熊野街道(小栗街道)

摂津から和泉を経て 紀州の霊場・熊野三山に至る古道が熊野街道である
里程約百里(約390km) 往復約25日を要す旅程であったと云われる
小栗街道の呼び名は 元禄11年(1698)大阪竹本座にて近松門左衛門作義太夫浄瑠璃「今様小栗判官」が初演され
後の元文3年(1738)には同座にて義太夫浄瑠璃「小栗判官車街道」が初演される その後は歌舞伎でも上演されて
小栗判官・照手姫をめぐる物語の流行から「小栗街道」と呼ばれるようになった 後年海岸線を通る大辺路が造られ
高野越の小辺路 大峰奥駈け道 そして伊勢神宮経由の道を含め熊野街道と称される熊野古道のルートは時代背景の
変遷により定かではない 中世以降に街道の整備が進むと古道は急速に機能を失い消滅する 特に大阪から堺に
かけては 古道の痕跡は大半が失われ定かではない 大阪の街は1496年頃から上町台地に石山本願寺が開かれ
寺内町が形成されたことに始まる 1585年同地に大阪城の築城が開始され城下町が形成される
堺市は鎌倉・室町期に漁村から貿易港となり発展 1615年には遣明船の入港が記録されており それより約150年間
大阪夏の陣で焼失するまでが最盛期である 大阪と堺は共に記録に残る皇族の熊野詣でから300年以上の時が流れ
よって現在に於いて街道は比較的生活道路として残された所や また山間部のように余り開発が進まなかった所など
その残滓を窺い知ることはできる しかし世界遺産指定後の熊野古道ブームによって比定を急ぐあまり
大きく逸脱したルート設定をされることも多く より謎の多い熊野古道となってしまった
特に大阪市内や堺市内は 秀吉以降から近代に至るまで戦災を含むあらゆる要因が 町割のみに限らず
川や丘など自然地形も著しく変化して 古道のルートを現在の道筋に再現することなど到底不可能である
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想像できる熊野古道ルートは下記の通りと思われる
京より淀川を舟で下り渡辺津に上陸後は窪津王子を振り出しに 坂口王子まで台地麓を南下し 現大阪城と生玉宮のある丘の鞍部を上り峠の群戸王子に詣でる 生玉丘陵の西側は崖になっており上り下りは困難であった 峠を越え生玉の丘を巻くように東側を南下して上野王子に到着する 南に四天王寺の伽藍と塔が望める やがて街道は四天王寺の東を通り南大門前から南へ下っていく 西側眼下に広がる芦原と海に沈む夕日が美しかったであろう
しばらく緩やかな坂を下り阿部王子に到着 なおも下り道を進むと住吉宮参道との追分けとなり 道を右へとり住吉宮に立寄り和歌の奉納と安全祈願をする 再び熊野道に戻り南へ歩を進め 丘を下って住吉川を渡り坂道を上り津守王子に詣でる 津守王子を後に台地の西麓を南下して境王子に到着 左に古墳を見ながら緩やかなアップダウンを繰り返し 右眼下に茅渟の海を見つつ南へと進む 和泉国内は全て紀州山脈の西山麓を古道は通る

近世紀州街道は大阪城大手門の西にある高麗橋を起点に上町台地の西側平地を通り 住吉大社から元禄17年付替えの大和川を公儀大和橋で渡る
泉州堺町の大路を通り 南掘で小栗街道と分かれる 小栗街道は船尾村で古道と合流し鳳村を経て現和泉市にはいる
紀州街道は岸和田城下を経て泉佐野・鶴原村で紀州街道と熊野街道とに再び分かれ 熊野街道は同・瓦屋村で再度熊野古道(小栗街道)と合流する
泉佐野瓦屋村から雄ノ山峠を越え紀ノ川を渡り 矢田峠を経て海南に至る 現和歌山市内は通らず 有田・御坊を経て田辺より中辺路を通り熊野三山へと向かう これが近世以降の熊野参詣道である
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