道へ入る
大字山野井 西国街道の細道
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天満宮と西国街道
天神様
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祠宮と西国街道
庚申塚と西国街道
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庚申塚 猿田彦大神
新道と合流 左が旧街道
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街道は右へ 踏切から先は鉄道敷設で消滅
明治34年(1901)山陽鉄道開通
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福田八幡宮鳥居
道標と埴生道(県道232号) 吉田道は右へ
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追分地蔵と県道232号
道標 左埴生・右吉田/道
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道標と吉田道(西国街道)
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福田茶屋(右)と西国街道
旧山陽道・上方道 左.吉田へ 福田.茶屋
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路傍の祀石
この先圃場整備で消失
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昭和37年(1962)5月22日の圃場整備前の航空写真
1.道標 2.福田茶屋跡 3.切通し 4.旧街道分岐 5.庚申塚 6.蓮台寺峠
昭和50年(1975)頃まで 峠下まで棚田が続いていたが 以降は耕作が放棄され上半分は廃田となった
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下部棚田 現在の道
航空写真B 谷中部の切通し
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地蔵と街道
道路崩落・通行止
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峠の手前は廃田 旧街道の痕跡不明瞭
峠の庚申塚 街道は右から
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庚申塚
峠の切通し
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峠の廃屋
<蓮台寺>参道入口

黄檗宗 白華山 蓮台寺
寺伝によると今から約千年前、一條帝の勅使が九州筑紫に航行中、関門海峡で嵐に会い難渋した。
勅使が航海の無事を一心不乱に祈願されると突然この山の上空に白蓮の花が咲き間もなく嵐が静まった。
勅使の上奏を受けた花山法皇は、驚いてこの地を調べたところ、山上に白蓮が咲いていた。
法皇は、この白蓮こそ観世音の化身だとしてここに蓮台寺を建て、十一面観音像を安置するとともに、
この山を白華山と名付けた。
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寛延2年 花山法皇御作観音 白華山蓮台寺
上福田からの新しい峠道に合流
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吉田宿は木屋川の支流・貞恒川の扇状地にある
1.柳瀬の庚申塚 2.吉田宿高札場跡 3.吉田宰判勘場・御茶屋跡 4.一里塚跡 5.木屋川渡し場跡
吉田町の歴史と観光(掲示板)
吉田は 山陽道の始点赤間関の次の本宿に当たり 大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として栄えた
この町は赤間関から厚狭・船木を経て山口に至る山陽道本街道の所謂「かみがた道」と
赤間関長府方面より藩都萩へ通ずる萩街道の分岐点に当たるため
萩本藩は吉田宰判と称する郡役所にも比すべき役所を置いて厚狭郡一帯の政治経済の運営にあたらせた
その当時の町の繁栄ぶりを示す上水道の名残が今でも街の両側に清冽な水を走らせている
また 街道に榎を植えて里程の目安とした一里塚もこの附近に置かれていた
幕末には 高杉晋作率いる奇兵隊も駐屯して訓練に励んだゆかりの地である
附近には東行庵・蓮台寺・常関寺・法専寺・湯谷温泉等の観光地もある
吉田の地名(吉田観光協会HPより)
明治時代に書かれた郷土史によると 葦の茂る入海という地理的条件から葦井村(または吉井村)と
呼ばれていたものが 中世(足利前期ころ)に吉田権守貞恒(よしだごんのかみさだつね)が
当地を領していたことから「吉田」と改めたと言われている
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柳瀬の庚申塚と街道
吉田三差路の道標 左萩道 右上方道
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吉田三差路 道標と正面は高札場跡
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三差路から下関側
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吉田宿の町並み
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吉田宰判勘場御茶屋跡(吉田本陣)
本陣古井戸と学校側の土塀

吉田宰判勘場御茶屋跡 (御本陣)
長州藩の領地は 十八の宰判に分けられ統治されていた 吉田宰判はそのひとつで 統治区域は
吉田・厚狭・末益・松屋・津布田・宇津井・山野井・今浦・伊衛・山中・於福・河原・大嶺の13ヶ村で
各宰判には 1名の代官が任命され 平素は萩本藩に勤務しているが 春秋冬の三季には
勘場(代官所)に出張して租税の決定 貢米の完納 土木工事の検分などの民生を統括していた
勘定方・寺社方・山方など部下役人の任命 民間の大庄屋とその部下の恵米方・算田方などの選出
勘場には五十人ほどの役人が詰め 宰判内の業務をつかさどっていた
御茶屋は勘場に隣接し 公儀の役人や参勤交代途中の大名の休泊所として利用され
幕末には奇兵隊の屯所としても使われた なお敷地内の建物は格の高い接客空間が設けられるなど
一般的な民家と異なる点が見られ 現在では宰判時代の様子が偲ばれる唯一の遺構となっている
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一里塚跡
一里塚址の碑
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