2023.04.23 日田市大字高瀬 高瀬台地

日田盆地は 地殻変動で断層部分が陥没し湖ができた後 約9万年前の火山活動による新耶馬渓溶岩や阿蘇溶岩が
堆積した後再び湖となり その後の河川浸食で形成された夜明峡谷から湖水が排出され形成されたものである
二度の浸水と その後の河川侵食によって盆地周辺には湖岸段丘が発達し 筑後川流域の中央底部には
日隈・月隈・星隈(日田三隈)と呼ばれる 比較的地質の固い丘が残された
高瀬にも標高80mから90m前後の水田の広がる沖積盆地の底 標高100mから150mの畑や果樹園が広がる溶岩台地
それより高い森林・牧野などの山地がある 台地上には古代から人が住み 古墳が分布し銅剣や銅鉾が出土する

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P.亀山公園駐車場 1.河童の水の助 鵜のウータン像 2.大師・地蔵堂・八幡宮 3.水天宮
4.豪潮さんの大梵字岩  5.高瀬天満宮・稲荷社 6.永平寺跡板碑 7.誠和神社・稲荷社
8.NHKラジオ中継局 9.正一位稲荷大明神・石人 10.六体地蔵尊
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散歩道の標高グラフ(河川渡渉部は橋上ではなく河床面)
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大分県日田市中ノ島町 亀山公園
日田三丘陵(日田三隈)のひとつで 日隈山を中心とする公園 別名・日隈公園とも呼ばれる
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紫と白の咲き分けツツジ 突然変異ですが原因は今でも未解明
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国土交通省所管 島内可動堰
河童の水の助 鵜のウータン像
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三隈堰の河川溜まり 上流に向かって 左に旅館街 風力発電所のある鏡山と万年山を遠望する
三隈川の鵜飼は日本三大鵜飼の一つと言われ 秀吉の統治から400年の伝統があり 夏の風物詩として有名である
毎年 5月20日~10月31日の間開催されるが 観光客の減少 水害による遊船の損害と減少 旅行形態の変化など
複合的な要素で 現在・鵜匠を営む家は わずか2軒となり存続の岐路に立たされている
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水力発電施設周辺地域交付金で出来た藤棚
国土交通省 筑後川河川事務所 日田出張所
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歩行専用の台霧橋から見る 親水施設 台霧の瀬(だいむのせ)と旅館街
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高瀬京町 大師・地蔵堂
高瀬京町 八幡宮
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水天宮 安産と水難除けの神 祭神は天御中主神・安徳天皇・建礼門院・平時子の四柱 本宮は久留米水天宮
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日隈山の標高は112.5mあり 中ノ島の標高は82.5mなので 実質は30mの高さとなる
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左の遊歩道を通り三隈大橋の下を通る 三隈大橋は昭和27年に架橋された橋長132mのカンチレバートラス橋
かつては国道210号線の国管理の国道橋であったが 平成19年(2008)の210号線バイパスの開通により
県道9号日田鹿本線の橋となった 橋詰のRC台座の鉄製高灯籠や同じく鉄製の照明灯に昭和レトロを感じさせる
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豪潮さんの大梵字岩
天台宗の聖僧・豪潮律師が水難除けを祈願して岩に金剛界大日如来を表わす種子を彫っている
時は享和2年(1802)仲冬(11月)吉辰(吉日) 崖上には罔象女(みずはのめ)命(または水波能女神)という
神道系の水神が祀られており 河童にまつわる話(河童聞合)も残されていることからみても人々が
水難を畏れていた場所と考えられる なお 豪潮律師が造立を発願した宝篋印塔が日田市内の大超寺や慈眼山
岳林寺など14ヶ所に立塔している 種子の左右に「享和二壬戌歳」「仲冬吉辰豪潮書」
平成20年4月吉日 日田考古学同好会 高瀬生産森林組合 高瀬地区振興協議
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阿蘇溶岩
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日田市漁業協同組合(内水面)の構成員は240人足らずまで激減
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オランダガラシ クレソンはフランス語
高瀬本町で堤防に上がる
