日田街道 福岡−雑餉隈

江戸幕府の西国筋郡代々官所のある天領日田までの道は全て「日田往還」と呼んだ
豊後中津からの日田往還は「中津代官道・中津街道」 筑前福岡からの日田往還は「日田街道」
豊後大分からは「豊後街道」とも呼ばれ 武家や商人の往来・物資の輸送に使われた「幹線道路」でもある
筑前福岡城下から天領日田の永山布政所までの道程のうち 雑餉隈宿から日田の間は現在でも
ほぼ旧街道を辿ることができる貴重な区間である
明治以降の道路工事は新道建設に偏り 旧街道を大規模な拡張工事から守ったと言える
しかし現代においては 道路改良を求める住民の強い要求に押され街道は日々その姿を変えようとしている
福岡城下薬院口から雑餉隈までの「薬院道」 博多町辻堂口から雑餉隈までの「宰府道」
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三奈木黒田家文書 19世紀初めの 仮称「福岡城下町・博多・近隣古図」
九州大学附属図書館・九大コレクション https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/ 福岡城下町絵図で検索
福岡藩筆頭家老であった三奈木黒田家が文化9年(1812)に写させた城下図(原図は不明)
1.薬院町 2.天神町 3.大名町 4.荒戸町 5.唐人町 6.地形下町.西町 7.西新町 8.博多の町
A.唐津街道 B.金出道(篠栗道) C.石堂川口関所・石堂川橋 D.西門町・西門橋
福岡城
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後 戦功により黒田長政が筑前中津12万石から筑前名島へ
52万石に加増されて移封された 父の孝高(官兵衛)はすでに隠居して如水と名乗り一線から退いていた
当初は東部の名島城に入城したが 海上に突き出た山城のため城下が狭く平地も少ないため
翌慶長6年から 博多西部の警固村福崎に築城を開始した 古来からの博多は那珂川から東の地域に限定し
那珂川から西側を黒田家出身の地である備前福岡に因み福岡と改め 城も福岡城と名付けた
黒田藩は 秀吉の政策を継承して博多の自治を広く認めたため 町人による「商の博多」と
城を中心とした「政所の福岡」が機能を分担して隣接する まれに見る城下町を形成し栄え今に至っている
博多福岡の境界地となった中州は 川を挟んで西に隣接する花街の春吉と同じように歓楽街として発展した
平安時代末期から秀吉の時代まで 海外との貿易で発展してきた博多であったが
江戸時代には 黒田藩独自の海外交易を禁じられたため 海外貿易による繁栄の道は途絶えた

薬院口と聖人橋(上人橋)
福岡城の北に姪浜を経て唐津へ至る唐津街道 東の石堂口からは箱崎を経て豊前小倉に至る豊前街道
また それから分岐して篠栗を経て筑前飯塚に至る金出道があった
南の薬院口からは博多津を通らず雑餉隈へ向かう往還があったが 大橋で東と南に分かれ
東へ行けば雑餉隈で博多からの宰府道と出会い 関屋で分かれた後 日田街道を経て長崎街道や
薩摩街道に通じていた 大橋から南に進路を取れば那珂郡の岩門村に至り なおも進めば坂本峠を越えて
肥前佐賀の鍋島藩領へと至る近道の往還があった しかし岩門村から先は険しい山越え道であった
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薬院町拡大 1.薬院門 2.聖人橋(上人橋) 3.赤坂御門 4.上之橋御門
城内の薬院門を出た道は 紺屋町堀と肥前堀に挟まれた土橋を渡り 薬院町を通り紺屋町の角を
左に曲がり木橋の聖人橋を渡って岩門口から城下を離れる 平尾・高宮・大橋・井尻を経て
山田で宰府道と合流する 薬院門から2里16丁(9.6km)の道程である
2020.02.01 福岡城址から上人橋跡まで歩く
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下之橋御門(大手門)と潮見櫓 橋は下ノ橋で江戸時代は木橋であった
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上之橋
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二の丸(南郭)にある江戸時代の遺構 国指定重要文化財 多聞櫓
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桐木坂御門跡
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桐木坂と本丸石垣
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本丸から西側展望 大濠公園
