2012.04.03 智頭往来 平福宿と大原宿

智頭往来
因幡街道とは 一般的に播磨国・姫路の青山から因幡国・鳥取城大手橋に至る街道を指すが
姫路から佐用町の横坂追分まで出雲街道を併用することと 別ルートとして姫路から宍粟・若桜を経て
鳥取城の大手橋に至る若桜街道の内 因幡街道の觜崎宿東の神岡町追分から播磨因幡の国境である
宍粟市波賀町の戸倉峠までを因幡街道とし 戸倉峠より西の因幡国内では八東往来や若桜往来と呼んだ
そのため出雲街道から佐用横坂で分岐する街道を 智頭往来(智頭往還)または上方往来と称した
智頭往来(因幡街道)宿場地図
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姫路市青山1丁目12-11 西国街道(山陽道)の出雲街道追分
直進が西国街道 出雲街道は右方向へ分岐 出雲街道起点の道標は安政2年(1855)の建立
道標の刻字(五面)
正面(東向き三面中央):圓光大師二十五霊場美作/誕生寺 道
正面中央下部:伯耆国倉吉西町/施主 小松専太郎/世話人下手野村/大野丈助/姫路大黒町/高井利平
正面(東向き三面右):右 因州 伯州/作州 雲州 往来
(下部に里程表記)
是ヨリ津山へ二十り十八丁 倉吉ヘ三十五リ・鳥取ヘ二十九リニ十八丁 米子へ四十二リ
大仙ヘ三十八リ 松江ヘ六十一リニ十七丁・出雲大社ヘ六十リ
正面(東向き三面左):左 備前 九州/金毘羅 宮嶋 往来
(下部に里程表記)
是ヨリ岡山ヘ二十リ一丁 萩へ百リ/田野へ二十六リ 下ノ関へ百六リ
下村ヘ二十七 熊本へ百五十八リ/広嶋へ六十リ三十五丁 長崎へ百六十九リ二十七丁
南西面:すぐ 姫路 大坂/京 江戸 往還
北西面:安政二乙卯年三月建之/為往来安全 下部に石工名あり:姫路?/石工 西川?

出雲街道の起点は 西国道(山陽道)の姫路市青山の道標が立つ辻を起点として
飾西(しきさい)・觜崎(はしざき)・千本・三日月宿を通り 佐用町林崎で千種川を渡り
「右 山さき/ちくさ」と刻まれた道標のある県道53号宍粟下徳久線の下徳久三叉路を
県道547号横坂南光線に直進する 佐用スターリゾートGC西の標高190mの口金近峠を越えると
梨垣内の集落に出る 集落内を西に曲がり国道373号と交差する場所が横坂の追分となる
この追分を南に取れば出雲街道となり約2.3kmで佐用宿に入る 佐用宿より西へ約5kmの上月で
赤穂街道と再び分岐する 横坂の追分からは 北に智頭往来が分岐し また その起点でもある
横坂の合流地点には 道路改修で移設仮置されたものと思われる道標が南東角に置かれている
下に小さな石を挟んで安定させた道標には 正面:右 あか不 古んひら/左 ひめぢ いせ 道
左面:右 いなば/左 つやま 右面:弘化三丙午年 弘化三年(1847)と刻まれている
  智頭往来(因幡街道)を取上げるWebサイトの多くは 国道の佐用坂峠を街道跡としているが
佐用坂峠には旧街道の痕跡が全くないことや 佐用宿と平福宿が近接しすぎている不自然さがある
故に横坂の追分に至る県道547号横坂南光線が 出雲街道であると確信する
明治期に県道が整備される以前は 千種川を渡る橋も現・太田井橋よりも北にあったと思われる
この横坂の追分から北へ智頭往来に入り 約3kmで平福宿に同宿場町を過ぎれば
釜坂峠・大原宿・坂根宿・志戸坂峠・駒帰宿・智頭宿・用瀬宿・河原宿を経て鳥取城下へと至る
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佐用町林崎・太田井 航空写真
出雲街道・横坂追分−智頭往来・大原宿
智頭往来・平福宿
旧播磨国佐用郡平福村で 南北朝時代に赤松氏一族の別所敦範によって利神(りかん)城が築かれ
以降 戦国時代の初頭にかけて 播磨守護であった赤松氏の要衝となった
天正5年(1577)播磨国は 信長の家臣・羽柴秀吉によって平定され その支配下に置かれた
天正11年に播磨国は羽柴秀長の支配となったが 天正13年に大和郡山城に転封され その後播磨国は
分割統治されるようになった 関ヶ原後の慶長5年(1600)戦功により池田輝政が播磨一国支配で
姫路藩が立藩され 翌年に甥の池田由之に平福2万2千石が分与され 利神城を改修城下町を整備した
平福の今に残る町並みはこの時期に出来たものである 慶長14年(1609)3万2千石に加増され
備前国下津井城の城番に転出し 利神城は姫路藩の支城となった
元和元年(1615)輝政の六男・池田輝興が 新たに2万5千石を分与されて平福藩が立てられたが
寛永8年(1631)赤穂藩主の池田輝政五男・政綱の後を継ぐため赤穂藩に転封し平福藩は廃された
利神城は廃城となったが 旗本松平康朗の知行地となり 陣屋が置かれ明治まで支配が続いた
その後 鳥取藩の本陣が置かれ 智頭往来(因幡街道)有数の宿場町として発展した
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また流通集積地として 因幡や美作方面から送られた荷を高瀬舟に積み替え 佐用川の水運を利用して
