丸亀街道

天下泰平の江戸時代であっても 農民は疎か町民と言えども 国境を越える他藩への旅は御法度であった
ただし信仰による参詣旅はその限りではなく お伊勢参りに代表される旅が庶民の間で流行した しかし
路銀を工面するためと旅の安全を図るため 多くは「講」を組んでの数名から数十名の規模で旅をした
江戸時代末期の文化文政の頃には 温泉宿の1泊宿泊が許され参詣をかねた物見遊山の旅が可能となった
「こんぴら詣り」は特に畿内からの参詣客を 天満の湊から船で定期的に送り出していた
この船を「金毘羅船」と呼び 日本初のCMソングである「こんぴら船々」という歌まで作られていた
金毘羅船(こんぴらぶね)は 讃岐の宿と大阪の船宿との共同の観光事業で 参詣客を乗せて
大坂と丸亀の間を往来した 日本で初めての観光船であった
途中 室津・下津井などに寄港し通常3〜5日 早ければ2日以内で丸亀湊に着いた
湊からは約3里の道をガイドが案内し宿も決められていたらしい
金比羅船に路銀を支払い乗船すれば 間違いなく「こんぴら参り」が出来る手筈となっていた訳である
また「こんぴら参り」が流行した一因として 象頭山松尾寺の宥光の発案で参拝の土産物として
丸に金の印を入れた団扇を作ったことが 軽くて嵩張らず大いに土産物としてもてはやされ
参詣客によって津々浦々まで運ばれ 口コミで金比羅観光が広まったことも一因とされる
<丸亀市発行 金比羅街道マップ>
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丸亀港の「金比羅講燈籠」
かつて金毘羅詣での客で賑わった門前湊丸亀のシンボルである
今も残る船着き場「新堀湛甫」(しんぼりたんぽ)を天保4年(1833)に築造するとき
当地の金比羅宿の柏屋団次らが発起人となり 江戸地において千人講を作り浄財を出し合い
天保9年(1838)に完成した青銅製燈籠である 台座に「江戸講中」と灯籠の側面には寄進者や世話人達
1357の名前が刻まれている 特に寄進者の中で 最高額の80両を寄贈した江戸本所相生町の
塩原太助の名にちなみ「太助灯籠」とも呼ばれている 対岸の福島湛甫にも2基の灯籠が建てられたが
第二次大戦中の金属回収令により没収され この1基のみ残された
高さ5.28mで蓮の花を模るこの太助灯籠を目印に丸亀港に入港し 琴平高灯籠まで150丁(約12km)の
道のりを参拝客は歩いたのである 1978年には往時の姿そのままに復元され
1986年にはその位置を一段高くして今も丸亀港を見守続けている
丸亀港から金比羅宮参道まで
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寿覚院の山門前「百五十八丁」の灯籠 平成6年移築
南条町の灯籠 明和元年(1764)
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丸亀城
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中府町三丁目
中府の大鳥居 金刀比羅宮一の鳥居
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丸亀湊から移された起点石「従是金毘羅江百五拾丁」と刻まれてる ここにはかつて駕籠かきの詰所があった
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群家町 神野神社
角下組石灯籠
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与北の茶堂跡 道中最大の石灯龍 茶堂は休憩接待所である
入口の橋・石灯龍・丁石・馬乗石・手洗石・印瓦等に往時を偲ばせる
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与北の茶堂跡
角上組石灯籠
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山下の道標「右金刀比羅道 左大川剣山道」と平成の丁石「九十丁」
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百々の辻から丸亀へ
百々の辻から金比羅へ
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横瀬の鳥居 135丁
金比羅側起点石
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金毘羅高灯籠
高灯籠は安政元年(1854)の発願から6年の歳月をかけ 万延元年(1860)に完成した
高さ約27mで 丸亀沖の船に光が 届くよう築かれた
内部は三階建て木造灯籠としては日本1高い 昭和54年(1979)国の重要有形民俗文化財に指定された
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讃岐うどんの店が並ぶ門前町
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重要文化財の旧金毘羅大芝居「金丸座」
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石段113段目に一之坂鳥居と重要有形民俗文化財の備前焼の狛犬があり ここから境内になる
参道の石段は本宮まで785段 奥社までは1368段ある
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桜馬場
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本宮の拝殿
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