2018.03.17 西国街道を歩く 加古川−御着(ごちゃく)

御着の歴史は古く 江戸時代の地誌『播磨鑑』には 古代の海岸線は小富士山と南山に挟まれた
現在の四郷町見野辺りまで入江が迫り その入り江に神功皇后の舟が接岸したことから名がついたとされる
神功皇后以外の説では 国分寺造営の時の聖武天皇勅使・白河法皇・花山法皇・後醍醐天皇御幸説などあり
確たる説は明らかではない 古代律令下では飾磨郡(しかまぐん)であったが 鎌倉時代後期に
飾東郡・飾西郡に分割され御着村は飾東郡に入った
御着城は 戦国時代の永正16年(1519)に赤松氏一族の小寺政隆が築城し本城としたのが始りで
姫路城には家臣の八代道慶や黒田官兵衛を城代としておいた 別名に茶臼山城や天川城がある
城内に山陽道や城下町をとり込んだ惣構えの平城だったが 天正7年(1579)羽柴秀吉に攻め落とされ
以降姫路城が本城となり御着城は廃棄された 江戸時代には御着全域が播磨姫路藩領となり
寺社除地として年貢が免除された 御着宿は 加古川宿と姫路宿の「間の宿」として機能したが
本陣も置かれるほど大きかった 本陣は 敷地約2100坪 建坪130坪 本屋の部屋数30室
その内畳敷きが26室で延べ175畳の大本陣であった
明治22年(1889)の町村施行で他2村と合併して旧御着村全域が御国野村大字御着となった
明治29年(1896)飾東郡と飾西郡が合併し飾磨郡が復活し
昭和32年(1957)御国野村が姫路市に編入され御国野町となった
加古川橋東詰から天川橋西詰まで歩く
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加古川と国道2号線加古川橋 川に突き出る構造物は復元された幕末期の渡し場
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川を渡り加古川市米田町船頭の西国街道
国道2号平津交番前信号 正面が街道
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日本毛織 ニッケ印南工場レンガ建物
加古川市米田町平津
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加古川市米田町平津の妙見宮
妙見宮神殿
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妙見宮の屋根
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加古川市米田町平津の旧家
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県道43号高砂北条線山陽本線跨線橋
JR宝殿駅から見る石の宝殿

石の宝殿(いしのほうでん)
兵庫県高砂市宝殿山山腹にある生石(おうしこ)神社の御神体として祀られる人工の巨石で
鎮の石室(しずのいわや) 天の浮石(あめのうきいし)または単に浮石とも呼ばれ
その大きさは 幅6.4m 高さ5.7m 奥行き7.2m あり 推定重量は500トン超とされる
銘石の「竜山石」として知られる凝灰岩によって形成された岩山の中腹を削り残して作られ
三方は同様の岩盤に囲まれている 下部の岩盤は大きく窪んで池の様になっている 社伝によれば
この池は旱魃時にも枯れず 水位は海の潮位と連動すると伝わる
「浮石」の由来は わずかに岩盤と繋がる底部中央が死角となって 巨石が池の上に浮かんでいるように
見えるためである 学術的には 製作者及びその目的について現在においても謎のままであるが
『播州石宝殿略縁起』によれば 「神代の昔 大穴牟遅と少毘古那が国土経営のため出雲からこの地に至り
石の宮殿を造営しようとして一夜のうちに二丈六尺の石の宝殿を作ったが 当地の阿賀の神の反乱を受け
それを鎮圧する間に夜が明けてしまい 宮殿は横倒しのまま起こすことができなかった
二神は 宮殿が未完成でもここに鎮まり国土を守ることを誓った」とあり
他に 南北朝時代の『峯相記』では 「天人が石で社を作ろうとしたが、夜明けまでに押し起こすことが
できずに帰っていった」とある また8世紀初頭の『播磨國風土記』の印南郡大國里條にある記述には
「原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。
傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり。」とあるが
聖徳の王は聖徳太子 弓削の大連は物部守屋と考えられ 日本書紀によれば 太子の摂政時代には
物部守屋はすでに存在しておらず この記述は矛盾をはらんでいるとされている
江戸時代末にシーボルトが訪れ 詳細な3枚のスケッチを残しており
著書『NIPPON』の第一冊目に収録されている
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シーボルトによるスケッチ図
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道標の立つ宝殿駅前
いしのほうでん/左 石寶殿/コレヨリ十三丁
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生石(おうしこ)神社に一直線で向かう参道
山陽本線一の坪踏切 向こうに続く街道