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天守台から北側展望 中央区大手門 荒戸町・湊町・簀子町
白い繭のようなものは 舞鶴公園・福岡城跡で開催の「チームラボ 福岡城跡 光の祭 2019-2020」
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東側展望 城内家老屋敷跡 中央区大名 大名町・薬院町・紺屋町
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天守台から中央区大濠公園
元は草ヶ江と呼ばれる入江であったが 築城に際して海側の一部を埋立て 東側に那珂川へ続く肥前堀を
開削して城の外堀とした 明治になって肥前堀が埋立てられ水の循環が滞り水質の悪化を招いた
幾度となく大濠の埋立て計画が立てられたが 昭和2年(1927)一帯で開催された東亜勧業博覧会を機に
造園工事がなされ 昭和4年(1929)3月に 「県営大濠公園」として開園し現在に至っている
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二の丸 多門櫓
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天守台の石垣と礎石
小天守台
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本丸と天守台
舞鶴公園南口から上人橋跡まで「けやき通り」を歩く
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国体道路 通称:けやき通り
国体道路は 博多区の祇園町交差点から中央区大濠1丁目交差点までの約4kmの区間につけられた名称で
そのうち国道202号線は 祇園町交差点から赤坂3丁目交差点までの3.2kmの区間となっている
国道の約800mに 約100本のけやきが植えられていることで 愛称として「けやき通り」とも呼ばれる
昭和23年(1948)の福岡国体開催に際して 旧薬院川を埋め立て敷かれた道路である
江戸時代の川は薬院町を南北に二分し 林毛橋・聖人橋(上人橋)・安楽橋・音楽橋が架けられていた
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福岡市中央区大名1丁目・警固・今泉の交差点 聖人橋(上人橋)跡
上人橋の由来
江戸時代初期 警固の日蓮宗香正寺と城下の間には薬院川があり これを渡らなければ
城下には入れなかった 香正寺を開山した日延上人は囲碁に秀で 二代目藩主の黒田忠之の碁敵であった
ある日 大雨で川を渡ることが出来ず 藩主との対局を果たすことが叶わなかった
これを聞いた忠之は 上人のため薬院町通りに橋を架けさせたと伝わる 昭和23年に川が埋め立てられ
橋は無くなったが 「上人橋」と刻まれた親柱は 香正寺庭園に移設保存されている
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西小性町通り この辺りは下級武士の居住地
紺屋町通り 城内薬院門から続く道
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聖人橋を渡り南へ向かう岩門道
旧薬院川跡の国体道路

博多
博多湾は 古より那津(なのつ)・荒津・灘津・冷泉津・筑紫大津などの名で呼ばれていた
古代律令時代以降 博多津には万葉集にも読まれた筑紫館という日本最古の外交施設があった
後に同じ場所に鴻臚館が建てられ 大陸との貿易が行われるとともに 遣隋使・遣唐使の経由地となった
奈良天平時代には 住吉宮の始祖宮が創建され 806年に唐より帰朝した空海が東長寺を建立した
907年に唐が滅び遣唐使が廃止されて以降の鴻臚館は荒廃し消滅し その後は宋の商人や住吉宮・筥崎宮
寺院・荘園領主らの私的貿易の拠点となり 11世紀末には唐人街が形成されるほどの貿易都市となった
平安時代末期の応保元年(1161)平清盛が「袖の湊」を開いたが
現在の天神や博多はまだ陸地ではなく 海辺に筥崎宮・住吉宮・櫛田宮などが点在していた
博多どんたくの博多松囃子は 平重盛が下した町への恩恵に対する町民の謝意がはじまりとされ
博多祇園山笠は 臨済宗の僧・円爾が仁治2年(1241)に承天寺を開山し 疫病の流行する博多の町を
町人が担ぐ台上から 甘露水で町中を清め回ったことを起源とする ともに古い伝統的な祭りである
それに先立つ鎌倉時代初頭の建久6年(1195)に 臨済宗の僧・栄西が日本初の禅寺聖福寺を建立した
  栄西は中国から茶の木を持ち込み日本に広めたことでも知られる また饅頭や饂飩などが
