街道と宿場

古き道・古き街道に 今も息づく古き町並みを訪ねる
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昭和46年(1971)12月5日 中山道木曽路 妻籠宿の朝

五畿七道
慶応3年(1867)11月 第15代将軍徳川慶喜による大政奉還まで 日本の行政区分は
古代律令制に基づき畿内と七道に分けられていた
都に近い山城・大和・河内・和泉・摂津の5国を畿内とし「五畿」と呼ばれた
陸奥・出羽・下野・上野・信濃・飛騨・美濃・近江の八国を東山道
佐渡・越後・能登・越中・加賀・越前・若狭の一島六国を北陸道
常陸・下総・上総・安房・武蔵・相模・甲斐・伊豆・駿河・遠江・三河・尾張
および志摩・伊勢・伊賀の十五国を東海道
丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐の一島七国を山陰道
播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の七国を山陽道
紀伊・淡路・讃岐・阿波・土佐・伊予の六国を南海道
豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・対馬・壱岐の二島九国を西海道として
これを「五畿七道」と呼んだ 道名と国名は地方を表す表記として今も使われ存在している
琉球国(沖縄)及び蝦夷地(北海道)は朝廷の勢力範囲ではなく七道には含まれてはいなかった
この律令時代沿岸海路と陸路が拓かれ中世期まで続いた それを古道と呼んでいる
この道は主に貴族官僚が行き交う道であり朝廷への貢物が流通する公道や官道で
一般庶民が行き来するための道ではなく 多くの交通手段は牛馬であった
貴族官僚達は男女の区別なく馬に乗ることが出来た為 飛鳥・奈良時代の官道は 森を切り拓き
土木工事を施さない馬のための道であり 平地では大凡直線で拓かれていたため
近世までその痕跡が残されることは至ってまれである

やがて鉄器の普及による生産性の向上と人口増加を迎え開拓開墾が進み荘園が拓かれていく
地方武官や武装農民の集団はやがて武士階級へと発展し 国家統治は朝廷支配から離れ武家による
幕府政治へと変っていく 武装集団による群雄割拠の時代は戦国の世へと移り
秀吉の天下統一により中央集権制度に包括され 大名による地方自治体制いわゆる幕藩体制が始まり
徳川幕府により発展成熟していくこととなる 江戸期において近世交通体系として
江戸と地方を結ぶ海路及び陸路が整備され 街道と呼ばれる旧道はこの時代に漸く成立することとなった
街道の整備によって古道は忘れ去られ やがて野へと戻っていった
我々が街道と呼ぶのはこの近世期の道であり 「近世街道」と呼び分けても良い

明治4年(1871)の廃藩置県直前には 天領・親藩・譜代藩・外様藩合わせ310もの行政区が存在した
明治21年(1888)整理統合され3府43県となる 近代に街道は拡幅され国道・県道・里道が制定された
大正になって自動車が走り出すと国道・県道は 新なルートで付け替えられることが頻繁となる
このため昭和40年代前半まで多くの旧街道は江戸時代の面影を色濃く残しながら存在することが出来た
しかし昭和40年代後半から本格的なモータリーゼーションを迎え 地方においても再開発が進められると
急速に多くの「近世街道」と「地方の個性」が失われた 今は稀となってしまった旧街道を往くと
江戸・明治・大正・昭和が同居し 懐かしく風情のある姿を垣間見ることが出来る
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