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高砂市神爪(かづめ)2丁目
高砂市神爪5丁目1番地の祠宮
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高砂市神爪5丁目 生石神社「一の鳥居」 参道のない鳥居で遥拝所を兼ねていると思われる
この鳥居は延宝8年(1680)に 庄屋の神吉久太夫が奉納したもので その由来は 久太夫が城崎温泉で
姫路藩主に出会った時 酒に酔って無礼な口をきいたことから殿様の怒りをかい一家断絶の危機に陥った
酔いがさめた久太夫はすぐに村へ帰り 氏神の生石神社に参詣祈願してこの難を免れることができた
久太夫は 生石の神に感謝の意を表すため 西国道沿いのこの地に鳥居を建てたといわれている
また 鳥居の隣には 山片蟠桃(やまがたばんとう)が結婚を記念して贈ったものといわれる燈篭がある
山片蟠桃は江戸後期の町人学者で通称は升屋小右衛門 播磨神爪村の長谷川小兵衛の次男として生まれる
13歳で大阪の伯父久兵衛の養子となる 幼少から大阪の両替商升屋に奉公し24歳の若さで番頭となり
経営を立て直し桝屋を繁盛させた また 奥州仙台藩の財政立直しに手腕を発揮し名声を博した
儒学を中井竹山・履軒に 天文学を麻田剛立に学び また蘭学も修めた 文政4年(1821)享年74才で死没
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神爪5丁目の道標 是より石能ほう(でん)
側面に牛馬無(用)
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山片蟠桃幼時 父と酒屋を営んでいた家跡
高砂市神爪5丁目12番地
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浄土真宗 平等山 覚正寺
今も残る 水路に降りる石階段
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高砂市神爪5丁目15番地「神爪の五輪さん」と「三仏」
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魚橋東地蔵 大正5年6月 左/志方/法花山/清水
法華山谷川の魚橋(親柱は魚川橋)を渡る
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高砂市阿弥陀町魚橋 山所(やまじょ)の地蔵
高砂市阿弥陀町魚橋(うおはし)
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樹間に透けて見える八坂神社の土塀と参道入口
高砂市阿弥陀町出身の童謡作曲家「佐々木すぐる」に因み「青い鳥・童謡通り」と名付けられている
佐々木すぐる(佐々木英)は 明治25年(1892)年4月6日に兵庫県印南郡阿弥陀村魚橋で生まれた
元士族の父親が郡役所に勤務する家庭に育ち 幼い頃音楽に興味を抱くが 家庭が貧しかったことから
音楽学校ではなく姫路師範学校へと進学する 在学中はボイラー技士として働きながら勉学に励んだ
卒業後しばらくは郷里の小学校で教鞭をとるが 音楽への憧憬立ち難く東京音楽学校師範科に入学した
卒業後は 浜松師範学校で教員として働く傍ら「青い鳥」や「じゃんけんぽん」などの童謡を発表
大正11年(1922)に退職して上京 作曲活動に専念し生涯で約二千曲にもおよぶ童謡や校歌を作曲し
中でも「月の沙漠」や「お山の杉の子」が有名である 昭和41年(1966)1月13日没
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登録有形文化財の旧魚橋郵便局
西隣の土田家住宅
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明治43年(1910)建築 寄棟造り・下見板張りの和洋折衷の木造局舎
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童謡作曲家「佐々木すぐる」生家跡 正蓮寺
魚橋の道標

魚橋(うおはし)の道標
地蔵型で背面に「大正十二年正月」とあり比較的新しい いつも布が掛けられ通常は道標文字は見えない
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正面:右 姫路 時光寺 左 曽根ノ松 右面:左 石之寶殿 左面:右 法花山 背面:大正十二年正月
法花山は 現:加西市坂本町にある「天台宗 法華山 一乗寺」のことで 西国三十三ヶ所の第26番札所
当所から北へ約2里半の距離 本尊は聖観音菩薩である
寺伝では孝徳天皇の勅願で650年に創建、開基(創立者)は法道仙人とされる
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播磨名所巡覧図絵 法華山
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佐々木すぐるの父が勤めていた旧印南郡役所跡
印南郡役所の古写真
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(旧)印南郡魚橋警察署跡
魚橋西交差点 国道を横切る
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右:国道2号線 左:西国街道