承天寺の円爾により伝来したのもこの時期である 室町時代は 摂津国堺とともに町民の運営による
自治交易都市として繁栄したが 戦国時代には富の争奪戦が繰り広げられ 秀吉と島津氏の戦いでで
島津の軍勢によって焼き払われ灰燼に帰した 秀吉の九州平定後太閤町割と呼ぶ博多の復興がなされ
交易の自由や町の自治も安堵され博多は復興した
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博多津拡大図
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辻堂町・御供所町・馬場新町・祇園町など博多南東部
1.辻堂口門 2.宰府道(太宰府参詣道) 3.聖福寺 4.東長寺 5.承天寺 6.若八幡宮
美野島から博多総鎮守の櫛田宮を経て辻堂口の若八幡宮まで歩く
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AM 07:50 福岡市博多区住吉3丁目 住吉神社
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AM 07:55 福岡市博多区住吉2丁目 楽水園の博多塀
博多塀は 豊臣秀吉の太閤町割による復興の際 復興に要する日時を短縮するため秀吉が考えたとされる
戦火により焼け残った石や瓦等の瓦礫がそのまま塗りこめられ 整理と塀の築造を併せ持つ
画期的な都市再生方法であった また瓦礫を塗り込めることで補強の役目も担った この楽水園の博多塀は
歴史を物語る建造物として復元されたもので  わがまちの景観 福岡のデザイン100選に選ばれている
博多総鎮守 櫛田宮
祭神は 大幡主神・天照皇大神・素盞嗚命の三柱で 勧請に際して主祭神の大幡主神が
天照大神に仕える神であったことから 天照大神も一緒に勧請されたと伝えられている
大幡主は別名・大若子(おおわくご)命とも言い 伊勢国飯野郡櫛田村(現松阪市櫛田町)にある
櫛田宮の主祭神で 倭姫(やまとひめ)が天照大神を鎮め祀る社地を南伊勢と定めるにあたり
土地の豪族であった大若子の助力を得たことから 大若子を神国造(かみのくにのみやつこ)および
大神宮の大神主に命じたとされる 大若子亡き後 その魂を祀るため飯野に櫛田宮を創立したとされる
博多櫛田宮は かつてこの伊勢国の櫛田宮を天平宝字元年(757)に勧請したものと伝えられていたが
近年では 平安時代末期の応保元年(1161)平清盛が日宋貿易の拠点として「袖の湊」を開いたおり
清盛が統治していた肥前神埼郡の櫛田宮を勧請したという説が最有力視されている
なお神埼櫛田宮の現祭神は 須佐之男命・櫛稲田姫命・日本武命の三柱である
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AM 08:10 南門前のおたふく面 節分祭に南門・表門・北門の三ヶ所に設けられる
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豆まきの舞台
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正面参道鳥居
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正面神門のおたふく面
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三つのお面 顔が目が表情が違う
表神門
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今年の恵方は西南西
山笠の舁き棒に載る水盤 山笠のレリーフ
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拝殿には3つの鈴が並ぶ 左殿:天照皇大神・正殿:大幡主命・右殿:素戔鳴尊
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北門のおたふく
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AM 08:45 福岡市博多区御供所町 御供所通り 秀吉の太閤町割で生まれた通り
貝原益軒著『筑前國続風土記』によれば「東町流11町 御供所町 家数20軒 古昔箱崎八幡宮の
御供を調(ととの)へ奉(たてまつ)りし所なる故、御供所町といふ」とある
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古い町家と奥の堂町通り
奥の堂町通りから見る聖福寺の勅使門

臨済宗妙心寺派 安国山 聖福寺
