2016.12.07 西国街道を歩く 境川−和坂(かにがさか)

現在の境川は 神戸市の須磨区と垂水区を隔てる区界であるが 明治以前は畿内の摂津国と
山陽道播磨国の国境であった  塩屋は 明治まで播磨明石郡に属す村で 鉢伏山の北麓を迂回する
古山陽道と西国街道が合流する地点にあった  古山陽道は 西須磨村の月見山から栂尾山南麓の峠を越え
多井畑村・下畑村を経て塩屋村に至る古道であったが  中世以降 鉢伏山南部の海辺に路が拓かれると
急速に廃れたが 兵庫から塩屋までの脇道として利用され続けた
摂津播磨の国境・境川から大蔵谷宿を経て和坂口まで
2016.12.06 境川−塩屋
塩屋駅附近には旧街道が少し残るが 後は朝霧川まで国道2号線のルートと重なる
断崖と浜に挟まれた隘路に国道・JR山陽本線・山陽電鉄本線がひしめいているため
街道の風情も痕跡も皆無で歩くのも辛い区間である
img
15:37 海側からJR山陽本線・国道2号線・山陽電鉄 歩道は山側にしか無くそれも狭い
imgimg
住宅街への踏切 渡れば階段
国道を離れ塩屋の町中へ
imgimg
山陽電鉄のガード下
旧街道筋の塩屋商店街
img
塩屋谷川を渡る 袂に地蔵堂
imgimg
テツコ(徹子?)の部屋 美容院だった?
塩屋若宮神社
imgimg
高台の洋館
古山陽道分岐 左:古山陽道/右:西国街道
img
塩屋の散策マップ 「歩くまち ぐるっと塩屋」(1066x1046 pix)
「塩屋」という地名は 古代 この砂浜に製塩小屋が並んでいたことから付けられたと思われる
5世紀初頭の五色塚古墳や 鉢伏山頂上部の南面にある六世紀の古墳などが築造された時代に
製塩していたと考えられている
2016.12.07 塩屋−明石
img
塩屋海岸 昔は水の綺麗な海水浴場であった
img
鉢伏山・須磨ロープウェイ山上駅とJR山陽本線・国道2号線
山陽鉄道が兵庫明石間を開通させたのは 明治21年(1888) その後明治32年(1899)に複線化
国鉄となって 昭和40年(1965)に複々線化された
山陽電気鉄道は 前身となる兵庫電気軌道が大正6年(1917)に兵庫−明石間を延伸開業した
国道は 明治18年(1885)に国道4号(東京−長崎)として旧西国街道がそのまま国道となった
大正9年(1920)に国道2号(東京−鹿児島)となり
戦後の昭和27年(1952)に一級国道2号(大阪市−門司市)に指定されている
imgimg
「滝の茶屋」古写真 (単線鉄道なので明治20年代)
山陽電鉄・滝の茶屋駅と白滝川

滝の茶屋
山陽電鉄「滝の茶屋駅」西方に滝があり 江戸時代はこの滝が直接海に落ちていたという
この滝は 船用の「真水の水場」であり 明治時代までは船の飲料用に汲まれていた
滝の傍らに茶屋があり 旅びとの多くはここで喉の渇きをいやしたと思われる
現在の水流には「白滝川」の名があり 橋は「城ヶ山橋(しろがやまばし)」という
水の滴りが絶えることがなかった流れも 今は「平尾雨水幹線」という下水路になった
img
山陽電鉄「滝の茶屋駅」西方の白滝川に架かる城ヶ山橋 たもとに地蔵が祀られる
塩屋から東垂水へ続く国道の北側に 昭和の初めまで 駒捨の滝・琵琶の滝・恩地の滝・白滝という
四か所の滝があったとされている これらの滝を元に 志貴皇子(しきのみこ)が万葉集で
「岩ばしる 垂水の上の さわらびの もえいづる春に なりにけるかも」と詠み
「垂水(滝のこと)」が 地名の由来となったと伝わる
imgimg
今も岩の間を流れ落ちる滝
平磯緑地公園
imgimg
垂水・海神社(綿津見神社)鳥居
祭神は上津・中津・底津の綿津見神三柱

