長崎街道

慶長8年(1603)徳川家康の征夷大将軍着任により江戸幕府が開かれると 江戸を中心とする交通体系の整備が
進められ 東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道と脇往還が定められた
これらの道筋は全て 幕府・道中奉行の管理下に置かれ宿駅と関所が設けられた
主な脇往還には 佐屋街道・仙台松前道・羽州街道・北国街道・山陰道・西国街道・大阪街道などがあり
九州では 外国との開港地であった長崎へ通じる街道を脇街道として定め 起点を小倉城の常盤橋とした
九州では唯一の脇往還となり長崎街道と呼ばれた 慶長17年(1612)には 冷水峠を拓き道程が短縮され
同時に筑前六宿が成立している 大里宿は 慶長5年(1600)に小倉城主となった細川家が
馬関海峡を渡るのに短距離で潮の都合のよい大里を選び ここに宿駅を設置したのが始まりで
 寛政11年(1799)に長崎奉行所が大里宿に番所を開設して以来 大里往還も長崎街道として
管理されるようになり 幕末まで大里宿が長崎街道の起点として認知されていた
寛永12年(1635)に三代将軍家光が『武家諸法度』を改定し 参勤交代が諸大名の義務となってから後は
九州の諸大名はこの街道を参勤に利用するようになった 
但し 寛永9年(1632)に小倉城主となった小笠原家は譜代の大名で 小倉城下から大阪まで瀬戸内を通る
船旅が許されており 大里から下関へと渡るのは外様大名達であった
禁教令による鎖国体制の確立と長崎
慶長17年(1612)3月 江戸幕府は江戸・京都・駿府を始めとする幕府直轄地に於ける禁教令を布告し
キリスト教会の破壊と布教の禁止を命じた 翌慶長18年2月(1613)禁教令を全国に布告し
合わせてバテレン追放令を公布してキリシタン禁制を強めた 元和2年(1616)第二代将軍徳川秀忠は
諸外国との交易を長崎・平戸に制限する「二港制限令」を発布 日本人の渡航及び海外からの帰国を禁止し
宣教師の入国を阻止した 海外との交易は幕府直轄の事業とする一方 各藩へは諸外国との交易を禁止した
九州・松浦藩の対朝鮮・蝦夷地・松前藩の対アイヌの交易は 小規模な交流とみなされ目こぼしされていた
但し 薩摩藩の琉球国を通じて行われた中国との交易は 幕府にとっては密貿易であった
秀忠は 元和5年(1619年)に改めて禁教令を発布し 三代将軍家光の時代に
後世において鎖国と言われる貿易制限の諸制度を完成させた
その後 幕府との交易国もオランダ・中国・朝鮮に限定され 寛永18年(1641)平戸のオランダ商館が
長崎出島へ移転し 平戸に於ける海外貿易も終焉を迎え 幕府は外国人を長崎の出島に閉じ込めた
これによって長崎湊が唯一の海外貿易港となって 長崎街道の重要性が一段と増した
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長崎出島絵図
図面の年代は天明(1781-88)以降 寛政10年(1798)の大火による「カピタン部屋」焼失以前と推定

長崎 街道は九州諸大名の参勤の他 長崎奉行や西国筋郡代の赴任 オランダ商館長や中国使節の江戸参府や
交易・献上品の運搬にも用いられた 江戸時代に著された『象志』によれば
八代将軍吉宗に献上するため二頭の象をベトナムから運んできたと『象の旅長崎から江戸へ』に記されている
しかし二頭の内 メスの象が亡くなり 残るオスの象がはるばる歩いて江戸まで旅をした
 長崎奉行所の役人やベトナム人の象使いなど14人に守られた象は享保14(1729)年3月13日に長崎を出立し
長崎街道を歩いて3月24日に小倉に着いた 小倉藩主小笠原他忠基も見物したと
『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』に書かれている 象は翌25日に大里から船に乗り 関門海峡を渡った
下関から約2カ月半かけて江戸まで旅した象は 道中もの珍しく絵図にも書かれるほど人気者となった
象は日本に来て14年間生きていたとする他 数年でなくなったという説もある
幕末期には 勝海舟や坂本龍馬も行き来し 海外文化に触れることが出来る唯一の道筋であった
また 貴重な砂糖が南蛮船によって陸揚げされ 長崎街道の沿道地域に大量に流入した結果 経済発展に伴い
菓子文化が発達した この地域には「丸ぼうろ」「カステラ」「鶏卵素麺」といった南蛮菓子が今も残る
佐賀県小城・福岡県飯塚といった菓子製造業が盛んな地域や 伝統行事に砂糖をふんだんに使う地域が今も多い
この事から 長崎街道は『砂糖の道』『シュガーロード』とも呼ばれている
道筋
この 街道筋は 九州の玄関口小倉城下と長崎をできるだけ最短距離で結ぶため直線状に整備された
その為 小倉から飯塚に至る遠賀川沿い及び佐賀平野などは平坦であるが 概ね道程は険しく
最大の難所が冷水峠であった その他 最後の難所である日見峠・佐賀長崎の境である俵坂峠
福岡佐賀の境・三国峠などの難所も多かった 江戸時代の初期は 北方の先で六角川に沿って南へと折れ
鳴瀬宿から塩田宿に至り その後 塩田川沿いを遡り嬉野へと向かう塩田道が本道であった
しかし 塩田川の氾濫により たびたび通行が不可能となる為
宝永2年(1705)六角川支流の武雄川沿いに北方宿と温泉(武雄温泉)として賑わっていた塚崎を経由し
塚崎から南へ折れて平原峠を越え六角川沿いに嬉野へと至る塚崎道が作られ これが長崎街道の本筋となった
なお 薩摩街道は山家宿を過ぎ「二の追分」から日田往還を東進した「石櫃の追分」が起点となっている
明治以降
明治18年(1885)長崎街道は国道4号となり「東京より長崎港に達する路線」となった
大正9年(1920)には 福岡市を経由して東京市より鹿児島県庁所在地に達する路線・国道2号の鳥栖から分岐し
東京市より長崎県庁所在地に達する路線・国道25号となり 黒崎から原田までの冷水越区間は国道から外された
昭和27年(1952)に旧国道2号が一級国道3号となり 旧国道25号が一級国道34号に指定された
黒崎から原田までの区間は昭和28年(1953)に 二級国道200号八幡鳥栖線に指定されている

参考:Wikipedia・北九州市 HP・国土交通省九州地方整備局佐賀国道事務所 HP
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