正式な寺号は「聖福至仁禅寺」(しょうふくしぜんじ)で 鎌倉時代初頭の建久6年(1195)
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝よりこの地を下賜され 南宋より帰国した臨済宗開祖の栄西が開山創建した
日本初の禅寺・禅道場である 元久元年(1204)後鳥羽天皇の勅願寺となり 天皇より贈られた
「扶桑最初禅窟」の額が山門に掲げられている 室町末期から戦国時代にかけて再興と喪失を繰り返した
天正14年(1586)島津氏によって博多の町が焼き払われ 聖福寺も焼失したのが最後であった
翌天正15年(1587)豊臣秀吉は九州を平定しすぐさま博多の復興を命じ 後年「太閤町割」と称された
都市計画に着手した 聖福寺には 領主となった小早川隆景が寺領300石を寄進したが
寺域が方四町に狭められてしまった 天正17年(1589)に耳峰玄熊禅師が再度の復興を果たし
ほぼ現在の伽藍配置となった 文禄4年(1595)秀吉より200石 慶長5年(1600)黒田氏より200石など
の寄進が伝えられている 創建時は臨済宗の寺院として 栄西の建仁寺開山後は建仁寺派となり
江戸時代に入ってからは 藩主黒田家の命により妙心寺派となり今に至る
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勅使門と博多塀
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勅使門から続く 無染池 通津橋 山門
橋も山門も明治期の再建 山門に掲げられる「扶桑最初禅窟」の扁額は創建時のものとされる
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天正17年(1589)耳峰禅師が復興し 寛文13年(1673)に改修された仏殿
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早朝の境内
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天正17年(1589)造築の後 宝暦9年(1759)改築の鐘楼と庫裡に続く道
臨済宗大徳寺派 石城山 妙楽寺
山号の石城とは 元寇防塁に因む博多の別称であることから 元々は海に近い沖浜にあったが
天正14年の島津軍の博多焼き払いで焼失し 博多復興の太閤町割によって現在地に移されたと伝わる
この地を和菓子の「ういろう」の伝来地とする説には異論が存在する
南北朝時代の西暦1368年 中国では元が衰退してモンゴル高原に追いやられ 新たに明朝が発足した
元朝大医院の礼部院外郎に所属し医術や卜占に精通していた陳延祐は 迫害を恐れ日本の博多に逃れた
沖浜の妙楽寺に寄宿し 名前を陳外郎と代えて日本に帰化した 将軍の足利義満が京に招いたが応じず
僧となり崇福寺へ入り名も台山宗敬に改めた その後子息の大年宗奇が 足利義満の招きで上洛し
幕府近くに邸宅を与えられ 朝廷典医・外国信使接待・禁裏幕府諸制度顧問などを務める傍ら
代々家伝の霊宝丹を作り初めた 霊宝丹の効能が顕著であったため 時の帝より
「透頂香(とうちんこう)」という名を賜った この頃には家名も外郎家と呼ばれていたとされる
大年宗奇は漢方薬の他に菓子も手掛け 世間ではこれを「ういろう」と呼んだ
京の外郎家は 元禄時代まで製薬業の虎屋として続いたが その後は断絶したとされている
小田原の「ういろう」は 戦国時代の騒乱に紛れ 小田原に移り住んだ一族の一部が北条氏に献上し
小田原名物になったとされるが 小田原外郎家では外郎家四代目・祖田の子定治が永正元年(1504)に
北條早雲に招かれ小田原へやってきたとされている しかし史実としては定かではなく
京都外郎家に仕えた被官が 小田原に移り住んだと言う説もある 現在では 博多より小田原・名古屋
山口の名物という印象が強く 史実として明らかなのは 妙楽寺が菓子の「ういろう」伝来地ではなく
「ういろう」を初めて作った「京都外郎家」の祖・陳延祐の日本での初めての居住地ということになる
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妙楽寺の博多塀
ういろう伝来之地

臨済宗東福寺派 萬松山 承天寺(じょうてんじ)
鎌倉時代の仁治3年(1242)大宰少弐・武藤資頼が宋から帰国した円爾を招聘して開山創建した
建立に際し 博多在住の謝国明をはじめ宋商人達の助力を仰いだ 翌寛元元年(1243)勅願寺となった
円爾は後に上洛し 建長7年(1255)に東福寺を開山した
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勅使門の前に山笠発祥之地石碑が置かれる