高砂市阿弥陀町北池
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鹿島川と地蔵 背後は鹿島歩道橋
鹿島川
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高砂市阿弥陀町阿弥陀 街道北側の地蔵堂
高砂市阿弥陀町阿弥陀 街道南側の天一神社
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「むくの森憩いの家」裏の白森稲荷神社
弥陀町阿弥陀 薬師堂
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高砂市阿弥陀町阿弥陀
阿弥陀の鹿嶋神社参道分岐 右角に道標があった
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教育センターの道標 鹿しま道/か志ま道
鹿嶋神社参道分岐 元の道標位置表示
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明治天皇御遺跡 地蔵院 西国行幸の際小休止した
阿弥陀堂の中所公民館
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浄土宗 不断寺
街道から見る下台公民館と大日寺境内の五輪塔

高砂市指定文化財 大日寺 石造五輪塔・石仏
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真言宗 岩尾山 大日寺は 嘗ては播磨国分寺の東院であったが 戦火で焼け
後に真言宗寺院として再興され時光寺の末寺となったが 平成21年不審火により焼失した
阿弥陀村の由来
元は北原村と称していたが 文永10年(1273)に日笠の海中より阿弥陀如来像を得てこの地に時光寺を
建立し安置した これに依り北原を改め阿弥陀と称することとなった
五輪塔は 南北朝時代の暦応5年(1342)のもので 一結衆(信仰者共同)が建立した供養塔である
伝説では 播磨を拠点とした南朝側武将の児島範長の墓ともいわれている
石仏は 室町時代後期の永正4年(1507)に 一結衆が建立したもので 阿彌陀佛立像が彫られており
背面には石材を加工した際の矢穴跡が残っている 五輪塔と石仏ともに竜山石で作られている
なみだ池
大日寺の背後にある大日池を 別名「なみだ池」という その由来は この地を東に廻れば
姫路の城が山陰に隠れて見えなくなるをもって 名残を惜しんで言われた名前とされる
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高砂市阿弥陀一丁目山陽本線跨線橋下の移設された道標
JR曽根駅のあるこの辺りは 明石市西新町3丁目で分岐し西国街道と並行しながら 山陽電鉄に沿って
明石郡の林崎松江海岸・八木・魚住・加古郡の播磨町・別府・尾上・高砂・印南郡曽根を通り
再び西国街道と合流する浜街道西側の分岐点で 西向きに5基の道標が岩の上に並んでいた
しかし 昭和45年(1970)に始まった姫路バイパス高砂西ランプの工事に伴い 国道2号線の豆崎東と
姫路バイパスを結ぶ跨線橋の建設に伴い現地に移設された 道標に刻まれた高砂十輪寺は南南東6kmの
高砂町横町にあり 同じく時光寺は南東550mの高砂市時光寺町にあって ともに播磨名所巡覧図絵に
掲載される古刹である また 曽根の松は曽根天満宮の境内にあり 菅原道真が手植えしたと伝えられ
霊松「曽根の松」と称された 初代の松は寛政10年(1798)に枯死し 天明年間(1781-1789)に
曽根の松から実生した二代目の松は 大正13年(1924)に国の天然記念物に指定されたが
昭和27年(1952)に同じく枯死し 現在の松は五代目の「曽根の松」である
前列右から ●右面:明和二乙酉年十二月(1765)正面:右高砂十輪寺道 左面:圓光大師二十五霊場
●正面:右時光寺道 ●正面:左 おうくわん(往還) 左面:ごちゃくへ□り/かこ川へ□り/廿三丁
●正面:右曽祢之松道 左面:左 そ年能末月(?)み(?)ち(曽根の松)
奥の小さい道標 ●正面:是・・・道(解読ほぼ不能)
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右に地蔵堂
大日池(なみだ池)
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阿弥陀一丁目豆崎交差点下の西国街道
豆崎陸橋上から 左から右へ国道を横切る
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再び阿弥陀町阿弥陀
高御位山(たかみくらやま)登山口

高御位山(たかみくらやま)
兵庫県加古川市と高砂市の市境に位置する標高304.2mの低山 別名に播磨富士がある
播磨平野の加古川下流域では高い山が少なく 東播磨丘陵地の高御位山系の連峰は播磨アルプスと呼ばれ
高御位山が加古川・高砂市域の最高峰となっている 頂上には 磐座を御神体とした高御位神社があり
高御位の名前も 神座・磐座から転じたものと考えられている
神社由緒による創立は欽明天皇10年(549)とされ 現在の神殿は昭和58年12月に再建されたものである
祭神は 大己貴命(おおなむちのみこと=大国主)と少彦名命(すくなひこなのみこと)で
