竜田越奈良街道

竜田越は 大阪から奈良に至る「奈良街道」の一つであり 暗峠越と共に古道である
飛鳥時代(593〜694)に 難波津の四天王寺と斑鳩の里・法隆寺を結ぶ街道として整備された
沿道には 蘇我馬子・聖徳太子軍と物部守屋軍の戦場となり 聖徳太子が護世四天王を彫り
「おんために寺塔を建つべし」と戦勝を祈願したことから 戦後間もなく四天王を祭る寺院として
摂津国難波の四天王寺や戦地に太子堂が建立され後に大寺となった大聖勝軍寺をはじめとする
いずれも太子に縁のある地域があり 太子自身もこの街道を往来していたと伝わる
馬での移動が当然であった当時は 四天王寺から柏原までの道筋はほぼ直線で引かれたと思われる
竜田越の名は 三室山をはじめとし大和川北岸に東西に連なる山々の総称を指す古称「龍田山」を
越えることから呼ばれるようになったとされるが この呼称は比較的新しく 平安時代の続日本紀には
奈良時代の天平勝宝8年(756)に 孝謙天皇と聖武太上天皇・光明皇太后とともに難波宮へ行幸し
河内六寺にも立ち寄ったとされており 難波から柏原市の智識寺に通ったとされる渋川道として記される
奈良時代には難波京と平城京を結ぶ街道として整備され利用されていたことがうかがわれる
また最短ルートとなる暗越奈良街道は 特に大阪側が切り立った崖地に阻まれる急峻な山越えとなるため
龍田越は 距離が長いながらも比較的坂の緩い穏やかな平坦路として重宝されていた
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地理院標高地図に旧大和川を描き足す
1.四天王寺 2.大聖勝軍寺(太子堂) 3.夏目茶屋の渡 4.亀瀬峠 5.龍田神社 6.法隆寺 7.法起寺
8.郡山城 9.大安寺 10.中街道三条 青色は旧大和川 大和川の付替えは宝永元年(1704)に完工した
かつて江戸時代の大和川付け替え以前は 旧大和川の左岸に沿って南下し 東高野街道と合流した後
河内国府付近で石川を渡り 大和川左岸の国分村を経由して 夏目茶屋付近で右岸へ大和川を渡り
徒歩で亀瀬峠を越えた 大和川の亀瀬には銚子口という滝があったため上流に上ることができなかった
大和川付け替え後は 必然的に河内国府を通らず大和川右岸を辿るルートとなった
当初は 安堂村から信貴山参詣古道を通り雁多尾畑から三室山を越えて三郷村の龍田に下ったが
その後 大和川右岸の崖地が開削され青谷を通る短縮路が作られた
明治に入り 亀瀬対岸の大和川左岸の岸壁を開削して新たなルートが開設され 国分村の北に国豊橋が
奈良県の三郷町に明治橋が架けられ県道が開通した 現在に至るまで 比較的平坦な道のため
大阪から奈良へのメインルートとなり 昭和27年(1952)12月に国道25号線に指定された
亀ノ瀬は 現在に至るまで難所として知られ 明治25年(1892)大阪鉄道が亀ノ瀬隧道を完成させ
湊町〜奈良を全通させたが その後買収された官営鉄道時代に地滑りのため崩壊し放棄された歴史がある
亀ノ瀬の地すべりでは 自然ダムが出現し奈良県川の王寺町が洪水に見舞われた
JR関西本線も この区間は不自然な形で鉄橋とトンネルで大きく左岸側に迂回していることがわかる
河内堅上駅から東へ続く線路跡は 住宅地となっていることが車窓からも見て取れる

奈良街道は 竜田川を渡り「斑鳩の里」の法隆寺・法起寺を過ぎ 小泉を経て郡山城下に入る
郡山からは大安寺を経て中街道に合流し三条通へと至る
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1.法隆寺 2.法起寺 3.郡山城 4.大安寺 5.中街道三条 6.北横大路 7.下街道(下ッ道)
8.中街道(中ッ道) 9.上街道(上ッ道・桜井から初瀬街道を経て伊勢に通じるため伊勢街道とも呼ばれた
法隆寺から東進して富雄川を渡り 高安の集落を経て平城京の旧北横大路に出ると
筒井村で 平城京下ッ道に相当する下街道に 横田村付近で 同じく中ツ道に相当する中街道に
櫟本まで足を伸ばすと 同じく下ッ道に相当する下街道にそれぞれ合流し
奈良三条へ至る街道は 西側から順番に 奈良街道・下街道・中街道・上街道の四通りの道があった
かつて 下ッ道は平城京の朱雀大路へ 中ッ道は東四坊大路へ 上ッ道は東七坊大路へと繋がっていた
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兵庫県芦屋市の骨董店で見かけた売り物の道標 「天王寺駅・四天王寺・庚申堂」への案内
(左)四天王寺 かう志んだう (右)天王寺すてー志よん 明治期のものである
その他大坂から奈良へ向う峠越道は 尊延寺越 榜示越 磐船越 清滝越
中垣内越(竜間越古堤街道)河内中垣内村〜俵口村 善根寺越河内善根寺村〜俵口村
日下越河内日下村〜俵口村 鷲尾越(辻子越)河内芝村〜山崎村 椋嶺越峠茶屋〜藤尾村
鳴川越六万寺村〜鳴川村 十三越河内神立村〜大道村 大道(おおと)越河内大窪村〜大道村
立石越河内服部川村〜久安寺村 信貴越(越智越・黒谷越)河内教興寺村〜南畑村など
多くの間道が存在していた
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