赤穂まで運んだ 南北1.2kmの区域にある家屋300戸余りの約8割に屋号がつく商人の町となり
昭和初期まで 出雲街道・智頭往来および佐用郡の中心として繁栄したが
鉄道の敷設がされなかったため流通量が乏しくなり集積地としての地位を失った
1994年に 漸く智頭急行鉄道が開通し平福駅が設置されたが 繁栄を取り戻すには至っていない
往時の面影を伝える旧街道沿いにある連子窓や千本格子を持つ古い家並みと
水運で賑わった土蔵や納屋の下から川岸への通路など 山の中の港町ともいえる独自の景観を持ち
川沿いの石垣上の川座敷と土蔵群は 町の歴史的環境保存条例の保存区域指定を受けている
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鳥取池田藩 本陣跡の門
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本陣跡の石橋と宿場街道
智頭急行 平福駅
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智頭急行 智頭線
山陽本線・上郡駅と因美線・智頭駅を結ぶ第三セクターの鉄道路線である
陰陽連絡路線のひとつとして国鉄智頭線として 日本鉄道建設公団で建設が進められていた路線で
昭和55年(1980)に建設が凍結されたが 昭和60年に 沿線の鳥取・岡山・兵庫県の合意によって
第三セクター会社設立準備組織が結成され 昭和61年(1986)5月31日 智頭鉄道株式会社を設立
平成6年(1994)6月 智頭急行株式会社に社名を改め 同年12月3日に智頭線を開業した
大坂と鳥取を結ぶ特急「スーパーはくと」および岡山と鳥取県を結ぶ特急「スーパーいなば」が
智頭線を経由して運行され この特別列車の運行による収益が設立の決め手となった
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京橋から佐用川
川沿いの石垣上の川座敷と土蔵群 史的環境保存条例の保存区域
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宿場の路地
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船着き場
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今はない土橋へと続く堤防道 武蔵決闘の跡地
刑場跡の六地蔵
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土橋から宿場へ続く道
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宿場ほぼ中央にある光勝寺
岡山県美作市宮本
播磨美作の国境である標高353mの釜坂峠を越えると 美作国吉野郡宮本村へと下って行く
宮本村は 郡内72ヶ村の内 43村を所領する播磨明石藩の支配地となっていた
今では 吉川英治の小説によって剣豪・宮本武蔵の生誕地とされている
吉川英治が執筆した小説「宮本武蔵」は 史実と異なる創作部分が多々あり
武蔵自身は その著書である『五輪書』の冒頭において「生国播磨」の生まれと記述している
生年は 寛永20年(1643)から執筆を始めた『五輪書』冒頭の「歳つもりて六十」に従えば
天正12年(1584)となるが 江戸後期の『小倉宮本家系図』及び『宮本氏正統記』には
天正10年(1582)に生まれ 正保2年(1645)享年64歳で没したと記されている
出生地については 上記『五輪書』の他 養子・伊織が建立した『小倉碑文』 江戸中期の『播磨鑑』
加古川市の「泊神社棟札」などの記載から「播磨国印南郡米田村」を生誕地とする説と
江戸後期に著された『東作誌』記述の 美作国吉野郡宮本村で生まれたという美作生誕説があり
吉川英治は美作説を採用した 朝日新聞に連載後 徳川夢声による朗読がラジオで放送されたため
智頭往来が通じる美作国吉野郷宮本村が生誕地というのが 一般人の常識となってしまった
今でも謎が多い若き頃の武蔵ではあるが 播州生まれの作州育ちということもあるかと思われる
智頭急行の駅名は「宮本武蔵駅」大原宿まで約3km 今も寒村であることに変化は無い
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兵庫県佐用郡佐用町延吉 県道161号市場佐用線
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県道240号線の境峠 釜坂峠ではない
宮本武蔵駅 モニュメントも小説が基
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宮本武蔵駅ホーム
宮本武蔵生家 これも小説が基