海神社(わたつみじんじゃ)
明治4年から「綿津見神社」とも表記される そのまま「かいじんじゃ」とも読まれるが
古くは「あまじんじゃ・たるみじんじゃ・日向大明神・衣財田大明神」など多様である
『播磨国官幣中社海神社史』では「古例の通りアマもしくはタルミと読むべきである」としている
「タルミ」の読みは 祭神の本来の名称が垂水神であったことによるもので
「アマ」は、当社が海直(あまのあたい)の氏神であったことによる
img
播磨名所巡覧図絵 垂水神社 日向明神
現在の海神社(垂水神社)の西に 街道に沿って遊女塚と五色塚が描かれている
imgimg
浜辺の鳥居から続く参道
寶ノ海神社

海神社前を通る街道は 五色塚古墳の南辺を通過する 今は山陽本線・山陽電鉄・国道がひしめき合うが
かつては古墳の南端は渚となっており 海上からはあたかも海の上に古墳があるかのように見えていた
舞子延命地蔵まで 街道の痕跡は皆無に等しい
五色塚古墳
多くの埴輪が露出していたことから 古くは「千壺古墳」と呼ばれる国史跡の前方後円墳で
出土した埴輪は国の重要文化財に指定されている 兵庫県最大規模の古墳で 大正10年(1921)に
小壺古墳の古墳域と合わせて国の史跡に指定された 従来の古墳域は松林として保護されていたが
海岸部に山陽電鉄・国鉄が敷設され 第二次世界大戦中には松根油採取のため松が伐採され
終戦後は 食糧難解消のため畑地として開墾されるに至り その後 周辺域も宅地開発されてしまった
発掘調査と復元工事が 昭和40年(1965)12月から 昭和53年3月まで断続的に続けられ
昭和54年(1979)と平成18年(2006)に それぞれ史跡範囲の追加が行われ現在に至っている
imgimg
江戸時代の絵図では 露出している埴輪が丸で表現されている
遊女塚は 明治21年の鉄道敷設工事によって取り壊され 石造宝篋印塔は西垂水共同墓地内に移設された
江戸時代には 五色塚・遊女塚ともに西国街道の北側に面していたことが絵図でわかる
img
後円部上から前方部 明石海峡と淡路島展望
imgimg
前方部上から後円部
前方部南端から街道跡の線路を見る

