2019.06.25 松原ダム・下筌ダム

松原ダムは 大分県日田市を流れる筑後川本流の上流である大山川に治水多目的ダムとして建設された
一方の下筌ダムは 松原ダムから4.6km上流の津江川に建設された同じ治水多目的ダムである
この2ヶ所のダムは 昭和28年(1953)6月に九州北部地方の福岡・佐賀・熊本・大分の各県を中心に発生した
死者行方不明者1001名・浸水家屋約45万棟・被災者数約100万人という深刻な被害を契機として
筑後川水系治水基本計画に基づいて同時に建設され 昭和48年(1973)に完成したダムで
ともに国土交通省直轄となっており九州地方整備局が管理を行っている
松原ダムは堤高・82.0mの重力式RCダム 下筌ダムは堤高・98.0mのアーチ式RCダムである
ダム建設に際し 地元住民への説明不足に端を発し巻き起こった建設反対運動は過去最大級のものとなった
当初は 日田郡大山町久世畑にダム建設を計画したが町ぐるみの強力な反対にあって断念した経緯があった
後に現在の地点にダム建設を図り 昭和33年(1958)に建設省が水没予定地に住む住民への説明会を実施した
しかし説明会ではダム建設の必要性のみを強調し 肝心の補償問題については一切の説明が無かったとされる
これに対して 室原知幸氏を中心とする住民側は国に対して不信感を抱き
小国町議会で「ダム建設絶対反対」の決議が採択された
一方の建設省側は 土地収用法に基づく立木伐採を強行しようとしたが 室原を含む地主が態度を硬化させ
一切の交渉断絶を宣言して反対住民の組織化が図られた 運動は力を増して翌年には下筌ダム予定地右岸の
崖地に「蜂の巣城」と呼ばれる砦を建て住民が常駐して工事の監視を行った
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昭和28年西日本水害が起きた同年3月の米軍による空中写真
1.松原ダム建設予定地 2.下筌ダム建設予定地 ともに山の迫る狭窄な地形で河床周辺に耕地が点在し
水没によって住民は 耕地を失い生活の糧を失うこととなる
住民側は 昭和35年に建設省に対し「筑後川総合開発事業」の不備を指摘した事業認定意見書を提出したが
建設省はこれを無視して4月に事業認定を行った これに対し事業認定の無効を求める行政訴訟を起こし
法廷闘争となったが 安保闘争や三池争議など全国的に労働運動が盛んな時期であったため 労働組合や
左翼活動家などが支援に乗り出し ダム建設反対運動は大きく左に振れて「反政府闘争」の様相を見せ始め
より良い補償を得ようとする地元住民との思惑とは大きく外れたものとなってしまった
同年6月には 九州地方建設局の代執行に対する乱闘事件が勃発し代表者の室原は公務執行妨害で逮捕された
その後膠着状態であったが 昭和38年(1963)行政訴訟は住民側の敗訴となり即時控訴となったが
長引く膠着状態の中で反対住民が分裂 分裂した住民は代替用地の取得と早期生活再建を進めることとなった
「建設絶対反対」の決議を採択していた小国町議会も条件付賛成に転じ 室原は孤立無援となった
6月に「蜂の巣城」が行政代執行で落城 12月には控訴審でも行政訴訟の敗訴が確定した
翌年の昭和39年7月に 室原は第2蜂の巣城を建設するが昭和40年(1965)6月にこれも行政代執行により落城
同年には 分裂派が推進していた代替集団移転地の造成が開始され ダム本体工事も開始された
昭和45年(1970)6月29日 12年間に渡り反対運動を率いた室原知幸氏が死去し反対運動は終焉を迎えた
知幸氏の死後 建設省は遺族との和解を模索し同年11月に室原家との和解に至った
昭和48年(1973) 昭和33年の地元説明会から混迷を深めたダム建設は 15年の歳月を経て漸く竣工した
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12年間の「蜂の巣城紛争」は 公共事業の在り方に大きな一石を投じたと言われている
利益のみを追求し開発一辺倒であった事業計画は これ以降 受益のみではなく犠牲を強いる地域の生活保護や
産業振興が今までより重要視されることになった 室原知幸が中心となって行政を訴追した訴訟は
ともに憲法に明記される公共事業による公共の福祉と基本的人権の整合性を世に問いかけたものである
ダム竣工の同年には水源地域住民の生活安定と福祉向上を図る「水源地域対策特別措置法」が採択された
知幸氏は盲目的な反政府主義者ではなく ひとえに地元を愛する人物であった
闘争中ダム建設に伴う地域振興と環境整備について度々意見を述べ
結果としてそれらの多くは建設に取り入れられている
「公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない」という室原が残した言葉の意義は大きかった
しかし 成田空港建設に際し「ボタンのかけ違い」と揶揄される地域住民との意志のすれ違いによって
国は またもや同じ轍を踏んでしまった 結局 法とはそれを実行する「人となり」に左右されるのである
完成した松原ダム湖は 地元の特産であるウメにちなんで梅林湖と命名されたが
下筌ダム湖には 後の昭和63年(1988)に 蜂の巣城紛争に因む「蜂の巣湖」の名が付けられている
また 銘板の下筌ダムの文字は 室原自筆による「下筌ダム反対」の看板から建設省が写し取ったものである
2019.04.01 下筌ダム
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蜂の巣公園 蜂の巣湖桜まつり
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下筌ダム管理棟
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春から初夏にかけ 梅雨時期の大雨に備えダムの水を抜く
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2011.03.23 松原湖右岸
湖底に沈んでいた熊本県阿蘇郡小国町浅瀬の棚田と上津江に向かう旧県道の石橋
2019.06.25 下筌ダム堰堤
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下筌ダム堰堤から松原ダム梅林湖の湖底
下筌ダムと蜂の巣湖 水位計は標高210m
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明治33年測図昭和6年部分修正測図 八方嶽(部分) 赤丸は下筌ダム建設地
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旧版地図による熊本県阿蘇郡小国町志屋集落の跡地 現在も氏神の志屋神社は残る
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湖底に沈んでいても数週間で緑が復活する 自然は豊潤でかつ強い
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橋が架けられていた場所
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蜂の巣湖側は旧道も湖底に沈んだまま
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祝川谷と下筌橋
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蜂の巣湖
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少子化と林業の不振で過疎化が止まらない
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