道について考える

先日村の集まりで「里道」の話が出た 調べてみると里道には驚きの規程があったことが判る
明治9年(1876)の太政官布告で 道路はその重要度により 国道・県道・市町村道・里道に分類された
しかし重要な里道のみを市町村道に指定したため 指定外の里道は法律適用外の国有地のまま残された
それは小さな路地や畦道 旧街道の一部・杣道を含む山道などで
以来永きにわたり 所有者は国で管理は市町村が行うことになっていたが不明瞭な点が多かった
漸く130年を過ぎ 平成17年(2005)1月1日の時点で 道路として機能している里道については
行政効率化のため所有権が市町村に無償移譲された
驚きは 21世紀まで太政官布告が生きていたことである このようなことは珍しいことでは無い
まだまだ生き長らえた明治の亡霊が現世をさまよっている

ここで話題にしたいのは 明治の忘れ去られた亡霊ではなく 里道の道幅である
最低規格の官道であった里道の道幅は 村人によれば最低2尺(約60cm)と規定されていたらしい
さらに 左右それぞれ2尺には 工作物を設置してはならないという暗黙の了解があったらしい
これは 荷駄による輸送を考えてのことで 人・馬・牛が単独で通る幅が2尺 馬または牛に掛ける荷を
それぞれ左右2尺としたため 合わせて1間の幅を確保したのである
日本馬の祖先は 古墳時代にモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高130cm程度の
蒙古系の小型馬であった 中世以降は木曽駒のような体高160cm程度の中型馬が広く飼育されたが
どちらも身長150cm程度の日本人に見合った馬であったため
明治以降にサラブレッドやアラブ種の大型馬が 登場するまで 里道の最低幅規格は生かされていのである

ここに一枚の浮世絵 葛飾北斎の冨嶽三十六景・武州千住の図がある
山道が多い日本では 図のように馬の鞍に荷を括り付けた また駄馬を数珠繋ぎにすることもあった
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江戸幕府は徳川家安泰を最優先させ 地方大名家の発展を阻害するため交易を厳重に制限した
よって道路には利便性を求めず 人馬の通行だけを考慮したルート設定と道路設計をし
大型船舶の建造や所有も認めなかった そのため諸外国のように馬車などの発現もなかった
加えて 大井川などには橋も架けず渡し船も許さなかった
ドラマなどで大八車に荷を積み峠を押して上がる場面が時々出るが 脚色された創造場面である
宿場と宿場の間には必ずと言って良いほど峠が横たわり 荷は全て荷駄で運ぶのが基本であった
宿場毎に問屋場(馬つなぎ場)があり 常時多くの馬を準備させていた
これは律令制の古代より変わらず 宿場を駅(えき)と呼び「駅」とは「うまや」のことである
もし大八車での輸送を考えれば 交換用の車軸や車輪の携帯輸送も必要となり不合理である
荷駄の場合は故障と言うことがまずないし 予備の馬匹をつれて行くのは容易なことである
また大八車は市中での輸送を担うもので 長距離の移動には全く適していなかった
これらの事柄は 外様大名の兵力移動を防ぎ 農民の移動を禁じ 徳川家以外の海外貿易を禁じて
第二第三の信長や秀吉の出現を恐れ 安泰を強く望む徳川家の方針であったといえる

主要街道の幅員を想定してみると 例えば山陽道の道幅は2間半と定められていたことが解っている
隊列を組んだ荷駄が山中などで出くわしたときなど 馬は後退することが難しく 非常な混乱が生じ
通行に大きな支障をきたす そのため荷駄がすれ違うことが出来る道幅として
<1間×2+半間>としたのが 幅員2間半(約4.5m)の規程なのだと思われる

原則的に江戸初中期までの街道は 人馬の為の道であり 行き来するのは武士階級・商人・馬子たちで
女・子供の往来は考慮されていない 近世まで旅は困難を極め 行き倒れになることも多く
旅に出る者は水盃を交わし分かれを惜しんで出立したと云われる
峠の上下には必ず地蔵があることから 旅人が命を落とす危険が多く存在していたことも判る
現在のような治水工事が及ばない河川は度々氾濫するため 河川域を避け山襞を縫うように
街道は高い場所に付けられ また海浜も同じ理由により避けられたと思われる
現代の時代劇に度々出てくる河川の堤防上や砂浜を歩く姿は 市中を除きほぼ無きに等しいといえる
治山治水技術の発達は 江戸時代後期に漸く新道として結実していくが やはり河川海浜を避けていた

現在に至っては 旧道を確定することは非常に困難であるが為 多くの推定記事が掲載されることになる
公の街道といえども あまりの不便さから明治以降に里道に格下げされ 現在では田の畦道であったり
峠に至っては 管理放棄されて杣道や獣道と化している場合が多々ある
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