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承天寺山門
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仏殿 覚皇殿
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博多山笠発祥のほか 饂飩蕎麦 御饅頭の発祥の地とされている
円爾は宋から製粉と製麺の技術を持ち帰ったため 饅頭・うどん・蕎麦などの発祥地とされている
また羊羹の製法も日本に持ち帰った 博多在住の宋商人・謝国明が大晦日に貧しい人々に
蕎麦を振る舞った事が 年越し蕎麦の始まりともされている
一番右の石碑は満田弥三右衛門之碑で 謝国明の船で円爾と共に宋に渡り 織布・朱・箔・素麺のほか
漢方薬の延寿反魂丹(麝香丸・じゃこうがん)の製法を修得し 6年後に再び円爾と共に帰国した
帰国後 織布技術のみを家伝とし他の製法は全て博多の人々に伝えた 織物は「広東織」として
工夫を加えながら家業として続けた 16世紀頃 子孫の満田彦三郎が明に渡ってさらに織物技法を修得
帰国後は 織職人の竹若伊右衛門と共に厚地の絹織物を作ったとされる それは浮線紋や柳条の模様が
浮き出た地の堅いもので 反物より帯として珍重された 彦三郎はこれを中国における博多の名である
「覇家台」を採って「覇家台織(はかたおり)」と名付けた 福岡藩主となった黒田長政が将軍家に
この織物の反物と帯を献上したことから 「献上博多」「献上織」などと呼ばれるようになった
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唐門
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方丈
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苔のきれいな庭
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承天寺境内を分断する承天寺通りと博多千年門
承天寺通りは 昭和38年(1963)の博多駅移転に伴う区画整理事業によって新たに敷設された道路で
博多駅前1丁目交差点から直線で御供所町の国体道路と結ぶため 承天寺を分断する形で通された
正式名は市道10号線だが 平成25年(2013)に福岡市によって「承天寺通り」の愛称が決められた
千年門は 平成26年(2014)かつて太宰府へ向かう「さいふ道」の辻堂口門をモデルに建設された
門の表には「博多千年」裏には「萬年正続(まんねんしょうぞく)」とあり
千年も万年も長きにわたり栄えることを祈念する言葉である
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辻堂口門跡
貝原益軒が元禄16年(1703)に献上した『筑前國続風土記』の巻之四に
「凡博多の津は、当昔(そのかみ)異賊防禦の所として、且太宰府への通路なれば、北を外面とし南を
内面として、町わりは南北を縦とし、東西を横とせり。南の方の外郭には、横二十間余りの堀の跡ありて、
瓦町の西南すみより辻の堂の東に至る。是を南方の要害の固とす。其土手今もあり。
是は其始臼杵安房守鑑続と云し人ほらせたる堀ならば、房州堀と号す。」と記されている
また明暦の頃(1655−58)に房州堀は田となったが堀の跡が残っており 西の堀も昔は瓦町から湊まで
南北に通っていたが いつしか埋もれ僅かに瓦町の裏に残っているとも記されている
「福岡城下町・博多・近隣古図」では 今の博多区祇園町6丁目(瓦町通り東)から比恵川まで続き
辻堂口より西側を古屋堀(別誌では宗也堀)としており 東側は空堀となっている
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若八幡宮 厄除け祭に並ぶ厄男厄女
昭和11年発行の地図 赤丸は若八幡宮元位置

若八幡は房州堀跡に建つ  明治22年(1889)民営の九州鉄道・博多駅が出来町公園付近に開業した後
翌明治23年に 駅付近を整備し少し北側に移転した この移転工事に伴い若八幡宮が現在地に遷座した
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水道局前交差点 御笠新橋 昭和38年に博多駅が現在地に移るまで鉄道の御笠川橋梁があった
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宰府道 御笠川左岸を東光橋まで南下する
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