舞子公園
垂水漁港から山田川の河口あたりにかけての白砂青松の浜は 古くから「舞子の浜」と呼ばれ
「須磨の浜」と並ぶ名勝で 江戸時代には多くの茶屋が建ち並び 旅人が一息入れる絶好の休憩所であった
img
播磨名所巡覧図絵 舞子濱
img
播磨名所巡覧図絵 舞子の濱より淡路島を望む
明治33年(1900年)に 初の県立公園として「舞子公園」が開設された
「鳳凰の舞うがごとき」と賞され 老松の林と海峡の風景が広がる公園であったが 戦後は台風や病害虫
また空気の汚染などにより松が弱り始め 昭和30年代後半には最悪の状況になった
この時点で松の総数は1200本程あり その内約150本が老松であった その後は松林の保護育成を図り
その成果として 昭和40年代後半から松林の回復が見え始めた しかし昭和61年から始まった
明石海峡大橋の建設とその関連工事のため 順調に育ってきた千本以上の松が移植されることになった
新しく埋立られた南側が公園となり 新たに390本の松が植えられ今に至っている
江戸時代の歌川広重画「播磨舞子の浜」では 風や強い波により砂が流され
自然に「根上り松」のような形になった美しい海岸松原の風景が描かれている
img
明治時代まであったという「根上り松」を  長期間で再生しようとする試みも始まっている
地名の由来は「明石海峡の潮が「廻い込む浜」から転訛して  舞子の字があてられた」という説が有名で
他にも「茂る松の枝ぶりが 女性の舞う姿に似ている」など諸説ある
imgimg
舞子公園
旧山陽道と神明国道 右は明治27年創業「萬亀楼」
imgimg
舞子ノ浜松原 古写真
現在の松原
img
明石海峡大橋
全長:3911m、中央支間:1991mの現在世界最長の吊り橋である
昭和63年(1988)5月着工 平成10年(1998)完成 同年4月5日に供用が開始された
公園内には 移築された「旧武藤山治邸」や「移情閣」がある
img
移情閣と明石海峡大橋
img
移情閣
神戸の華僑貿易商・呉錦堂が 明治時代に舞子海岸に建てた「松海別荘」の敷地内に
大正4年(1915)新たに建造した八角形の中国式楼閣の「移情閣」と付属棟である
松海別荘は大正2年(1913)に 中国の孫文一行が神戸を訪れた際に歓迎会の会場として使われた
このことを記念して 昭和59年(1984)に孫中山記念館として改装開設された
現存する日本最古のコンクリートブロック建造物で 国の重要文化財に指定されている
館内の壁面は復元製作された金唐革紙が貼られ 孫文の著作や遺品などの貴重な資料が展示される
「移情閣」の由来は 窓から六甲山地・瀬戸内海・淡路島・四国と移り変わる風情を楽しめることから
名づけられた また楼閣の外観が六角形にも見えることから地元では「舞子の六角堂」と呼ばれている
呉没後の昭和3年(1928)国道の拡幅に伴い松海別荘の本館は撤去されたが 移情閣は取り壊しを免れた
これは この建物が船舶航行上灯台のような目印とされる理由で 文化的価値を認めた訳ではなかった
第二次大戦中は軍の施設として使われ 戦後は呉家から神戸中華青年会に寄贈されたが
昭和40年(1965)の台風で被害を受けてからは 荒廃の一途であった
昭和58年(1983)に兵庫県に寄贈され 翌年の11月12日(孫文誕生日)に「孫中山記念館」として開館
しかし明石海峡大橋の建設によって移転を余儀なくされたが コンクリートブロック造3階建ての建造物を
移転すること自体が建築基準法違反となり 一時は取り壊しの憂き目にあった
平成5年(1993)に兵庫県の有形文化財に指定されたことから 法規上の問題は解決された
平成7年(1995)年1月の阪神・淡路大震災時は解体中のため偶然的に被害をまぬがれ
舞子公園内の現在地に 平成12年(2000)に移築され 現在は「孫文記念館」と称されている
翌 平成13年(2001)11月14日 「移情閣」の名称で国の重要文化財に指定された
旧武藤山治邸
明治40年(1907)に武藤山治が舞子に建てた木造二階建ての洋館で 設計は大熊喜邦による
円形のバルコニー・スレート葺きの屋根・下見板張りの外壁が特徴である
元は 厨房棟・和館・ビリヤード棟が併設されていた 構造材の大部分や外装材の一部は
新材で再現されているが  建具や内装の仕上げ材は当初のものが使われている上
ステンドグラス・暖炉・家具なども当時のものが残されて  明治期に於ける資産階級の
先進的な住宅形式や生活様式を覗い知ることのできる貴重な建造物である
img
明治40年(1907)頃の武藤邸 竹中工務店『承業弐拾五年記念写真帖』より
山治の死没後は鐘淵紡績株式会社に寄贈され「鐘紡舞子倶楽部」となり 福利厚生施設として利用された
平成7年(1995)明石海峡大橋建設に伴い 国道2号線拡張のため洋館のみが垂水区狩ロ台へ移築された
その後 平成19年(2007)カネボウ(株)より 兵庫県へ家具・絵画・蔵書などとともに寄贈され
舞子公園へ移築・復元した後 平成22年(2010)11月より公開されている
平成23年(2011)7月に 国の登録有形文化財として登録された
img
img
img
imgimg
imgimg
imgimg
imgimg
陸橋から明石方面
陸橋の西国街道標識
img
imgimg
国史跡 明石藩舞子台場跡(舞子砲台跡)
幕末に外国船の侵攻に備えて 文久3年(1863)に幕府の命を受けて 勝隣太郎(海舟)の指導のもと
明石藩が築造した砲台場である 対岸の淡路島にある徳島藩松帆台場(国史跡)と協力して
明石海峡を通過する外国船をはさみ撃ちにしたと考えられている
発掘調査の結果 現在の海岸護岸の石垣が当時のものであり 台場の石垣全体が埋没しているのが解った
台場の型式は稜堡式と呼ばれ 石垣の平面形がW字形となる西洋の要塞を参考にして設計されている
すべて石で積まれた例は国内では他になく たいへん貴重なものである 大きさは東西幅約70mで
現在残っている高さ約6mの石垣は下層部分にあたり 明治初めの写真資料から
もともとの高さは海岸から約10mであったと推測される 平成19年2月に国史跡として指定された
imgimg
御台場下の海岸
舞子延命地蔵尊 文政8年(1825)建立
imgimg
延命地蔵尊 別名タタキ地蔵
東橋(ひがしはし)昭和3年架橋
imgimg
橋を渡ると旧道に入る
舞子六神社 元禄2年(1689年)の創建
imgimg
江戸時代の石灯籠が並ぶ境内
西舞子一丁目 旧山陽道標識
imgimg
西舞子一丁目 地蔵堂
山田橋(山田川) 昭和3年架設
imgimg
狩口台七丁目
大蔵海岸陸橋下の旧道(左)現在は橋が無い
img
国道の朝霧橋(あさきりはし)昭和3年架設
img
img
「うだつ」のある家
うだつの鏝絵
img
大蔵八幡町
imgimg
穂蓼八幡(ほたてはちまん)神社
創建 宝永2年(1705)
imgimg
宝永乙酉二年の刻字のある水盤
大蔵八幡町の地蔵
imgimg
大蔵町
大蔵町 地蔵と虫籠窓のある家
imgimg
虫籠窓
大蔵中町の公民館「大蔵会館」と祠宮

