2017.03.15 長崎街道脇往還 塩田道 北方から塩田

慶長8年(1603)徳川家康によって江戸幕府が開かれると 江戸を中心とした交通体系の整備が進められ
東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道と脇往還が定められた
これらの道筋は全て 幕府・道中奉行の管理下に置かれ 公認の宿駅と関所が設けられた
主な脇往還には 佐屋街道・仙台松前道・羽州街道・北国街道・山陰道・西国街道・大阪街道などがあり
九州では 外国との唯一の開港地であった長崎へ通じる街道を脇街道として定め
起点を豊前小倉城下の常盤橋とした 九州では唯一公儀が管理する脇往還となり長崎街道と呼ばれた
慶長17年(1612)には 冷水峠を拓き道程が短縮され 同時に筑前六宿が成立している
その道筋は 九州の玄関口である小倉城下と長崎をできるだけ最短距離で結ぶように直線状に整備された
その為 小倉から飯塚に至る遠賀川沿い及び佐賀平野などは平坦地であるが 概ね道程は険しく
最大の難所が冷水峠であった その他 最後の難所である長崎日見峠・佐賀と長崎の境である俵坂峠
福岡佐賀の境・三国峠などの難所も多かった 江戸時代初期は 北方の先で六角川に沿って南へと折れ
鳴瀬宿から塩田宿に至り その後 塩田川沿いを遡り嬉野へと向かう塩田道が本道であった
しかし 塩田川の氾濫により たびたび通行が不可能となることが多く
宝永2年(1705)六角川支流の武雄川沿いに北方宿と温泉(武雄温泉)として賑わっていた塚崎を経由し
塚崎から南へ折れて平原峠を越え 六角川沿いに嬉野へと至る塚崎道が造成され これが本街道となった
北方志久の追分より嬉野下宿の追分に至る旧街道は「塩田道」 また塩田から多良海道の鹿島へ至る道は
「鹿島往還」として存在し続け 現在も国道及び主要な地方道として利用されている
長崎街道脇往還 塩田道
参考:佐賀県立図書館/古地図絵図データーベース
北方志久の追分から塩田宿まで
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旧長崎街道の左へ塩田道が分岐する追分
追分観音堂(志久庵室)への石段
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嘉永4年(1851)の絵地図
北方町の追分は 長崎街道の塩田道と伊万里・平戸道(後に塚崎まで本街道となる)との分岐点となり
文化9年(1812)の伊能忠敬「測量日記」9月17日の項に 追分に丁石があったと記されている
現在 観音堂には薬師如来像が祀られている
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室町時代の永禄六地蔵塔
永禄年間(1558−1570)建立
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十三仏
喪失した追分道の合流地点
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昭和22年(1947)11月2日の空撮
1.焼米宿 2.北方駅 3.追分 4.塩田道の痕跡 5.塚崎道(長崎街道本道)
追分と塩田道は 明治時代の九州鉄道敷設工事に伴い北方駅構内の西に 新たに踏切が設けられ移された
北方駅は 明治28年(1895)5月5日に民営の九州鉄道により開業された
駅名となった北方村北方は西に2.5kmの村で 長崎街道本宿であった 焼米は間の宿である
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街道案内標識と新橋
六角川の河原
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街道案内標識の街道マップ
旧長崎街道 志久津と新橋
この地に津が出来たのは古く、地名を「佛(ほとけ)の津」と呼んでいた。
多久領主(戦国時代)の支配となってからは志久津と呼び、御船屋には二艘の領主の舟があった。
新橋架橋の記録は「御屋形日記」(多久家文書)の延享3年(1746)4月24日の条に
「今から100年前(江戸時代初期三代将軍家光の頃)、新しく橋を架け道の横に井樋を設けた」とある。
この年、医王寺の不動崎から追分に向かって新道が建設され長崎街道が完成した。
このことが追分地名の始まりとなった。元禄年間に来た*ケンペルの日記にも新しい橋を渡ったとある。
文化10年9月24日には幕府測量天文方、伊能忠敬一行が新橋芦原領分の本陣、
勝三郎方に泊まって測量をし、星測33度12分半と『地勢要覧』に記録されている。

*エンゲルベルト・ケンペル <Engelbert Kaempfer> ドイツ人の医師・博物学者で出島の三学者の一人
元禄3年(1690)オランダ商館付の医師として 約2年間出島に滞在し 元禄4年と5年に江戸参府を経験し
将軍・綱吉にも謁見した 欧州において日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる
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県道36号武雄福富線の交差点
北方町大字芦原字医王寺 旧長崎街道標示
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旧長崎街道 五拾七番止
道路から10mほど入ったところに「五拾七番止」と彫られた巨石がある この石は 医王寺の古絵図より
享保4年(1719)に 多久領と佐賀藩の御狩倉山(おかくらやま)との境に設けられた
境界石であることが判明した 「五拾七番」の意味は 57番目の境界石であることを示し
「止」は 境界の最後の測点であることを表している この周辺は駕籠立場としても利用された
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武雄市橘町大字片白 鳴瀬宿北口
鳴瀬宿中心部
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六地蔵塔と阿弥陀堂
史跡旧長崎街道鳴瀬宿跡
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地蔵菩薩像と六地蔵塔
六地蔵