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川の上にテグスを張ってあるのは 放流した稚鮎をサギやカモ・カワウなどの鳥による食害を防ぐもの
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19.2km離れた英彦山を遠望する アユ漁の解禁は5月20日
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高瀬川・徳行橋西詰 高瀬琴平町の溶岩台地に建つサッポロビール九州日田工場
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沖積台地にある高瀬天満宮参道口 昭和28年の筑後川大洪水では石灯籠の火袋まで冠水した
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台地下部に建つ天満宮一ノ鳥居と沖積台地上の二ノ鳥居と高瀬本町公民館 公民館は避難場所でもある
中世に高瀬城があったとされる敷地内に天満宮と公民館がある
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高瀬天満宮の拝殿と神殿 右奥に稲荷社
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高瀬本町
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永平寺(いひじ)跡板碑 日田市高瀬本町六五八番地
高瀬には、かつて五ヶ寺といい安養寺、普門寺などの寺が栄え、永平寺もその一つであった。
永平寺は、保元2年(1157)に暗殺された日田郡司大蔵永平の霊を祀るため、その子永俊が建立したと伝えられる。
この永平寺跡とみられる場所に立てられた二基の板碑は、山形の頂部などに特徴を持つ供養塔の一種で、
正面に阿弥陀如来を表す梵字があり、その下に由緒を示す銘文が刻まれている。 それによると一基は高さ約1mで、
応長元年(1311)に沙弥囘(さみかい)という人物によって亡き母の供養のために立てたことがわかる。
もう一基は高さ約2mで、沙弥貫阿(さみかんあ)という人物により正和2年(1313)に立てられたことがわかる。
造立年代が明らかな石塔としては、市内では最古のもので、数少ない鎌倉時代後期の貴重な資料である。
昭和50年3月28日 市有形文化財指定 日田市教育委員会
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溶岩台地へ登る道から振返り 東に標高678mの月出山岳(かんとうだけ)を遠望
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誠和神社参道入口
誠和神社参道
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鳥居の扁額には大神宮とある
樹間から沖積台地の家並み
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誠和神社拝殿
台地上には真新しい稲荷神社の鳥居

 標高140.6mの溶岩台地から見る筑紫山地の大パノラマ
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溶岩台地には水稲を作る程の水利が無いため 畑や果樹園が広がる また上野台地に比べ民家も少ない
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高瀬銭渕町 NHK日田ラジオ第一放送中継局
石人のある正一位稲荷大明神 Google stV
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稲荷大明神境内 大分県指定有形文化財 石人
二基のうち一基は扁平、他の一基は円体の石人である。 扁平石人の頂部は高さ四五糎表に人面、
裏に矢をさした靱を素朴に刻んでおり、もと筑後八女の磐井の墓岩戸山古墳に立てられて いたものである。
天保(1830~44)のころ、これが久留米侯から中津の僧大含(だいがん)に贈られ、
また大含から隈町の山田氏に贈られて、嘉永7年(1854)鏡坂に置かれた。下部の台石はその 時のもので、
広瀬淡窓の詩と青邨の由来を記した銘とが刻まれている。 後、さらに現在の場所に移された。
右の円体石人は甲冑の姿を模し、後年の作であるが由来出所もよくわかっていない。
昭和39年2月2日 大分県指定有形文化財指定
日田市教育委員会
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日田市立南部中学校 茶畑は南部中学の茶園で5月7日に茶摘みがある 今日は育友会による草刈り日
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一尺八寸山(みおうやま)と月出山岳(かんとうだけ)を遠望 難読山名1位と3位
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三隈川(筑後川)右岸・隈町の日田温泉旅館街と左岸の高瀬銭渕の住宅街 左上に英彦山遠望
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稲荷大明神の桜と銀杏 鳥居に続く参道は廃止