須磨浦からこの大蔵谷まで2里半の道程は 山岳地帯と海峡に挟まれた隘路の難所が続き
交通・軍事の要衝として古より栄えた 江戸時代に入り明石城が築かれると大蔵は城下町の東端に位置し
一層栄えたと思われる 現在は市域の中心部からは大きく外れたことで 宿場の面影を残すこととなった
兵庫県明石市大蔵本町 大蔵谷宿
img
播磨名所巡覧図絵 大倉谷
<大蔵会館前の掲示板・大蔵地域約千年の史跡>
大蔵谷の地名はずいぶん古く『源平盛衰記』『増鏡』『太平記』などにも記され、
畿内と畿内以西とをつなぐ重要な役割を果たしていた。
江戸期には山陽道屈指の宿場として栄え、宝永元年(1704)には屋敷294軒、
人口1781人、本陣・旅籠61軒、馬46匹、駕仲間80人の記録があり、その繁栄は明治時代末まで続いた。
淡路を遠望する白砂青松の風光明婚な大蔵海岸の美観は、柿本人麻呂の和歌、松尾芭蕉の俳句、
永井荷風の文章に絶賛されている。街道には、大蔵院、西林寺、大蔵八幡神社、稲爪神社、
”一栄一落是春秋”菅原道真の銘詩を刻む休天神社など多くの史跡があり、
それぞれに深い千年の歴史の彩りを大蔵の地は秘めている。
img
正保元年(1644)の正保城絵図による明石城下
imgimg
 大蔵本町 稲爪神社
灯籠の刻字「天保十三壬寅四月吉日」
img
社伝による創建は推古天皇の御代 主祭神:大山祇神
寛永14年(1637)に造営された社殿は 昭和52年(1977)失火によって焼失
現在の社殿は 昭和54年(1979)に再建されたもの
imgimg
大蔵本町界隈
大蔵天神町の東湯
imgimgimg
大蔵宿西の「枡形の辻」 天文町二丁目の
西国街道の道標と 子午線通過地の標柱
左 ひょうご/大阪 道 右 か古川/ひ免ぢ 道
慶応元乙丑年(1865)