天津神の命を受け 国造りのために大己貴命と少彦名命が降臨した所とされている
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播磨名所巡覧図絵 高御位山
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古井戸 豆崎の旧名は「真水崎」という名水の地
高砂市阿弥陀町阿弥陀
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高砂市阿弥陀町阿弥陀 地蔵堂
姫路市別所町に入り播州倉庫の建物に遮られる
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姫路市別所町北宿 播州倉庫前の佐突駅家跡の碑
播州倉庫の西 再び街道
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姫路市別所町北宿
姫路市別所町北宿 微妙に曲がりくねった街道路
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街道の北側に六騎塚(六騎武者の塚)
南北朝時代の延元元年(1336) 児島高徳の父範長主従六人の自害を弔い建立したと伝えられる
亀趺(きふ)とよばれる亀形の台上に碑が建てられており、正面に「備後守児嶋君墓」
裏に「嘉永三庚戊年五月十九日左和田清左衛門範一建之」と刻字されている
『太平記』巻十六によれば 延元元年 足利尊氏が大軍を率いて九州から東上して<るのを
備後守範長が迎え撃ったが 戦いに敗れ 最後に主従六騎となり 阿弥陀村の辻堂で自害したとされる
江戸時代中期以降の国学及び尊王思想の広がりに触発され建立されたものである
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播磨名所巡覧図絵 六騎武者の塚
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大池と播磨アルプス
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???コレクション
姫路市別所町別所 地蔵
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地蔵前の街道
別所公民館前の別所村道路元標
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日吉神社 明治以前は神仏習合の山王宮(権現社)
別所 白壁の屋敷が並ぶ街道筋
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姫路市別所町別所 曹洞宗 西來山 安養寺
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別所西地区の「塞の神」(道祖神)
浄土真宗 宝量寺
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弁慶地蔵
国道2号線別所口西交差点

弁慶地蔵 別名泡子地蔵
凝灰岩質の板石に地蔵坐像を刻したもので 「天文二十二年(1535 )乙未八月廿六日」の銘がある
元は佐土との境にある川の辺りに埋まっていたのを 今の場所に移したもので かつては子宝地蔵として
参拝者で賑わったと伝わる 武蔵坊弁慶の母は福居村(別所)の生まれで 山廼井といい
父は熊野神社別当であったという 書写山に預けられた弁慶が 京からの帰途 福居村庄屋の娘玉苗と
一夜を共にしたのが、この地蔵堂であると伝えられている
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姫路市別所町佐土一丁目で街道は消滅 
播但連絡道(高架)西に出現する街道
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姫路市別所町佐土
別所町佐土 佐土の地蔵堂
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姫路市別所町佐土 旧家の並ぶ街道筋
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佐土の塞の神(東)
佐土の塞の神(西)
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旧飾磨・印南郡境(この辺りが御着城門跡)
御着の氏神 大歳神社
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姫路市御国野町御着
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路地の祠宮
都市景観重要建築物小原家住宅の前
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御着宿本陣跡 御着公会堂
浄土真宗 金剛山 徳證寺 元国分尼寺の金剛尼寺
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徳證寺前の旧山陽道標識
天川橋(あまかわばし)東詰 高札場跡
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