熊野古道と小栗街道

熊野古道とは 摂津から和泉を経て紀州の霊場・熊野三山に至る古道である
里程は約百里(約390km)あり 往復約25日を要す旅程であったと伝わる
熊野古道のルートは 時代背景の変遷により定かではない 中世期以降に街道の整備が進むと
古道は急速に機能を失い消滅した 特に大阪から堺にかけては 古道の痕跡は大半が失われ定かではない
後の中世末期に 田辺から那智勝浦を結ぶ海岸線を通る大辺路が拓かれ 古道の中辺路 高野越の小辺路
大峰奥駈け道 そして伊勢神宮経由の道を含め 全てを熊野街道と称されるようになった

大阪の街は明応5年(1496)頃から 上町台地に石山本願寺が建立され寺内町が形成されたことに始まる
天正13年(1585)には 同地に大阪城の築城が開始され城下町が形成された
堺市は鎌倉・室町期に漁村から海外貿易港となり発展した 元和元年(1615)には遣明船の入港が
記録されており 以来約150年間 大阪夏の陣で焼失するまでが最盛期である
大阪と堺は共に記録に残る皇族の熊野詣でから300年以上の時が流れ よって現在に於いて街道は
比較的生活道路として残された所や また山間部のように余り開発が進まなかった所などに
その残滓を窺い知ることはできる しかし 世界遺産指定後の熊野古道ブームによって比定を急ぐあまり
大きく逸脱したルート設定をされることも多く より謎の多い熊野古道となってしまった
特に大阪市内や堺市内は 秀吉時代以降から近代に至るまで 戦災を含むあらゆる要因が
町割のみに限らず 川や丘など自然地形も著しく変化して 古道のルートを現在の道筋に
再現することなど到底不可能な状態である

小栗街道の名は 江戸時代の元禄11年(1698)に大阪竹本座にて近松門左衛門作の義太夫浄瑠璃の演目
今様小栗判官が初演され 元文3年(1738)には 同座にて義太夫浄瑠璃小栗判官車街道が初演された
その後は歌舞伎でも上演されて「小栗判官と照手姫」をめぐる物語が庶民の間で流行し
物語の舞台となった道筋が「小栗街道」と呼ばれるようになった
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●想像できる熊野古道(白線)は下記の通りと思われる

京より淀川を舟で下り❶渡辺津に上陸後は❷窪津王子を振り出しに❸坂口王子まで台地麓を南下し 現大阪城と生玉宮のある丘の鞍部を上り峠の❹群戸王子に詣でる
生玉丘陵の西側は崖になっており上り下りは困難であった 峠を越え生玉の丘を巻くように東側を南下して❺上野王子に到着する 南に❻四天王寺の伽藍と塔が望める やがて街道は四天王寺の東を通り南大門前から南へ下っていく 西側眼下に広がる芦原と海に沈む夕日が美しかったであろう
しばらく緩やかな坂を下り❼阿部王子に到着 なおも下り道を進むと住吉宮参道との追分けとなり 道を右へとり❽住吉宮に立寄り 和歌の奉納と安全祈願をする
再び熊野道に戻り南へ歩を進め 丘を下って住吉川を渡り坂道を上り❾津守王子に詣でる 津守王子を後に台地の西麓を南下して❿境王子に到着 左に古墳を見ながら緩やかなアップダウンを繰り返し 右眼下に茅渟の海を見つつ南へと進む 和泉国内は全て紀州山脈の西山麓を古道は通る

近世の紀州街道(赤線)は大阪城大手門の西にある高麗橋を起点に上町台地西側の平地を通り 住吉大社から元禄17年に流路を替えられた大和川を公儀大和橋で渡り摂津国から和泉国に入る 堺町の大路を通り南掘で小栗街道と分かれる
小栗街道(黃線)は船尾村で古道と合流し鳳村を経て現和泉市にはいる
一方の紀州街道は岸和田城下を経て泉佐野・鶴原村で紀州街道と熊野街道とに再び分かれ 熊野街道は同・瓦屋村で再度熊野古道(小栗街道)と合流する
熊野街道は 泉佐野瓦屋村から雄ノ山峠を越え紀ノ川を渡り 矢田峠を経て海南に至る 現和歌山市内は通らず 有田・御坊を経て田辺より中辺路を通り熊野三山へと向かう これが近世以降の熊野参詣道である
大阪天満宮 大阪城 高麗橋
高津宮 生玉宮 近鉄上本町
南海難波 天王寺駅 南宗寺
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