大蔵宿西の「枡形の辻」
現在の区画と違い 行程記の絵図によると下記のようになっている
辻の北東角にあった「山伏地蔵院」は廃寺となり残ってはいない 交番の敷地が街道であり
道標は現在地に移設された 残りの区画は公園となり北へ向かう人丸山への道標も今は無い
img
中国行程記 大蔵谷村部分絵図
@ 休天神 A 稲爪神社 B 円乗寺 C 大蔵院 D 百間長屋の塀 E 京口東の惣門
imgimg
大蔵交番(愛称:子午線交番)
img
明治43年(1910)建立
天文町柿本神社道標/従是人丸山三丁 明治24年
imgimg
鍛冶屋町
鍛冶屋町 城下の枡形道
imgimg
鍛冶屋町の道標 みぎひめち道/ひだり大坂道
魚の棚商店街

魚の棚商店街公式サイト:http://www.uonotana.or.jp/
地元では昔から「うおんたな」と呼ばれるこの商店街には 約400年の歴史があり 元和3年(1617)に
明石城の初代城主となる小笠原忠真(忠政)が信濃から明石へ移封され その翌年から築城を開始した
その城下町の町割りを担当したのが宮本武蔵と伝えられている 小笠原氏の代に成立したのは
鍛冶屋町・細工町・東魚町・西魚町・東本町・西本町・東樽屋町・西樽屋町・信濃町(後の中町)
材木町・明石町の11町であった その東魚町・西魚町にあたるのが現在の「魚の棚商店街」の原型である
img
明石城下町の町割りと主要な町名 @ 京口東の惣門 A 姫路口西の惣門
城に近い一等地に魚町が置かれていたことから 当時より明石では鮮魚や海産物が重視されていた
現在では 全長350mのアーケード街に明石特産の海の幸や練り製品 海産物などを扱う商店を中心に
約110店舗が建ち並んでいる 瀬戸内海・明石海峡に面し 東に大阪湾 西には播磨灘があり
この海域には 流れの速い潮流と複雑な地形に形成された多くの産卵場や育成場があり
漁場は豊かで 自然環境や天候にも恵まれ 古代から沿岸漁業の盛んな土地であった
「魚の棚」の由来は 魚商人が大きな板を軒先にずらりと並べ
鮮度を保つために並べた魚に水を流していた様子からきていると言われる
江戸時代 沿岸にある城下町には 必ずと言っていいほど「魚の棚」という名を持つ町が存在したが
今では 全国的に「魚の棚」と言えばこの明石の「魚の棚商店街」のことを指すようになった
町ができた当初の東魚町では鮮魚と練り製品の店が 西魚町では塩干ものの問屋と小売りが並んでいた
元文年間(1736〜41)には東西の魚町で鮮魚店が56軒 塩干物店が50軒あったと言われている
imgimg
魚の棚商店街
街道の本町商店街
imgimg
大観橋交差点 姫路口西の総門跡
明石川を渡り旧道(右)へ

明石川は 中国行程記では 川幅四十間余とある
img
播磨名所巡覧図絵 明石川
姫路口西の惣門と川の中央部に木橋が架けられているのが見られる
imgimg
突当りを右に道は北上する
山陽電鉄とJRのガードを潜る
imgimg
西新町一丁目の交差点を左折 街道は再び西へ
真言宗 寶珠山 十輪時(行程記では天台宗重林寺)
imgimg
明石市大道町サクラ公園 昔は大池
サクラ公園の蟹塚 昔は池の中島にあった
imgimg
蟹塚の掲示板
和坂(かにがさか)1丁目交差点
 TOP