長崎街道と成瀬宿について
ここは江戸時代、長崎街道の成瀬宿のあった所です。当時は駅舎(うまや)・倉庫・馬つなぎ場等があり、
役人(参勤)は歩いたり、駅馬に乗ったりして旅をしました。荷物は駅馬で運ぶことができました。
ちなみに、天保8年(1857)当時の人馬賃金は次の通りです。(かっこ内は平成22年当時の時価相当額)
◎成瀬駅〜塩田駅間「2里1丁=8.4km」
 ・本馬賃金 80文(1520円) 重さ36貫=133kgの荷物を馬で運ぶ駄賃
 ・軽尻賃金 53文(1000円) 重さ5貫=18.8kgの荷物と一人が馬に乗る駄賃
 ・人足賃金 40文(1760円) 重さ5貫の荷物を人が運ぶ賃金
◎成瀬駅〜小田宿間「2里11丁=9.1km」
 ・本馬賃金 60文(1140円) ・軽尻賃金 40文(760円) ・人足賃金 30文(570円)
また駅の西方には六角川の川湊があり、舟で肥料・日用品等を移入し、農産物や特産のカメ・
薪等を移出していました。そのため成瀬宿には、宿屋・魚屋・人カ車屋その他いろいろの
商店問屋が立ち並び、繁昌しておりました。
しかし、ここには大名や上級役人の泊まる本陣がなかったので、西岸寺が代用されました。
【付記】
「なるせ」の地名は、昔潮の満ち引きの時に瀬が鳴くと言うところから「鳴瀬」とつけられたが、
江戸時代には「成瀬」と書いてある。字画の少ない漢字を当てる風習のためであろう、
現在は「鳴瀬」と書く。
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代用本陣の浄土真宗・金峰山・西岸寺
鳴瀬宿の街道
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 街道側の鳴瀬神社鳥居
奥の肥前鳥居には「鳴瀬大権現」とある
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国道498号線と合流
450mで再び国道から別れる
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橘町大字片白
興隆寺と梅宮神社
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京都の梅宮社を勧請し 橘氏の祖神を祀る 祭神は潮見神社由緒によると
酒解神・橘奈良麿公(武雄市史では奈良麿公ではなく諸兄公となっている)・壇林皇后の三神である
鎌倉時代の嘉禎3年(1237)橘公業が長嶋荘の惣地頭として入部する時、氏神である梅宮社の分霊を
神輿に乗せ持って来たといわれている その時 神興を担いだ者たちが白丁を着て
白い鳥の羽をつけていたことから地名が肩白となり 現在の片白になったと伝わる
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片白の長崎街道標示石柱
廃業した商店が並ぶ嘗ての繁華街
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南片白公民館入り口の六地蔵塔
六地蔵
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国道と合流する手前で左折 高速道路を潜る
峠道となってくる
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なおも上りが続く
最後に農道を登り詰めて峠を越える
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峠から片白の集落を振り返る
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峠の御堂 標高28m
字立石の旧長崎街道標示石柱 標高10m
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杵島山の肩尾根・標高37mを越える
北楢崎の集落
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「伝・橘奈良麿公墓地」の旧長崎街道標示石柱と六地蔵塔
奈良麿は左大臣の橘氏初代橘諸兄の長男で 奈良時代の天平勝宝6年(757)に「奈良麿の乱」を起したと
続日本紀に記されている 多くの王子達と大伴氏・佐伯氏・多治見氏などの大豪族達が捕らえられ
処刑・領地の没収にあい没落したが 奈良麿が殺されたとは記されていてないことから
一説には配流されたのではないかと言われ 地元の言い伝えでは 奈良麿は殺された皇太子道祖王の
分霊を持ってこの地に来たとされている この乱の後は 藤原氏の全盛時代となったが 後にこれは
藤原氏四代目仲麻呂が自分達より大きな豪族の勢カを取り上げる陰謀であったと言われている
当地 楢崎の名前は奈良麿の奈良とも言われ 後方約20mのところに道祖王の墓碑があり
応永21年(1414)の文字が見える この墓地の下は旧長崎街道で 多くの人達が通ったが
乗馬の人は必ず下馬して通ったと言われている
若し 乗馬したまま通ると 目がくらみ落馬して怪我をすると 言い伝えられている
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南楢崎の六地蔵塔と旧長崎街道標示石柱
南楢崎天満宮の辻を左へ
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天神橋と橋の北詰西に天満宮 南下してきた街道は四つ辻を東に曲がる
写真は 行き過ぎた橋の南詰から北に向かって撮影 四つ辻は橋の向こう側になる
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江戸時代末期の藤津郡塩田郷絵図
1.郡界 2.地蔵・水堂道標 3.円福寺 4.塩田宿 5.札の辻 6.鹿島道追分 7.常在寺松並木 8.常在寺
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従是 南 藤津郡/北 杵島郡 明治11年発足
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郡境石(コンクリート土留壁の上に移設)
コンクリート土留壁は昭和50年以降
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地蔵堂と庚申塚
嬉野市塩田町大字久間甲
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塩田町大字久間乙 長崎街道標示石柱 R498に合流
長崎街道標示石柱と国道 左は西山地区(北向き撮影)
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志田焼の里博物館(休館日でした)
地蔵堂と石灯籠
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石灯籠 文化元年(1804)
従是水堂三十二丁(白石町水堂安福寺)
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嬉野市塩田町大字久間甲 地蔵堂と国道
円福寺の大樟

塩田宿に近づくと 白壁土蔵造の商家が増えてくる 左側は塩田町大字久間甲 右側が大字久間乙となる
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惟盛大権現社参道の三界萬霊等
牛間田新道三差路
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