2011.03.29 大分県日田市求町 観音桜

掲示板 慈悲観音建立の由来
日田県百姓一揆で処刑された石工・求来里喜平を供養するため建立す。
喜平は天保六年(1835)足立円平とタカの長男として求来里村(求町)に生まれる。
石工・喜平の足跡
東神社 鳥居と石段(池部町)弘化5年(1845)14歳の頃に作業。
中津街道(石坂石畳道)広瀬淡窓撰文・石阪修治碑(市の瀬町)嘉永4年(1851)17歳の頃に作業。県指定史跡。
日田街道 広瀬淡窓撰文碑(高井町の天満宮)嘉永7年(1854)20歳の頃に作業。約700字の小文字を刻む。
喜平と武道
秋祭りで上井手と求来里両村の青年たちが喧嘩した。喜平は庄屋の息子に万力で腕を締め上げられ、
打ちのめされて三日三晩動けなかった。仲間は帰宅を説得したが
「この哀れな姿で、どうして村人と対面できようか」と強情を張った。翌日、喜平は姿を消した。
剣術を学ぼうと長州に向かい、武家に仕えて文武両道を修め、長州美人と結婚。数年後、立派に成長し帰郷した。
百姓一揆と喜平
明治3年(1870)日田県に百姓一揆が勃発した。凶作続きと重税で農民は飢餓に泣き、新政府への怒りが募って
富豪や庄屋を襲い、役人に立ち向かった。一揆は五馬市の金疑神社から日田、玖珠へ広がり、農民約2万人が
竹槍や鉈、鎌を持って竹田河原に集結。打ち壊しで280軒を破壊、役人など数人が死亡。
この一揆で農民五人が処刑された。
喜平は、豆田の町で馬に跨がる役人の刀を尺八で叩き落とし、そこに暴徒化した農民が群がった。
その時、喜平は「この役人、求来里喜平が討ち取ったり」と叫び自ら罪を破った。
捕らえられて三か月間の拷問の末、翌年2月27日朝、浄明寺川原で処刑された。享年37歳。
喜平の妻は、夫に食べさせる餅を掲いていた時に死を知らされた。
喜平を救おうと細川藩の家来が日田に着いたのを役人が知り、処刑を繰り上げた。
設置者 日田市求町 足立 栄子
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観音堂の周りに早咲きの河津桜が植えられて 近年桜の名所となっている
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満開時期はソメイヨシノよりも早いが 今年は遅霜で花枯れが目立つ
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2011.04.10 大分県日田市西有田 いいちこ日田蒸留所の桜

平成元年(1989)に開設された「ニッカウヰスキー九州日田工場」が 平成11年(1999)に操業停止し
その工場を引き継ぐ形で 三和酒類株式会社の「いいちこ日田蒸溜所」が開設された
桜並木をはじめとする工場内の園地はそのまま引き継がれ一般に開放されている
春は桜 秋は紅葉に訪れる人が絶えない
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三和酒類「いいちこ日田蒸留所」の紅八重しだれ桜
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紅八重桜大島桜
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八重椿
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紅八重しだれ桜
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アンパンマン  画:こうた
大島桜
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