出雲街道(いずもかいどう)

出雲街道は 播磨姫路青山村の追分から出雲松江城下に至る街道で 別名に出雲往来や雲州街道などがある
実際は 米子宿にて山陰道と合流するが 安来・出雲郷宿を経て松江城下に至るまでを出雲街道としている
途中の宿駅は 1.飾西(しきさい) 2.觜崎(はしさき) 3.千本 4.三日月 5.佐用 6.土居 7.勝間田
8.津山 9.坪井 10.久世(くせ) 11.勝山 12.美甘(みかも) 13.新庄 14.板井原(いたいばら)
15.根雨(ねう) 16.二部(にぶ)17.溝口 18.米子 19.安来 20.出雲郷(あだかえ)の20宿である
追分路 智頭往来
出雲街道は西国道(山陽道)現:姫路市青山1丁目12-11に立つ道標を起点として 飾西(しきさい)宿
觜崎(はしざき)宿・千本宿・三日月宿に至る 三日月宿からは佐用坂峠ではなく 林崎から梨垣内に抜ける
県道547号横坂南光線が出雲街道と思われ その県道と国道373号線が交わる横坂三叉路が 因幡国へ向かう
智頭往来の始点となり 出雲・因幡の横坂追分である 佐用坂峠には旧街道の痕跡が全くないことと
「歩低山のぶらり街道ある記」を参考にすれば  林崎より太田井橋を渡り右折300m先の三叉路を左にとって
佐用ゴルフ倶楽部の西側を越えるとあり また「国道373号線と合流するところに道標が立て掛けてある。
下に小さな石を挟んで安定させてある。何とかならないものだろうか?
正面:右 あか不 金ひら(赤穂 金毘羅) 左 ひめち いせ 道 左面:右 いなば(因幡)左 つやま(津山)
右面:弘化三丙午年 弘化3年(1847)だが、“道”の字が現在の字になっていた。」と
道標の画像も添付されている 私見であるが 千種川を渡る橋も現在の太田井橋よりも北にあったと思われる
この佐用IC南にある「横坂の追分」を南へ辿れば およそ2.3kmで出雲路佐用宿へ入り
なおも佐用宿より西へ約5kmの上月で赤穂街道との追分に至る
また「横坂の追分」から北へ3kmほど行くと 智頭往来の平福宿(佐用町)に至り
平福を過ぎれば釜坂峠・大原宿・志戸坂峠・坂根宿・駒帰宿・智頭宿・用瀬宿・河原宿を経て鳥取城下へと至る
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歌川広重 六十余州名所図会 出雲大社 ほとほとの図
出雲国
古代出雲は 青銅器を主とする西部と鉄器を主とする東部とに別れていたが 縄文時代に始まる黒耀石加工の
流れを汲む圧倒的な玉石加工や鉄や銅の金属製造技術を蓄え その産物による朝鮮半島の加耶を始めとする
海外交易によると思われる経済的優位性でもって ヤマトより早く日本海を中心とした宗教国家を形成したと
考えられている 考古学的見地からは 弥生期においては 出雲と伯耆をはじめ広く北陸地方なども
上古出雲文化圏とする説もある 記紀の1/3の記述は出雲のもので また 全国にある神社の八割に出雲系の
神が祀られており その精神的及び宗教的な影響力は絶大であったとの見解が主流である
しかし やがてヤマト王権に下ることとなり 政争の一端が国譲り神話として『日本書紀』などに記されている
国譲りの交換条件として建立されたとされる出雲大社は 今も全国からの参拝者が絶えない
律令制により出雲国は 出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造の 北島氏と千家氏が治める領域を元に
7世紀に設置された この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であった
国譲り神話は この国造家がその権威を大和朝廷から剥奪され 出雲大社神官の地位に成り下がった話である
7世紀末の藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡から 出雲評・楯縫評・大原評などが読み取られ また
『日本書紀』斉明5年(659)に「於友郡」の記載があり 意宇郡の前身としての意宇評が置かれていた
平安期に東部の意宇郡が朝廷に没収され国府が置かれた 現在 松江市大草町に出雲国府跡が公開されている
『出雲風土記』に意宇郡家や黒田駅家と同所だと記され 松江市大草町の六所神社周辺が国庁跡とされていた
発掘調査により掘建柱建物跡「大原評□磯部安□」と記された木簡などと土器・硯・分銅・瓦などが出土した
遺構は7世紀後半から9世紀にかけての変遷が認められ 7世紀後半まで溯る国庁の最古例の一つだとされている
朝廷による意宇郡の没収で 出雲国造は現在の大社町を中心とする狭い西出雲領域に押し込められた形となった
東部出雲は神域ではなく荘園守護の管轄下となり その後は 月山富田城を拠点として雲伯地方を押さえ
製鉄産業を支配した戦国大名の尼子氏を生み出すこととなる その後 尼子氏滅亡から毛利氏支配を経て
江戸期に入ると松江藩が立てられ 東部出雲は松江藩 西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなった