山口県下関市小月本町 小月宿 小月は本陣のない半宿であった
小月という地名の由来には諸説あり 地形的には山の尾の裾野にあるために「尾付」と称した説や
昔 高尾山の南麓にある京泊まで船が入っていたことから 高尾着と呼ばれそれが「尾着」となった説
また江戸中期の『武久家文書』には小津木と記されており 確たる由来は未解明であるが
中世末期には「小月」と呼ばれていたと思われる 古くから山陽道の宿駅として栄え
明治以降に山陽国道が整備されると 山口県中北部の菊川・豊田・萩へつながる道の分岐点として栄えた
古律令時代は豊浦(とよら)郡に属していたが 鎌倉時代に律令制が崩壊し豊東・豊西・豊田の三郡に
分割統治されていたが 江戸時代の寛文4年(1664)に統一され再び豊浦郡となった
小月は 江戸時代初期から長州藩の支藩・府中藩の支配下に置かれ 承応2年(1653)に府中藩の支藩で
長州宗藩の孫藩となる清末藩が立藩され清末に陣屋が設けられ 小月村の一部が清末藩に分割統治された
廃藩置県後は 豊浦県と清末県になり 同年秋に山口県の管轄となった
2016.03.16 西国街道を歩く 吉田宿−小月宿
吉田宿一里塚から小月宿まで
肥田から木屋に至る西国街道は 比較的標高の高い所にあったと思われるが 木屋川堤防に新しい道が
開通し 木屋川の治水及び堤防工事によって一部が失われ 急速的に痕跡が失われた よって上記の
下肥田から小月製鋼所に至るルートは想像に過ぎない ただ堤防に開通した道ではないことは確かである
肥田から木屋に至る西国街道は 比較的標高の高い所にあったと思われるが 木屋川堤防に新しい道が
開通し 木屋川の治水及び堤防工事によって一部が失われ 急速的に痕跡が失われた よって上記の
下肥田から小月製鋼所に至るルートは想像に過ぎない ただ堤防に開通した道ではないことは確かである
吉田宿一里塚
貞恒川を渡ると吉田八幡宮御旅所 旧丸山天満宮鳥居
嘗て天満宮が存在した丸山と木屋川 この附近を徒渉したと思われる 橋は吉田大橋
肥田 現在の木屋川堤防から下る道
肥田の庚申塚
庚申塚と肥田集落
蛇行する旧街道
庚申塚と街道
独得の縄結びが目を引く庚申様
大師堂と街道
旧街道らしき道は行き止まり
春日神社鳥居 明治以降の建立
春日神社本殿
石灯籠の建立は天保九年戊戌九月吉日 西暦1838年
旧街道らしき細道
細道の先に地蔵 安永九庚子三月(1780)建立
地蔵から道は下って行く
産廃処理場裏の道 西側から山が川まで迫り出す
旧街道は小月製作所内へ
小月京泊 街道は右へ上ってゆく
小月京泊4丁目
小月西の台 左高台は小月小学校
小月小校門前 手向水 大正12年1月 大上家寄贈
下関市が建てた 小月の一里塚跡の碑も この旧国道の碑も間違っている
明治に整備された「旧山陽国道」は 下図の様になっている 旧街道と明治国道が合流するのは
浜田橋の手前 岡病院のある小月本町2丁目三差路である
明治に整備された「旧山陽国道」は 下図の様になっている 旧街道と明治国道が合流するのは
浜田橋の手前 岡病院のある小月本町2丁目三差路である
明治28年(1895)1/5万測図 舩木 小月部分拡大
旧国道(明治山陽道) @ 小月本町2丁目三差路 A 旧国道の碑
旧国道(明治山陽道) @ 小月本町2丁目三差路 A 旧国道の碑
国道491号交差点 吉田宿側
国道491号交差点 赤間関側
浜田川と浜田橋
小月本町 石州瓦の町屋と街道
<道標> 右かみがた道 左とよた道
小月の道しるべ
この道しるべは 小月が昔から交通の要衝であったことを後世に伝える唯一の重要な文化遺産である
徳川時代 小月は山陽道の半宿場であり ここから吉田を経て江戸へ向い
左は萩へ通ずる分岐点であったので この道しるべを建てたものである
この付近は旅籠のタテ場であり後には人力車のたまり場であった
昭和14年県道改修工事のため河村薫氏が一時保管 昭和49年3月本町会が
元の位置より西へ3米の歩道に移し永久に保存することにした
平成23年9月 吉日
小月ふるさとまちづくり協議会 小月本町会
小月宿町並 小月本町
観音寺参道登り口
曹洞宗 清浄山 観音寺
小月本町
見廻り通り標柱