川を渡れば大字上野 国道の上野橋
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岩盤を削って流れる小川
日田市上野町
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旧日田往還・筑後久留米道の鏡坂峠を見る
旧日田往還と茅葺屋根の民家
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奉再興六体地蔵尊之祠
六体地蔵尊は長禄4年10月20日 (1460)神領管理責任者安心院修理金吉に依って造立された
宇佐神宮の御神領大鏡に 日田郡5箇所が記載され石井(上野)高瀬が含まれている 5ヶ所は天喜2年(1054)に
神領藤津2ヶ所との交換が太宰府に認可され神宮領となった 平安時代から大蔵氏が神領を請負管理するも
室町時代の動乱期に到り 神宮が直接管理せざるを得なくなったと推考される 宝徳~長禄年間(1449-1460)に
日田郡石井高瀬地区の初代管理責任者として 大宮司の連枝安心院修理金吉が派遣され上野安心院家の初代となった
鏡坂上野天満宮の再興は 元禄元年(1688)と宝暦元年(1750)及び昭和の戦後に行われた
昭和の際に前2回の願文と安心院家累代を墨書した棟板が発見され 明治初年の暴動にて失われた初代からの名前を
明らかにする事ができ時代考証もできた 地蔵尊の龕・幢体と台座は共に初代金吉の生誕地宇佐にて彫像し
日田郡にて造立されたと歴史的資料から推測される 文化庁の専門官の話によると全国的には極めて珍しい地蔵様で
同時代に限られた地方で発達した信仰であろうとの事 往来する旅人の安全加護を願って庄屋安心院家の敷地から
鏡坂の登り口の所有地に何時の時代にか遷座奉祀したとの口伝がある 往時の鏡坂は筑後方面への重要な往還で
昭和の初期までは深い樹林に囲まれた薄暗い切り通しの急坂であった 以来土地の人達には鏡坂の六体地蔵様とか
疣取地蔵様と親しまれ信仰があった 昭和50年代に国道210号線の拡幅工事で鏡坂の御座所が削除される事になり
亡父の正造が急遽自宅地内に遷座仮奉祀申上げた 正造没後歳月の経過で土台の損傷が顕著となり 昭和62年に
御座所の改築に伴い 六本の檜丸柱で支えた六角銅板屋根の下に遷座奉祀申上げた
この度 安心院家の敷地を宅地造成するに当り 南西の一隅を確保再興し佳日を選び遷座御奉祀申上げた
微力・微財にて十分なる手当をした再興には到らざるも 造立の念願を戴し後世までの中継ぎとしての
大任を果たせた事を有難く感謝申し上げると共に 毎日晨朝に拝跪する人々に六体地蔵尊の御慈悲有らん事を庶幾う
平成23年4月20日 願主13代安心院勘右衛門永益より5代目安心院幸敬 謹誌
六体地蔵尊幢体の願文
奉造立六道能化主地蔵薩埵相当為母高禅尼追善寔
長禄四年季應鐘念日 大施主沙門□□叟
每日晨朝入諸地獄令離苦無佛世界度衆生今生後世能
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銭渕橋へ続く旧熊本県道(久留米日田往還)
旧熊本県道の銭渕恵比須社
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隈町 河川敷遊歩道から見る日田代官御用達の旧家・山田家
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山田家の側面
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山田家の店舗側面
日田代官御用達の旧家・山田家
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旅館街表通り 中津街道(英彦山道) 亀山町で左・筑前道と分かれる
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火伏水除地蔵尊之由未
この地蔵尊は、文政9丙戌年(1826)4月15日 隈町の火伏、水除地蔵として創建されたもので以来町民の
厚い尊崇を受けて今日に至る。 隈町は安永7年(1778) 文化12年(1815) 文政5年(1822)に大火があり
町の大半を焼失した。 殊に文化12年の大火には、十七人の焼死者を出し、文政五5年の大火では、
焼死者こそ出さなかったが、火元の娘が責任を感じて入水自殺をしたといわれる。 又隈川を後にひかえて、
洪水の被害や、溺死者も多かったので、之が供養を隈町の火災水難鎮護の為創祀されたものである。
昭和44年5月13日 祭主 亀山亭ホテル
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島内可動堰
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銭渕橋
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ノムラカエデ(野村楓)
学名:Acer palmatum v. sanguineum Nakai
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バーベキューで賑わう亀山公園 本日の最高気温 23.1℃
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