長崎街道脇往還 多良海道

多良海道の道程は 長崎街道の杵島郡山口村の新宿追分から始まり 間宿の六角宿・高町宿を通り
竜王峠を越えて 佐賀鹿島藩城下の鹿島宿を経て肥前浜宿まで約22kmの道程であった
浜宿からは 経ヶ岳山腹を標高383mの矢答峠まで登り詰め その後 海辺の多良宿まで一気に下る
肥前浜宿から多良宿までは その距離が約15kmと短いが 高低差380mの険しく寂しい道筋であった
峠にある矢答は古くから集落が形成され 間宿の役目もしていたと思われるところである
多良から湯江宿までは再度山道となり 多良岳の東部山麓 標高300から400m程度の風配高原を辿る
高原とはいえ 湯江及び多良がともに海辺の町であることを思えば高低差の大きい険しい道程であった
ともに佐賀藩支配の藤津郡(ふしつぐん)と高来郡(たかくぐん)の郡境を越えれば
標高380mの小長井町遠竹にあった山茶花茶屋に行き着く 茶屋からは長坂を下り鳥越・中古場を経て
湯江宿へと下る 標高13m程度の湯江宿からは 起伏のある内陸部・五家原岳南麓を通り
約15kmで永昌宿(諫早市永昌町)の追分に至り 大村城下から鈴田峠越えの長崎本街道と合流する
この多良街道は 非常に険しく寂しい道で 追い剥ぎや盗賊が出没し治安的にも良いとはいえなかった
天領長崎の隣藩であった佐賀藩は 福岡藩と1年交代で長崎勤番を命ぜられていたが その負担は大きく
故に 長崎への移動には 通常・佐賀から諫早まで有明海の引き潮を利用し筑後川から下る海路を使い
日程を三分の一程度に縮めていたとされる 潮目などによる非常時や藩士の少人数による移動等に限り
陸路を使ったとされている 同じように商人や一般の旅人は 険しい矢答峠や山茶花峠の山道を敬遠し
多良ではなく 佐賀から海路を竹崎にとり海辺の陸路を伝い湯江宿に向かった
多良の南にある糸岐村から破瀬浦まで 海辺に道が拓かれるのは明治を待ってからで 明治の初頃は
糸岐から山茶花越えで湯江に向かっていた 明治33年の測図に 漸く海岸通りの県道が描かれており
明治の中期まで山茶花茶屋が存在していたことが偲ばれる
脇往還の多良海道は別名「浜通り」「浜往還」「諫早街道」など多くの名称がある
また 竹崎から湯江に至る街道は「たけざき道」「竹崎街道」などと呼ばれていた
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●<白>多良海道(諫早街道)1.肥前山口新宿追分 2.六角宿 3.高町宿 4.鹿島宿(鹿島城下)
5.肥前浜宿 6.矢答 7.多良宿 8.山茶花茶屋 9.湯江宿
●<黄>塩田道 1.焼米宿 2.鳴瀬宿 3.塩田宿
●<赤>長崎本街道 1.小田宿 2.北方宿 3.塚崎宿(武雄) 4.嬉野宿 5.彼杵宿 6.松原宿
7.大村宿 8.永昌宿(諫早)
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多良海道 標高グラフ
関ケ原で勝利を収めた家康により 江戸幕府が開かれた後 江戸を中心とした交通体系の整備が進められ
東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道と その脇往還が定められた
これらの道筋は全て 幕府・道中奉行の管理下に置かれ 公認の宿駅と関所が設けられた
主な脇往還には 佐屋街道・仙台松前道・羽州街道・北国街道・山陰道・西国街道・大阪街道などがあり
九州では 外国との唯一の開港地であった長崎へ通じる街道を脇街道として定められ
豊前小倉城下の常盤橋を起点に長崎に至る長崎街道が 九州では唯一の公儀が管理する脇往還となった
慶長17年(1612)には 冷水峠を拓き道程が短縮され 同時に筑前六宿が成立している
その道筋は 九州の玄関口である小倉城下と長崎をできるだけ最短距離で結ぶように直線状に整備された
その為 小倉から飯塚に至る遠賀川沿い及び佐賀平野などは平坦地であるが 概ね道程は険しく
最大の難所が冷水峠であった その他 最後の難所である長崎日見峠・佐賀と長崎の境である俵坂峠
福岡佐賀の境・三国峠などの難所も多かった
江戸時代初期・三代将軍家光の頃に 北方から医王寺の不動崎までの新道と六角川に新橋が架けられ
初期の長崎街道が完成した 医王崎を通過し六角川に沿って南へと折れ 鳴瀬から塩田に至り
その後は 塩田川沿いを遡り嬉野へと向かうのが本道であったが
塩田川の氾濫により たびたび通行不能となることが多く 宝永2年(1705)六角川支流の武雄川沿いに
北部山麓を迂回し 北方村と当時温泉(武雄温泉)として賑わっていた塚崎を経由し
塚崎からは南へ平原峠を越え 六角川沿いに嬉野へと至る塚崎道が造成され これが本街道となった
北方志久追分より嬉野下宿追分に至る旧長崎街道は「塩田道」として また塩田から鹿島へ至る道は
「鹿島往還」として存在し続け 現在も国道及び主要な地方道として利用されている
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