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宮本武蔵駅から宮本武蔵顕彰武蔵武道館の屋根を見る
岡山県美作市古町 大原宿
大原宿は かつての美作国吉野郡古町村にあった智頭往来の宿場町で 郡内72ヶ村の内
長尾村・坂根村を合わせ3村を所領する常陸土浦藩の飛地支配を受けていた
明治22年(1889)の町村制施行に伴い 江ノ原・下町・辻堂・古町の4ヶ村が合併し大原村となった
明治33年(1900)吉野郡が英田郡に併合された 大正11年(1922)には町政を敷き大原町となった
  昭和29年(1954)讃甘・大野・大吉の3村を吸収合併 大字辻堂を中町に改称した
平成の大合併で 英田郡の美作町・作東町・英田町・東粟倉村と勝田郡勝田町と合併し美作市となった
古町は 北は鳥取県境の志戸坂峠 そして南は兵庫県境の釜坂峠に挟まれた岡山県北東部の山間にあり
平安時代・山陰からの後醍醐天皇都上りや 江戸時代においては鳥取藩参勤交代の道として使われた
智頭往来の中程に位置する宿駅として古くから栄えた交通の要衝であった
平福宿や智頭宿と同様 道の両側に水路があり水が滾々と流れる 江戸時代建築の本陣や脇本陣のほか
重厚な屋敷群が現存して 旧街道の風情を今も色濃く残している
旧宿場町の中心であった大原古町は岡山県の町並保存地区に指定されている
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大原宿散策マップ サイト:okayama-ebooks 美作市/観光・グルメで検索 閲覧可能
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更生橋たもとの三界萬霊碑と元禄2年に建てられた道標 津山道は現在の国道429号に相当する
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更生橋三叉路から宿場側
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宿場町南端に近い七福神瓦の門
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門の前から宿場側
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ふれあい広場前から北向きに撮影
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ふれあい広場の庭園 水琴窟がある
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本陣前
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大原本陣 御成門
参勤交代する鳥取藩主池田候の宿泊に供するために建てられたものだが 幕府の重役や他藩の藩主なども
宿泊した 天明3年(1783)に類焼した記録が残っており 現在の建築物は
寛政年間(1789−1801)の建築とされている 県史編纂室の調査によると
本陣・有元家は宝暦11年(1761)に本陣を命じられ明治に至るとされ
それ以前は 元禄12年(1699)に没した中村亦右衛門孝政が本陣を務めていたことが判明している
数寄屋造の御殿と御成門が 今なおその姿をとどめている
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宿場の中程
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町中掲示板
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観光案内所前から南向き 左側に「火返し」(防火用袖壁)のある家
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観光案内所 書状集箱(郵便ポスト)
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脇本陣長屋門
屋号を米屋と言い 平常時は高級旅籠を営んでいた 文政2年(1819)の建築である
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梅の古木と旧家
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脇本陣長屋門と街道南向き
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路地
智頭急行大原駅
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(有)田中酒造場は唯一の造り酒屋で清酒「武蔵の里」「大原白梅」を醸造する
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